第5話
庭先のコンクリート台に座り込み、ぼうっと空を眺める。文句のつけようもない青空だ。流れる雲も眩しい太陽も、この清清しい夏の日を完璧なまでに演出している。
それなのに。
打って変わって、どんよりとした気分だった。何もする気が起きず、こうやって青い空をずっと見ていたい。このまま延々と見ていると、だんだん感覚が麻痺状態に陥り、今自分が何をしているのか分らなくなりそうで、更に続けているとそのうち空と一体化する幻覚にとらわれそうになる。僕はなんとなくそうなってみたい気がした。それほどまでに、脱力していたのだ。
ラヴレター、か。
PHSの時代が過ぎ、携帯電話が普及し、Eメールが主流となった現代において、あまりにレトロでどこか懐かしく暖かい。
こんな時代だからこそ、紙とペンを駆使するこの方法は告白という場面において、風情があって良い手段の一つだと思う。
しかし、今僕の抱えているラヴレター事情は些か特殊で、一文字すら書くのに恐ろしいほど気が進まない。
藍川さんからラヴレターを頼まれて五日。僕は色々考えた。考えたが、何を考えるべきなのかさえさっぱり分らないままで今日まで来た。なんとなく理解したのは、終わりが始まったということ。
僕が参考例を書いて、彼女が清書して、それを誰かに渡す。藍川光月から告白を受けて、断る男子がいるだろうか。いや、いない。いるとしたら、よほどの変わり者か、同性愛者だろう。ということは、彼女の告白は実を結ぶわけで、そうなったとき、彼女は今まで通りに僕と話すことがあるだろうか。少なくとも、彼女に恋人がいる限り、間違っても僕と彼女の仲がこれ以上に進展する可能性なんてなくなるわけで、つまりはこれからどんどん彼女との距離は離れていくだけだということだ。やがてそれは元のように、さして言葉も交わさない単なるクラスメイトに戻るのだ。
人間には二種類いて、恋人が出来ると異性の友人と親しくしなくなるタイプと、恋人が出来ても変わらずに異性の友人とも交流を持つタイプがいる。彼女がどちらかと聞かれれば、考えるまでもなく前者で、要するに僕に残された時間は彼女がその彼に告白するまでの期間となる。ラヴレターの依頼を受けた時点で、終わりへの砂時計がひっくり返されたのだ。
そう考えて、だからどうした、と思った。
これではまるで、彼女に告白でもしようとしている人間みたいではないか。時間があったら、どうにかなったのか。彼女に好きな人がいなかったら何か変わっていたのか。僕は頭を左右に振った。何も変わりはしない。結局僕は、何処まで行っても彼女に告白なんてできないのだから。やっぱり僕は滑稽だった。
大きく息を吸って、思い切り吐き出す。
僕はなんて、男らしくないのだ。
いつもうじうじ悩んで、勇気が出せなくて。そのくせ、どこかで高望みしたりもしている。意気地なし。なんてことはない。自分が傷つくのが怖いのだ。
僕は嫌気がさして、家の中にはいった。そのまま自分の部屋に戻ると、机に向かい原稿用紙を取り出す。
いっそ早めてしまえばよい。
一日二日で完成させて、彼女に渡せばよい。
ここまでグダグダ引きのばした僕だが、最後に何とか挽回できるとしたら、潔くさっさと書いて終わらせることだ。
最高の言葉で書いてやろうではないか。
もちろん、藍川光月への僕の想いを。
そう、僕に唯一誇れるものがあるとしたら、この文章なのだ。彼女が認めて褒めてくれたこの言葉の羅列なのだ。
僕はあらゆるメモやノートを引き出しから引っ張り出した。いいな、と思ったフレーズ、キャッチコピー、宣伝コピー、誰かが使っていたもの、自分で考えたもの、友人が何気なく言った言葉……。僕が集めてきた言葉と文章を、精一杯出し切って、最高のラヴレターを書いてやる。
