第4話
言い続けられてきた茂樹の言葉が、いいかげん僕の背中を押したのか、あるいは、ほんの少し血迷ったのか。
もしかすると、その両方かもしれない。
次の日、僕は彼女を誘った。
誘ったとはいっても、デートにではない。学校帰りの途中の寄り道にである。というのも、前に貸した本をどうしても購入したいと言う彼女の買い物に付き添うことになったからなのだが、それでも一緒に行くことを僕から切り出した事実は大きな前進だった。
彼女の目的の本は、普通の小説ではなく日本語の古い言い回しや綺麗な表現が載せられた言語集のようなものだった。以前にそれを読んだ彼女は、ひどく感動し、気に入っていたのを覚えている。
「水無月君は、よく本屋さんに行くの?」
隣を歩く藍川さんがようやくタイミングを見つけたかのように言った。僕達は、二人きりで帰っていた。女の子と二人きりで下校するなんて、中学生以来だ。もちろん、今まで交際の経験などない僕だから、その機会もそう多くは無い。そんなこと言い訳の一つにも入らないが、僕は間(ま)に些か困っていた。二人で帰ると、当然会話は付いてくるもので、しかし僕は口下手であり、彼女だってぺチャぺチャとお喋りな方じゃない。そしてなによりやはり話題に乏しい。その中で、彼女はようやく自ら口を開いてくれたのだ。
「うん。入り浸っているって言った方がいいかも。この辺の書店を一通り回るのが日課みたくなっているんだ」
「本当に本が好きなのね」
「本も好きだし、本屋の空気が好きなんだ。それに、本屋って何回もぐるぐる回っていると、毎回少しずつ違うんだ。さっき見たときは無かった本が、今度はあったりして。もちろん、店内を一周しているうちに奥から出してきたわけなんかじゃなくて、前には見過ごしていたところを次に見つけているだけなんだと思うけど。でも、そうやって見つけた一冊が、とてもいい本かもしれない。もしかすると、人生観が変わってしまうほどの作品かもしれない。そんなこと考えながら見て回っていると、ついつい長居してしまってね」
僕は言った。
彼女はこちらを見たまま、優しい顔でそれを聞いていた。
乾き始めた七月の風が彼女の結い上げられた髪を揺らす。意外に近くを彼女が歩いていたことに改めて気付き、僕の鼓動が高鳴った。
そうこうしているうちに、書店に到着した。いつもはもう少し歩く印象があったのだが、彼女と一緒だとなんだか妙に早く感じた。
店内をゆっくりと一周する。彼女の探している本は、比較的簡単に見つかった。
「なんとなく、わかるような気がするわ」
目当ての本を持ったまま店内を半周した彼女が、思いついたように言う。
「水無月君が、本屋さんの空気が好きな気持ち。案外、ぼうっとできるのよね。今、そう感じたわ」
僕はそれに静かに頷いた。共感してくれたことが、少し嬉しい。
「わたしも本屋さんに通いつめて、もっとたくさん本を読んだら、水無月君みたいに素敵な文章が書けるかしら」
彼女は一直線に僕を見て言った。
「文章の善し悪しの基準ってよくわからないけど……。思い付いた感動を書き留めた言葉に、善し悪しはないと思う」
僕が言うと、彼女は不思議そうに小首をかしげた。
「例えば、今感じたこと、思ったことを文章にした時、それはどんな言葉であってもその人にしか書けなかった言葉だ。だから、きっとそれが真実で、きっと正解なんだと思う」
そこまで聞いて、彼女の表情がやっと何かを理解したように明るくなった。
「じゃあ、わたしの感じたことをわたしなりに言葉にしたら、それはどんな文章であっても良いってこと?」
「うん。だって、その時の君の気持ちは、君にしか解り得ないもののはずだから」
すると彼女は、小さく頷いた後、なぜか照れたように下を向いた。その仕草にどきりとする。
「そう……ね。うん。でも、わたしには、少し自信が持てないわ。気持ちと文章は、なかなか重ねることが難しいもの」
