第6話
2
何をするにも、少しばかり時期がずれていた。中途半端な季節だったのだ。
夏休みは残すところ一週間となっていて、夏祭りはすでにどこも終わり、海はくらげだらけになり、山では生き残りの虻や蜂が凶暴化している。結局残っているのは、一向に涼しくならない真夏の気温と、山積みにされた宿題だった。
残り少ない休みを、僕達は上手く過ごせなかったのかもしれない。僕達はあれから、毎日のようにメールするようになった。話したいことはたくさんあるのに、どれも上手に伝えられなかった。でも、それは彼女も同じで二人とも不慣れな液晶画面で不慣れなやり取りを交わしていた。
僕は唯一映画に誘い、彼女は唯一美術館に僕を誘った。
夏休みは、それで終わりを告げた。
その頃僕達はきっと、まだよくわかっていなかったのだ。行く場所なんて何処だって良いと。二人で行くこと自体に意味があるのだと、気付いていなかったのだと思う。だからなんとなくぎこちなかった。
「な、だから言っただろ?お前は、案外格好いいんだって。いい奴だしな」
休み明け、真っ先に僕たちの関係の変化に気付いたのは、茂樹だった。
「もっと、もっと自信を持て。あの藍川光月がお前を選んだんだ。それだけだって自信の根拠になる」
茂樹は心底、僕の恋が実ったことを喜んでくれた。僕はいい友達を持ったと思う。とはいえ、僕が自信を持つにはまだ至らなかった。
どうも僕は根っからのマイナス思考らしい。
彼女が僕を好きと言ってくれた事実。それさえも、心のどこかで信じられていなかった。だって、夢のような話ではないか。美人で綺麗で優しくて、何でも出来て、いいところのお嬢さんで、みんなが憧れる藍川光月が、僕なんかを選んでくれるなんて。たちの悪い冗談と言った方が、悲しいが納得できる。
毎朝挨拶を交わして、時折一緒に昼食をとって、殆ど毎日一緒に下校する。そんなサイクルの節々において、やっと僕はあの告白が自分の勝手な妄想なんかではないということを、なんとか認識している感じだった。
恋人同士になっても、僕たちの話すことは大して変わらなかった。
僕の持っているどうでもいいような知識、薀蓄を彼女は喜んで聞きたがった。
こんな話しか出来なくてごめん、と僕が言うと、彼女は首を横に振って、
「いつまでも聞いていたいわ。実際勉強になることばかりだしね」
と言った。そういうときの彼女はとても透明感があった。
九月も一週間が過ぎたあたりだったが、その時期になっても、僕はまだ自分と藍川光月が、相思相愛だということを俄かに疑ってさえいた。それはもちろん、彼女を疑っていたわけではなく、僕自身の存在を、とも言うべきだろうか。
その週の日曜日、僕は彼女をいつかの自然公園に誘った。
映画と水族館と美術館に行ってしまったら、もう行くところがほぼなかった。遊園地のような場所も一応浮かんだが、僕にはあまりに不得意すぎた。それ以外のテーマパークは思いの外(ほか)遠く、学生が日曜に行くには少し躊躇われるところだった。しかし、こんな少ないバリエーションで、また先頭に戻ってしまってはいけない気がして、僕は色々悩んだのだ。自分には無縁だと思っていた街歩きの雑誌に手を伸ばそうとまで考えたほどだった。もっと情報を収集せねば。そう思ったが、結局それは次回からすることにした。今回、僕は僕の時間の使い方を彼女に見てもらおうと思ったのだ。どうしてそんなことを思いついたかはわからないが、兎に角そうすることになった。
朝からとてもよい天気だった。
ピクニック日和、とでもいうのだろうか。気温も湿度も、過ごしやすい日だった。
僕達は緑の中を散歩して、所々にあるベンチに腰を下ろして、途中にある売店で飲み物を買って飲んで、また散歩した。いや、時間としては、座っていた時間の方が長かったと思う。
二人で向かい合って座り、 言葉少なに不規則な風の流れと緩慢な時の経過を体感する。枝のゆれる音、葉の擦れる音、風の匂い、季節の匂い……普段の生活ではなかなか感じることが出来ない感覚を、研ぎ澄ますようにして全身で感じる。
恐らくそんなことを、僕達はしていた。
そうしていると、ふいに彼女が僕を見て軽やかに微笑んだ。
僕がどうしたのかと聞くと、
「今日の水無月君は、すごく水無月君らしいわ」
と言った。
「そうかな」
「ええ、とても。リラックスしているように見える」