僕は紛れもなく本気だった。
何もせず、何も考えずに人が何かを気付くことは少ない。
行動してみて、初めて発見する物事の方が世の中には圧倒的に多い。何もしないことには、自分自身の能力でさえ計りえない。最近、それを改めて認識した。
一昨日、僕は藍川光月にメールを送った。
内容はもちろん、ラヴレターの件だ。
手紙は一応完成した。だから、連絡したのだ。
ここ数日間で、僕は手紙を何十回も書いた。最初は気取った他人事の文から、自分の素直な気持ちを綴った単純な文、回りくどい言い方をした文、歯の浮くようなセリフばかりを集めた文。様々なパターンで色々書いて、その中からさらに言葉や文節を選りすぐって、それからも何度も書き直した。
そうして完成した手紙文。
これ以上、僕に書くことは不可能だった。あらゆる意味で、その文章が僕の限界だった。だから、見切りをつけた。これより頑張りようがないと悟ったのだ。
今日これを渡せば、事実上僕と彼女のつながりはなくなる。ゆっくりと、着実に。何光年も離れた星の光が、何年後かに地球に届くように。もしかすると清書したものを最終的に確認して、といわれるかもしれないが、それはもうはっきりと断ろう。第一、完成したラヴレターを見てよいのは、渡される本人のみなのだから。
僕の気持ちは妙に落ち着いていた。
文章力を使い切って作り上げた達成感からか、それともその中で何かを悟ってしまったからなのか。はたまた自分の中で完全に区切りが付いて、人間として少しだけ大きくなったからか。
とにかく僕は、冷静だった。
僕は待ち合わせの場所に、街のはずれの方にある自然公園を選んだ。あえて僕がそこを指定したのだ。幸い今日も天気がよく、気温は高いがそれなりに風があって湿度が低い。緑に囲まれたベンチで読み物をするには、絶好の場所だ。
彼女と二人で会う最後の場所にするにも、とても清々しくて良いと思った。近くの喫茶店でも事足りるので、もしかすると場所を変更されるかとも思ったが、彼女は快く返事をしてくれた。
約束の十分前に僕は公園に到着した。こんなに良い場所なのに、家族連れが中心で、若者はトレーニング目的のアスリートくらいしかしない。
公園の門をくぐろうとした時、十メートルほど離れた駐車場の入り口付近に、白い乗用車が止まった。それは恐らく僕の知っている限りベンツと呼ばれる車種であることは間違いないようだった。
こんな高級車で自然公園に来る人間なんているのか、と思いながら眺めていると、その車は駐車場に入る様子はなく、代わりに運転席から降りてきたスーツ姿の初老の男性が後部席のドアを開けた。
なんとなくそんな気はしていたが、そこから降りてきたのは、藍川光月その人だった。淡いペパーミントグリーンのサマードレスに同系色のショルダーバッグ。片手には麦藁帽子。
初老の男性が運転席に戻り車を出すと、彼女は優雅な仕草で手を振り、それを見送った。麦藁帽子をかぶり、もう片方の手に持っていた白い日傘を広げた。
僕はそれを、呆然と見ていた。
彼女は本当にいいところのお嬢さんなのだ。ちゃんと運転手がいて、自分でドアを開けずに降りてきて、何の迷いもなく日傘をさす。比較的庶民的な自然公園には少しばかり場違いで、そのギャップが可笑しかった。
スッと前を向いて歩き始めたところで、ようやく僕の存在に気付いたようだった。
「あら、こんにちは。待たせてしまったかしら?」
優しく微笑んで、彼女は言った。
いつ見ても、何処で見ても彼女は綺麗だった。
「ううん。僕も今着いたところ。それに、まだ十分も前だ」
僕は腕時計を見せる仕草をしていつかの彼女と同じようなことを言った。
彼女はそれに幸せそうに笑って答えると、「入りましょう」と促す。あの後で少し辺りを見回して、首をかしげて日傘をたたみ、何かに頷いて歩き出した。
