第15話

数日ぶりに自宅で昼食でもとっていこうかと家に寄ると、玄関先で丁度出くわした母に驚かれた。実の息子を見てそんなに驚かなくてもよいだろう、と思っているのと、母は僕の額に手を当てた。

「大丈夫?そんなに青い顔して。寝不足?すごいクマが出来ているわよ」

 母はそう言って、僕を家の中へ引っ張っていった。

 青い顔?僕はそんなに顔色が悪かっただろうか。確かに体の奥に残る気だるさは多少感じているが、体調で悪いところはない。睡眠に至っては、とりすぎているくらいだ。

 しかし、僕は家の洗面所で鏡を見て、母同様に驚いてしまった。

 僕の顔面は蒼白で、目の下にははっきりと影が落ち、とてもではないが、健康な人間の表情には見えなかった。

「病院、いく?風邪でも何でも、早めに行って治しておかないと。当日に具合が悪いなんて、最悪よ?」

「大丈夫だよ。ちょっと疲れが溜まっているだけさ。今日は良く寝る。心配しないで」

 僕は言った。具合は悪くない。ストレスや疲れは当然ある。きっと、それが少し、顔に出ているだけだ。病院などに言って、逆に本格的な風邪でもうつされたら大変だ。僕は元気と平気さをアピールして、昼食だけ食べるとそそくさと自宅をあとにした。

 今日は休みにしよう。丸一日、ゆっくり休むのも悪くない。体は大事だ。そう言い訳して、僕は部屋に戻る。

 うがいと手洗いをしっかりすると、部屋着に着替えてごろんとベッドに寝そべった。さすがに、休みにしたからといって、昼間から光月と出かけるのは後ろめたい。僕は文字通り、ゆっくり何もしないでいることにした。光月が来る時間までまだずいぶんとある。

 ぼうっとしてみると、なるほど僕は疲れているのかもしれない。特に意識しなくても、だんだんと睡魔が襲ってくる。体はだるい。頭は重い。体力が減っている感じだ。眠りに落ちそうになりながら、僕はうっすらと考える。

 受験まであと何日だろう。

 今日は十二月の二十日。クリスマスまであと五日か。

 今年は、クリスマスなんてやっている場合でないだろうな。

 でも、せっかく光月がこっちにいられるようになったんだし、少しだけでも何かしたいな。

 意識は、すぅっと閉じていった。

 遠くのほうで、やけに鮮明な音がする。聞きなれているのにどこか騒がしく、追い立てられる気がするメロディ……。

 ハッと、僕は目を覚ました。鳴っているのは僕の携帯電話だった。

 途中で起こされる不十分な睡眠のせいで、僕の思考回路はなかなか動かない。何とか頑張って携帯電話の液晶画面を見ると、見たこともない番号からだった。

 間違いか何かだろうか。そう思ったが、僕は一応出てみることにした。

「はい」

 名前は名乗らない。携帯電話では、常識だ。

『ああ、もしもし。そちら、水無月仙さんの携帯電話ですか?』

 あまり聞き慣れない女性の声だった。

「はい、そうですけど。あの、どちらさまですか?」

『あ、私、藍川光月の母ですけれども、今、お電話よろしいですか?』

 その声は、とても落ち着いていた。と、いうより、静かで厳かに聞こえた。

「はい。平気です。どうか、されましたか?」

 僕は精一杯真摯な対応をしようと心がけた。

『あの、落ち着いて聞いてほしいことなのだけれど……』

 光月の母は、声のトーンをもう一オクターブ下げた。

 それから、電話は十分ほど続いた。

 その十分を、僕はとんでもない時間であると感じた。とても長く、重い時間だった。電話を切ったあと、僕はそのまま呆然と窓から外を見ていた。外は曇っていた。雲を見ると鉛色で、寂れた寒さが良く伝わってくる。僕はそれをじっと見ていた。

 その間中、何度も怒りと不安と、疑いと不信に見舞われ、それでも結局元の突きつけられた現実をかみ締めた。

 でも、僕の中にはなんとなく、一つの確信があった。無条件に、僕はそれを信じた。本来ならば、とてもじゃないが信じるに値しないことだ。あまりに馬鹿馬鹿しい。だが、僕はそれを理解し、結論として導き出し、疑わなかった。そして、恐怖すら、感じることはなかった。