確かにそうかもしれない。普通の高校生なら、男女関係ナシに殆どが首をかしげるような静かで何もしない時間を僕は過ごすことが多い。別に何かをするのが嫌いと言うわけではないが、何もしないことをする、というのは僕の中で重要な時間だった。
春の温もりと木漏れ日、夏の青空と太陽、秋の夕日と物悲しい風、冬の粉雪と幸薄い日差し。四季を感じてぼうっとしつつ、様々なことを考えるのは、僕が僕であるための自然な行いなのだ。
「うん。そうかもしれない。僕はこういう時間が好きだから。君は退屈じゃないかい?」
聞くと、彼女は首を横に小さく振る。
「わたしも好きよ。こういう時間。ぼうっとできる時にそう出来ない人は、きっとどこか病んでいるのだと思うわ。心が疲れきってしまっていて余裕がないから、それを無駄に感じてしまう。本当はもっとゆっくり、じっくり考えなくてはいけないことが山ほどあるはずなのに。急いで急いで、偶然見えた答えのようなものを、正解と信じ込んでしまう。それって、少し悲しいことよね」
彼女は空の向こうを見て言った。
風が彼女の長い髪を揺らし、日差しが彼女の白い肌を照らす。
やはり、美しい人だと思った。何をしていてもその姿が様になる。こんな人が、僕のことを好きだと言ってくれるなんて、信じがたい。
「ねぇ、一つ聞いてもいい?」
「なにかしら」
「情けない質問なんだけど」
「なに?」
「どうして、僕を好きだと言ってくれるの?」
本当に情けないその質問に、彼女は笑ったような横目でこちらを見た。
「人を好きになるのに、理由なんていらないわ。良くわからないけれど、この人と話したい、この人と一緒に居たい。そう思うことが、人を好きになることでしょう?」
その通りだ。つまらない質問をした、と僕は後悔した。
「ごめん。でも、僕は自分に自信がなくて。だから、君が僕を好きといってくれたことにも、どこか疑問を感じていて。素直に受け止められていないんだ。藍川さんのことは、ずっと好きだったけど、手の届かない雲の上の人のようで、同じクラスになって毎日顔を見られるだけで幸せだと思っていた。隣の席になって、挨拶を交わすようになって、少しだけ話をするようになって。それでも、やっぱり遠い存在だった。ノートを貸して色々話し始めてからは、本当、夢みたいでさ。これ以上望むなんて、贅沢だって思っていたから」
僕は彼女と目を合わせずに言った。
「僕は最近の高校生なら誰でも知っているような話題を知らないし、流行にも疎い。今までは、それで良いと思っていたけど、実際に好きな人と話すようになって、僕はなんてつまらない人間だのだろうと思うことが多くなった。でも、今さらそれに一生懸命になる自分も恥ずかしくて。それで……」
言っているうちに、自分が何を言いたいのか分からなくなってきた。僕が次の言葉に困っていると、彼女は静かに口を開いた。
「流行りの話題は、雑誌を読めば誰でも得ることが出来るわ。『いまどきの話が出来る』、そういうことを気にする子も確かにいるけど、それって、人を好きになるならないには必要のないことじゃないかしら」
僕は顔を上げた。まっすぐに見つめる彼女の瞳と目が合ってしまう。
「あなたは自分に否定的だけど、あなたを好きなわたしから見れば、水無月君はとても魅力的な人よ」
僕の目をしっかりと見たまま、彼女は言った。その言葉には、少しも迷いも感じない。彼女は本当の想いを口にしているのだ。
「わたしだって、自分に自信なんてない。けど、自分を好きになって少しは自分を褒めてあげないと、悲観して生きていかなくちゃいけなくなるわ。わたしは水無月君と話すのが楽しい。今時の話題の話せない水無月君でいい。あまり目立とうとしない水無月君がいい。本の虫で、いろいろなことを知っている水無月君が好き。素敵な文章を書けるあなたが好き。それに……知っているもの。水無月君は凄い人だって。現代文のテスト、いつも上位者で名前が呼ばれている。体育祭の選手になろうとしないけど、本当は短距離で足が速い。嘘がつけない人。一歩うしろから、みんなを気遣っている人。意外に頑固で、自分の信念を曲げない人。ずっと見ていたから、知っているの。だから、自信を持って」
うれしい言葉だった。じんわりと、やさしく心に染み渡る。本当に、僕を見てくれていたのだ、と改めて思った。彼女は僕をずっと見てくれていたのだ。決して目立つ存在ではない僕を。