「天気の良い日に、外で本を読むのも、贅沢な時間の使い方よね」
僕が言うと、彼女は「そうね」と呟く。どういうわけか、彼女はいつもより緊張しているように見えた。
しばらく歩いて、テーブルとベンチが数組並ぶ休憩広場にたどり着く。僕と彼女は売店で飲み物を買って、席に着いた。
夏休み中だが、人はあまり多くない。時折吹く風が木々の葉を揺らし、葉擦れの音がサワサワと鳴る。遠くから鳥の囀りなども聞こえ、心が洗われていく様だ。
「書いてきたよ」
「ありがとう。見せてもらえる?」
「もちろん」
僕は言って、書類ケースから原稿用紙を取り出した。
「これ、全部そうなの?」
僕は頷いた。原稿用紙に五枚。四パターンの手紙の文だ。
彼女はすぐに目を通し始めた。
途中少し微笑んだり、唇を軽く噛んだり、頷いたりしていた。
そして、小さく一つ、熱っぽい溜め息を吐くと、
「素敵……こんな手紙もらったら、全然知らない人でもちょっと心が動いてしまうかもしれないわ」
と言った。
僕はそれに答えなかった。
彼女は不思議そうに小首を傾げた。
「ありがとう。自分でも、そこそこよく書けていると思う」
「そこそこ?」
僕は頷いて答え、数秒間黙っていた。呼吸を整えていたのだ。さらにゆっくり三秒数え、僕は口を開いた。
「……実を言うとね、完成したっていうの、嘘なんだ」
「どういうこと?」
「たくさん書いて、たくさん言葉を追求して。今さらながら、たくさん辞書も引いた」
早くなっていく口調を慎重に押さえ込みながら、しっかりと声を落ち着ける。
「でも、どんなに上手く書けても、どこか違っていた。僕は好きな人のことを思ってそれを書いた。本気で、書いたんだ。だけど、書けなかった」
僕は彼女の目をまっすぐに見つめた。
彼女はきょとんとした顔をして、やはり僕をじっと見つめていた。
「気付いたんだ。文章ってさ、実はとても無力なんだってこと。言葉をたくさん並べてみても、人の想いを上手に表すことはなかなかできない」
僕の中ではもう覚悟が決まっていた。逃げることは容易かった。だが、いい加減、それではいけない気がしていた。僕は僕に、賭けてみたのだ。
「本当に好きな人に、本気で手紙を書いてみて解った。今こうして、読んでもらってみて、なお更よく解ったんだ」
僕は小さく息を吸った。怖かった。たまらなく怖かったが、僕は言うことを決めた。
「たとえ幾億の言葉を紡いだとしても、この想いには遠く及ばない」
かみ締めるようにゆっくり言った。そう、本当の気持ちは、どんな立派な言葉でも表すことは出来ないのだ。
彼女から、すうっと表情が消える。
緊張は、最高潮に達しつつあった。
息が上手く出来ず、鼓動が耳に煩い。
喉が渇いて、引っ付きそうなるのを、ギリギリのところで、回避しようと唾を飲み込む。
そして、僕はついにその言葉を、口にした。
「……僕の好きな人は、藍川光月さん、君です」
彼女は目を見開いた。その大きな瞳には、僕が映っていた。
「え……?」
固まったように動かない彼女。驚くのも無理はない。こんな突然の告白、誰だってビックリする。
「うそ……」
「嘘じゃない。本当、なんだ」
言ってしまっても、僕の心は落ち着いていた。
「だから、ごめん。最高傑作は作れなかった」
答えのわかっている告白は、なんて穏やかなのだろう。できれば、違う方向の答えなら良かったのに。それは、あまりに贅沢か。
「上手な手紙なんかじゃなくても、きっと君の想いは通じるよ。頑張って」
僕は言った。皮肉なんかじゃない。好きな人が幸せになるのは、少なからず嬉しいものだ。素敵な手紙なんて書けなくても、彼女は十分に素敵なのだから。
「それじゃ、僕はこれで」