彼女は言って、幸せそうに、そして同じくらい切なそうに笑った。
藍川さんのこの態度が、いったい何を意味するものなのか、僕にはまだ解らなかった。
僕達はその後、特に何をするでもなくそれぞれの帰途に着いた。ここまで来ておいて、コーヒー一杯にさえ誘えない僕は、やはり駄目な意気地なしだ。なのに、心のどこかで十分に満たされている自分がいる。彼女と二人で、校外で話せたこと、行動したことだけで、こんなにも満足している。
僕はきっといろいろな意味で幸せ者に違いない。
ここのところ、僕は確かに浮かれていた。
直接的な原因は、どう考えても藍川さんとのことで、よく話すようになったことはもちろん、たったの一度だけだが放課後一緒に書店を回ったり、彼女の携帯のメールアドレスを教えてもらったりしたことは、僕を有頂天にするには十分すぎる要素だった。「あまり他の人には教えないでね」と言われて入手した彼女のメールアドレスは、「もし素敵な本を見つけたときに連絡して」という理由で教わったものだ。一瞬、ほんの一瞬だけ僕は、万一が幾重にも連なって、もしかしてもしかすると、彼女は僕に興味をもってくれているのかも、と思ったが、冷静になってから思い切り打ち消した。そんなわけない。興味を持ったとしても、それは単なる友人としてだ。特に彼女は素直と言うか、裏表があまりない、嘘のつけなそうな人なので、本当に言葉通り、「良い本を見つけたら連絡して」欲しいだけなのかもしれない。考えれば考えるほど、そうである可能性が高過ぎた。
ただの友達。いや、ただのクラスメイト。僕はそこから近付くことは出来ない。
しかし、それでよかったはずだ。今まではただ遠くから見つめているだけだった。それなのに、今の状況を見てみれば、天と地だ。これだけで十分ではないか。僕は僕を誰よりもよく知っている。分相応という言葉がある。何事も、分をわきまえない者ほど滑稽で愚かな者はいない。それを僕は知っている。だから、十分なのだ。
その辺の事情を差し引いても、やはり僕は浮かれていた。だから、とてもショックを受けた。
夏休みまで二週間と迫った日のことだ。
僕はとある噂を耳にした。
『藍川光月は、竹内雅之のことが好きらしい』
出所はわからないが、そんな話が出回ったのだ。
竹内雅之というのは、隣のクラスの男子で、一言で言うと、人気者だった。サッカー部のエースで、背が高くて、頭も悪くない爽やかなやつだ。所謂、イケメンという部類に入る容姿だ。運動部なので髪型こそ手の込んでいない短髪だが、目立たない程度に身に付けているリングやたまに見る私服のセンスなども、現代風でなんとも洒落ている。それは、男の僕から見てもよくわかる。彼も事実、女子に人気があった。
しかし、噂は噂だ。いつになく前向きなスタンスでいた僕だったが、中庭でのツーショットを見たときは、心が折れた。
なんだか余裕で話している竹内と、その隣にちょこんと座って穏やかに微笑み返している藍川さん。肩に手こそ回していないが、その空気はすでに恋人っぽいそれだった。
見た目には似合いすぎていて、僕は逆に笑えてきた。個人的には、藍川さんのキャラクターから考えて、体育会系の人とは付きあわなそうなイメージだったが、それはきっとそうあって欲しくないと願う僕の醜い部分のせいでもあり、それと同時に、あれだけ格好の良い竹内でさえ、総合的には藍川さんにまだ釣り合っていないように見えたからでもあった。どちらにしても、僕はなんと嫌な人間なのだろうと思う。自己嫌悪である。
それからは、もう悪循環のように、タイミングが悪かった。
放課後思い切って声をかけようとすれば、一歩早いタイミングで竹内が声をかけ、休憩時間も、昼休みも、何かと間が悪く竹内が付きまとった。本当に二人は、相思相愛なのかもしれない。たまたま公になっていないだけで、もうとっくに交際は始まっているのかも。そう考えると、胸が痛かった。