「ありがとう。凄く嬉しいよ」
いわれた言葉が、とても純粋に嬉しかった。
「僕も、ずっと君を見ていた。綺麗で何でもできるのに、謙虚で優しくて。周りに合わせるのが上手だけど、自分の意見はきちんと持っていて。それに、カーテン」
「カーテン?」
「うん。その日の日差しによって、花瓶の花に日が当たり過ぎないようにカーテンを調節していただろう?それ見て、ああ、優しいんだなって思って。気がついたら、ずっと目で追っていた」
僕が説明すると、彼女は途中でハッと気付いた表情になり、それから少しむず痒そうな顔をした。
「あれは、なんとなくなのよ。植物は光合成するから、日の光をあてたほうが良いとも思えたのだけど、あまりに強すぎるのも暑そうだと思って。曇りの日はその逆。お花の栽培には詳しくないから、ただのエゴよ。自己満足」
彼女は軽く手をひらひらと振って言った。
「大丈夫。そんなことはないさ。夏の花でも強すぎる日差しは逆に枯らしてしまうんだ。理に適っているからエゴじゃない」
僕が言うと、彼女は「よかった」と言った。
「思いやりとか好意とかは、必ずしも相手に幸福をもたらすとは限らないじゃない?優しさだ、親切だと思ってしたことがかえって仇になることも多い。行為を受け取る側の気持ちまで考えて、初めて親切なのではないかと、わたしは最近思うの。だから、自分のしていることに急に自信がもてなくなったりもするのよね」
自分の親切を問う。それが本当に受け取る側にとっても親切であり得るのか。その考え方が彼女らしくもあり、また僕の考えとも似ていて賛同できた。
彼女は優しい。それは彼女を知る誰もが思うことだろう。彼女は人の嫌がることを言わないし、しない。きっと、人との距離がわかっているのだ。接する時間、場所、条件などによって千差万別な人間関係の距離をほぼ正確に把握できるからこそ、彼女を悪く思う者は少なく人気者なのだ。
「そう考えられる君は、とても素敵な人だよ」
僕は言った。
不意を突かれたような彼女は、ぴたりと動きを止めた後、下を向いて頬を染めた。
「水無月君は、面と向って恥ずかしいことをいうのね」
言われると自分まで恥ずかしくなってきて、僕も彼女から視線をそらした。
「そ、それでなんの話から、こうなったのでしたっけ」
仕切り直す感じで顔を上げ、藍川さんは言った。
まだ言葉に動揺の色が見て取れる彼女が可愛らしくて、僕はまた僕らしくないことを口にした。
「ええと……。たぶん、僕たちが両想いだっていう話だよ」
彼女は何も言わず、嬉しそうに目を細めた。
「藍川さん」
「なに?」
「名前で呼んでもいい?」
「ええ。実は、苗字で呼ばれるのあまり好きじゃないの。それに名前の方が音がいいから……」
「いい名前だよね『光月』って。光る、月。空に輝いて、夜の闇を照らす光。神秘的で透き通る感じがして、綺麗な名前だよ」
「ありがと。お父様……お父さんがつけてくれた名前なの。太陽ほど威圧感がなく、それでもしっかりと照らすことが出来る。そんな女性になるようにって」
彼女はとても幸せそうに話した。この子は、きっと大事に、大事に育てられているのだろう。今までも、そしてこれからも。それに対して僕の家がどうとか、そういう意味ではなくて、誰かと交際するということは、そうした家族の思いも一緒に背負うということなのだと改めて感じたのだ。
「光月……ちゃん」
呼び捨てにするのも失礼な気がして、そう呼ぶ。
「はい」
彼女は返事をして、ニッコリとした。
「わたしも、仙君って呼んでいい?」
「もちろん」
何だか彼女はとても嬉しそうだった。
「仙君の『仙』には、どんな意味がこめられてるの?」
「俗世に囚われない人。非凡な才能を持って、一つの道を極められるようにって。僕には、少し過ぎた名前だけど、僕は気に入っている」
「素敵な名前よ。あなたにぴったり。名前負けなんて、少しもしていないわ」
肯定されることが、こんなにも嬉しいことだと思わなかった。
どうしたって、否定されることが多い人生だった。自分自身にさえ、否定されるような。それを、良く知った上で手放しに肯定してくれるというのは、なんとも有り難かった。
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