そう言って僕は席を立とうとした。
「待って」
彼女の立ち上がる音が聞こえて、大好きな声が僕を呼び止める。
「これ」
彼女は言って、バッグの中から一枚の封筒を取り出した。極薄い桜色のそれは、一目で思いを伝えるための封筒であることがわかる。
「はい」
それを差し出す彼女。
僕は彼女が何をしたいのかわからず、なんとなくそれを受け取ってみた。封筒に封はされていない。中身の手紙を書いていないのだから当然といえばそれまでだが、空の封筒を渡された僕はどうすれば良いのかわからない。
藍川さんの顔を見てみる。
彼女は僕と目を合わせないようにしていた。
仕方なくもう少し封筒を観察してみる。反転させて見てみるとそこには小さく何かが書いてあった。
『水無月 仙様』
僕の名前だ。
はて、これはいったい何を意味しているのだろうか。僕は思わず眉間に皺を寄せてじっとその文字を睨み付けた。
「封筒をね、先に用意したの。手紙が書けたら、すぐに入れて渡そうと思って」
彼女はテーブルを見つめて言った。
「でもこれ、僕の名前が書いてあるよ」
言ってから、僕はハッとなった。
「間違いなんかではないのよ。その名前で、あっているの」
彼女はそういったきり、黙ってしまった。
「でも……えっ?」
なんとなく目の前で起きていることの真相がわかってきて、僕は思わず声を上げた。
「驚いたでしょう。ごめんなさい。わたしが、手紙で気持ちを伝えたい相手は、水無月君、あなたなの」
藍川さんは、うつむいたまま口を開く。しかし、すぐにそれを、首を小さく振って否定した。
「ううん。でも、それも嘘で、本当は告白する勇気なんてなくて……。ただ、夏休みになって会えなくなっても、話すきっかけ欲しかったの。どんなことでもいい、なんでもいいから、口実をって考えていたら、ふと思いついたのだけど、その場その場で話をすすめていくうちに、どんどん自然に話ができあがってしまって」
彼女はすまなそうに目を伏せた。
「だってまさか、水無月君もわたしを好きだなんて、夢にも思わなかったから」
「どうして?」
「どうしてって、水無月君、女の子に興味無さそうなんだもの。話しかけても冷たくあしらわれそうで」
「そんなこと、全然ないよ。興味がないんじゃなくて、僕は自分に自信がないから女の子と話さないんだ。話せない、のかな。今時の話題も、流行も全く疎いから話がかみ合わないだろうし、きっと楽しませる事だってできない。だから、あまり話さないんだ」
僕が言うと、彼女は顔を上げて、
「でも、わたしは楽しかったわ。水無月君とお話しするの」
彼女は少し早口で言った。
僕達はまた黙り込んだ。
僕は彼女をじっと見つめ、同じように彼女も僕を見つめていた。
お互いに何かを話さなくてはいけないと思いつつも、この微妙な重さの沈黙がどこか心地良い。
もう何回目かの風が吹いたころ、彼女は手を差し出して言った。
「封筒、貸してくれる?」
僕は封筒をその手に戻す。
受け取ると、彼女はバッグからペンと便箋を取り出して素早く何かを書いた。腕で隠すようにして、そのままそれを封筒に入れる。
「はい」
そして再び差し出された。
「受け取ってください」
僕はそれを手に取り、静かに開いた。
『好きです』
白いシンプルな便箋に小さく書かれた、一綴りの言葉。
あまりにも短いその言葉は、単純明快で、なによりも温かかった。
「文章とさえ呼べないけれど、あなたがいつか言ってくれたように、今の気持ちをそのまま言葉にしたわ」
彼女は言い、頬を赤くして俯いた。
「……ありがとう。世界で一番、素敵な手紙だ」
僕が言うと、彼女は赤い顔を上げて微笑んだ。
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