僕はもう、子供じゃない。大人かどうかはわからないけど、欲しいものを買ってもらえないからといって駄々はこねない。いや、もともと僕はそんなことはしたことが無いという。でも、僕は今、まさにそうしたい心境だった。
道端に転がって、藍川光月が竹内雅之と付き合うのを、やめて欲しいと手足をバタバタさせて抗議したい気分でいっぱいだった。それがどれほど自分勝手で、情けなく、我侭な主張かも分かっているが、それでも僕は、そうしたかった。
結局、僕はその二週間、ほとんど彼女と話せないまま、夏休みを迎えてしまった。この夏休みを、二人はどう過ごすのだろうなんて考えてしまったときは、もうどうしようもなく憂鬱で、同時に同じくらいの自己嫌悪した。
休みに入って五日目。大量に出された英語の宿題なんてこつこつ始める気にもなれず、かといって読書感想文にも手をつけたくもなく、結局のんびりと自堕落な生活に現(うつつ)を抜かしていることが幸せな時だった。
僕は使い慣れていない折りたたみ式の携帯電話を開くと、ボタンを数回押して、メールの履歴を見る。そこには、比較的上の方に『藍川光月』と表示された文面があった。subは『初メール』、本文は、『ちゃんと送れました?』とだけ書いてある。アドレス交換のときに送られてきたものだ。空メールでも構わないのに、きちんと文を書く辺りが彼女らしい。それを見て、僕は思わず顔が綻んだ。
まだ一度も使っていないアドレス。気軽に送ればいいと、茂樹は言ったが、竹内との噂とツーショットを目撃してからでは、それも何となく気が滅入ってできずにいた。
メールを送ってみようか。
でも、迷惑にはならないだろうか。
送るとしたら何て送ろうか。
文章を作ることは、僕にとって難しい作業ではない。だが、その先頭に『藍川光月への』が付いてしまうと、それは恐ろしい難問になる。
僕はため息をついた。どうして。どうして好きな女の子に、メール一つ打つことができないのだ。アドレスまで知っているというのに。今どうしているか、宿題は進んでいるか、海はもう行ったかとか、嘘でも何か本を勧めてみるとか、いくらでも話題なんてあるはずだ。それなのに、いざメール画面を前にすると、何をどう書いていいやら悩み続ける羽目になる。
僕は藍川さんに拒絶される自分を恐れているのだ。
取り付く島がない状態を、改めて認識するのが怖いのだ。
でも―。
とりあえず、送ってみよう。
そう決心した。
僕は深呼吸をすると、文面を考え始めた。まずは社交辞令的な挨拶から始まって、自分の近状報告、それから相手の……と、そこで携帯の液晶画面の上端に、封筒の手紙マークが出た。程なくして一時的な強制キャンセルがかかり、画面に『メール受信中』の文字がでる。
僕にメールを送る人間なんて、茂樹か両親、あとは数人のクラスメイトか、あるいは―。
液晶画面にその名が表示された。まさかが起きた。僕の心臓が急激に速度を速める。
『sub こんにちは。
お久しぶりです。ご機嫌いかがですか?突然メールしてごめんなさい。少し、相談したいことがあります。いつでもよいので、都合の良い日に会ってお話しできませんか?
―END― 』
彼女らしい文面の彼女らしいメールだった。それにしても、相談とはなんだろう。しかも僕なんかに。そう思ったのは少し後からで、その時僕が思ったことは、もしかして彼女は僕に会いたいのかも、なんていう、どうしようもないことだった。彼女からアドレスを教えてくれて、彼女からメールが来る。きっと一般的にいったら、少しは脈ありと考えてもなんら不思議はないところだろう。しかし、それが僕に、というより、僕と藍川光月に当てはまるかと言うと、正直微妙な問題である。
やはり今回も本当に相談事があるのだろう。でも、なぜ僕に?
いや、考え込むのは後でよい。僕はとにかくその要望に応じることにした。僕の夏休みなど、暇を取ったら何も残らない。
そうこうして、僕らは三日後に合うことになった。
待ち合わせたのは、繁華街に差し掛かる手前にあるオープンカフェだった。夏休みに入っているということもあって、カフェは何処も混んでいるようだった。僕はデートに行くような気分になって、少しだけ服装に気を遣ってみたり、髪型を整えてみたりした。出かけ際に居合わせた母に「変じゃない?」と聞くと、「別に大丈夫だけれど、どうしたの?」と逆に変な顔をされた。
僕がそのカフェに着いたのは、約束よりも十分早い時間だった。
「水無月君」
僕が時計を見ていると、テーブルの一つから名前を呼ばれた。ふと目を向けて、声の方を探す。
居た。彼女だ。
藍川さんは、すでに座って待っていた。
「あっ」
僕はなんと答えてよいかわからず、とりあえず笑ってみた。すると、彼女も緩やかに微笑んでくれた。なんだか、まるで本当のデートみたいで、僕はとても照れくさかった。
彼女は爽快なスカイブルーに白でヤシのシルエットをあしらったワンピースを着ていた。アイスティーが入っていると思われる細長いグラスや、いつもは一つに結わいている髪を下ろしていることもあいまって、避暑地にいるお嬢さんという雰囲気が漂っていた。多少、浮いているようにも見えるが。
僕は彼女の向かいに座り、アイスコーヒーを注文した。焼き付けるような太陽光が、真っ白なテーブルに反射して眩しい。僕は最初に差し出されていた水を、一気に飲み干した。
「こんにちは。早いのね。時間までまだ十分もあるわ」
「君こそ」
僕が言うと、彼女は笑って「そうね」と言った。
「晴れてよかったわ。こんなに気持ちがよいもの」
彼女は晴れ渡る空を見上げて言った。髪は下ろしているが、両サイドの小さな木製の髪留めはつけられたままだった。きっと、彼女にとってトレードマークのようなものなのかもしれない。
「それで、僕に相談ってなに?」
僕が切り出すと、彼女は僅かに戸惑ったように「あ、」とか、「うん」とか「ええと」を繰り返した。
「まずは、呼び出しちゃってごめんなさい、よね」
「いや、それはいいんだ。僕は暇人だから」
言うと、彼女は口を笑いの形に歪ませて、目を細めた。
「……とても、言いにくいことなの。迷惑なことだと思うし。でも、どうしても協力して欲しいの」
彼女にしては、歯切れの悪い言い方だった。
「協力?僕にできることなら、力になるけど」
彼女に頼られるなんて、本望だ。協力?もちろんするに決まっている。彼女の役に立てるなら、なんだってするさ。僕はそう思っていた。
「本当?」
「ああ。でも、僕にできることは少ないよ?」
「いいえ。あなたにしか、出来ないこと」
ふと彼女の顔に憂いが浮かんだ。
「僕にしか、出来ないこと……?」
彼女は頷いた。
「絶対に誰にも言わないでね。わたし、水無月君を信用しているからこそ、話すのだから」
驚くほど、真剣な口調だった。真面目な表情の彼女は凛として美しく、そこはかとない涼(りょう)を感じさせる。
僕は魔法をかけられたように、数十秒の間彼女をじっと見つめていた。
一方の彼女は 目の前のテーブルに視線を落としたまま黙っていた。時折小さく息を吸い込んでは、言葉を口の先寸前でせき止めている。
やがて秒針が一周しそうになったころ、彼女はようやくおずおずと口を開いた。
「わたしね、好きな人が、いるの……」
言ってから恥ずかしいのか、真っ赤になって俯いてしまった。
なんという表情をするのだろう。
その瞬間の切なそうな、幸せそうな、極めてデリケートな表情。こんなに魅力的な表情をこの少女はすることができるのだ。僕はそれに釘付けになってしまい、彼女の言った言葉の意味など理解できなかった。
「その人に気持ちを伝えたくて、色々考えたの。考えたのだけど、面と向って告白なんて出来ないと思ったものだから、手紙を書くことにして。でも、わたしそういう才能無いし、どんな風に書いたらよいか悩んだの。何を書いても、自信が持てなくて。それで、水無月君のノートを見て思ったの。あなたなら、わたしの思いを言葉にできるかもしれないって」
「え、ちょっと待って。話がよくわからないよ」
「我が侭な相談なのはよくわかっているわ。けれど、わたしも本気なの。お願い、力を貸して。あなたの知識を少しだけ分けてくれないかしら」
ああ、そういうことか。
僕はようやく、全部を理解した。それは、僕にとってあまりに切ないものだった。
彼女には好きな人がいて、その人に思いを伝えたくて、ラヴレターを書くことにした。でも彼女は自分の文章に自信が持てない。だから、僕に協力して欲しい。彼女の彼への思いを、僕の多少は広い語彙で素敵な表現にして欲しい。
つまりはそういうことだ。
ストーン、と落ちていく感じがした。僕は、何を期待していたのだろう。僕には何を思い上がっていたのだろう。彼女に好きな男子がいる。こんな特に不思議でもなんでもないことに、こんなにショックを受けてしまうほど、僕は何を望んでいたのだ?
というよりも、その好きな相手というのは、まず間違いなく、竹内だろう。
すでに交際している様にも見えたけど、告白などはしておらず、またされていないということか。
この呼び出し自体に浮かれていた自分を滑稽に蔑みつつも、僕はなんとか、僕であろうと頑張り続けた。
「やっぱり、非常識なお願いよね。ごめんなさい」
彼女はしゅんとなって、悲しそうに目を閉じた。
僕にとって、確かにこれは残酷だ。これはあまりにも残酷すぎる。さすがに無理な相談だ。僕は断れる立場にいるし、そうしたところで誰も僕を責めはしないだろう。いくら好きな子の頼みとはいえ、その子が別に好きな誰かに思いを伝える手助けをするなんて、これほど自虐的なことはない。だが、
「いや、わかった。出来る限り協力するよ」
僕が言ったことはそれだった。自分でも、いったい何を考えているのかと疑問に思いつつ、僕にはそれ以外の答えなんて考えつかなかった。
「でも、君の気持ちを伝える部分は、君自身が考えなくちゃダメだよ。たとえ上手くいかなくても、そこだけは君の言葉でなくちゃダメだ」
僕は言った。無意識のうちにテーブルの下で拳を握り締めていた。僕は内心、悔しくて悔しくて堪らなかった。諦めていたはずなのに、最初から釣り合うわけなんてないと判っていたはずなのに、こんなにも悔しい。
「ええ。それは、わかっているわ。最後、というか、本当に渡す手紙は、殆ど全部自分の言葉で書こうと思っているの。だから、水無月君は、わたしにラヴレターを書いてくれないかしら?ううん。わたしにじゃなくてもいいの。水無月君は、ええと、その……好きな人、いる?」
好きな人。
居るよ。
目の前に。
でも、そんなこと、言えるわけがない。
その問いに、結局僕は答えられなかった。
「もしいたら……その人に宛てると思って、書いてみてはくれないかしら。それを参考にして書くから。この通り、お願いします」
彼女はそう言って、頭を下げた。
好きな人に宛てる手紙を、彼女に書く。いや、僕にとってそれは事実上の告白ではないか。僕は今度こそ、断ろうと思った。しかし、やはりというか案の定というか、僕の頭は一方で違うことを考えていた。いっそ、『別に誰かを思って書いた』ことにして、本当に彼女宛のラヴレターを書いてみてはどうだろう。気持ちは正確には伝えわらなくても、僕の思いは彼女の目に触れる。それだけでも十分ではないだろうか。それはあまりにも、僕らしい。
「わかった。やってみるよ。でも、少し時間が欲しい」
僕が言うと、彼女は「慌てなくていいの」と言った。「我が侭なお願いなのだから、水無月君の都合に合わせて。でも、夏の間の方が助かるわ」
彼女はいつもに増して丁寧で優しいニュアンスの話し方だった。
「なるべく早く完成させるよ。どんなに遅くても休み中には何とかする」
僕が言うと、
「本当にありがとう。お願いします」
と彼女は言った。そう言う表情にも、あの照れたような少しはにかんだような幸せの色が見て取れた。
彼女にこんな表情をさせられる人は、きっと幸せものに違いない。僕は正直に言って、嫉妬していた。誰かもわからないその人に。あるいは、確証もないのに竹内に向けて。
みっともないとわかっている。筋違いなのも。それでも、僕は嫉妬する以外、どうすることも出来なかった。そして僕はそんな自分が、堪らなく嫌だった。人を好きなることはとても辛いことだと、深刻に思った。
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