 ただ切なくて、引きちぎられそうになった。

 そしてもうひとつ。光月が今日も来てくれるか、それだけが不安だった。

 僕は携帯電話のメールを、本当に他愛もない内容のメールを送った。思えば、彼女が帰ってきてから、初めてのメールだった。返信はなかった。

 今すぐにでも声が聞きたくて、僕は光月の番号を表示したが、怖くてどうしてもコールボタンを押すことはできなかった。

 大きなため息をついては、また外を眺めた。勉強のことなど、完全に忘れてしまっていた。受験勉強などとそんなこと、どうでも良いことに思えてならない。

 殺風景な部屋に座り込んで、だが時々思い出したように立ち上がり、携帯を触り、結局何もせずにまた座る。そんなことを、何十回も繰り返していた。

 数時間が経って、窓の外からエンジン音が聞こえた。

 僕はドアをじっと見つめ、チャイムが鳴るのを待った。一分としないうちに、インターホンが鳴る。一応受話器をとって、彼女であることを確認し、鍵を開ける。よかった、彼女は今日も、来てくれたのだ。まずそれだけでずいぶんと安心した。

 でも、分かっていた。通常なら真っ先に考える、現実的な結果ではなく、有り得ない空想のような結果を僕はまったく疑おうとしなかったのだ。

「お邪魔します」

 彼女はまた、丁寧に告げて部屋に入る。

 僕は相変わらず、彼女を適当に座らせて、コーヒーの用意を始めた。僕の様子が昨日と違うことに、光月は気づいているだろう。察しの良い光月が見逃すわけがない。

 同じようにカップを並べ、ミルクとシュガーをテーブルの真ん中に置いたところで、彼女は口を開いた。

「大丈夫?暗い雰囲気だけど、何かあった?」

 僕は一秒だけ固まり、そのあとで、なんでもない、と言った。

「それよりさ、メール見た?」

 聞くと、光月の顔に一瞬だけかげりが見える。

「……いいえ。ごめんなさい。実は昨日、壊れてしまったの。水の中に落としてしまって」

 彼女は苦笑いを浮かべて言った。

 僕は「そう」とだけ言って黙った。そう答えられては、押し黙るほかない。僕は次の言葉を一所懸命に探した。

「そうだ、どこか、行かないか?」

 人目の付くところへ行けば、あるいはその真否を確かめられるかもしれない、僕はそう思ったのだ。これで行きたがらなければ、確信は一層確かなものになる。

「今から?無理よ。もう夕方だし、仙君、具合があまりよくなさそうだもの」

「僕は平気だよ。ちょっと寝不足なだけだ。どこでもいい。君とどこかに行きたい」

 言うと、光月は困ったような顔をした。

「二人でいるだけでは、退屈?」

「そうじゃないけれど……」

「それなら、ここでいいじゃない。誰にも邪魔されずに、二人きりなのだもの」

 そう呟くように言う彼女には、いつもとは違う妖艶さがあった。緊張が、張り詰め始めた。その緊張は決して、これから二人の関係が進展する、というようなことに対してではなく、何か知ってはいけないことに踏み入るときの、覚悟からくるそれであった。

「どうして、出かけたくないの?別に遠出をしようなんて思っていないよ。ただ、少し商店街あたりをぶらつこうと思ったんだ」

 彼女は伏せ目勝ちに視線を逸らし、何も答えずにいた。

 そして幾らか考えたあとで、

「どうしても出かけたくないの。我侭言ってごめんね」

 と言った。

 なんとしても彼女はそれを隠し通すつもりのように見えた。僕はため息をついて腹を決めた。はやりはっきりと切り出さなくてはいけない。

「さっきさ。君のお母さんから電話があった」

 僕が言うと、彼女は驚いたように顔を上げた。

「最初は、全然信じられなくて。あるわけないのに、たちの悪い冗談で、僕を騙しているのかと思った。けど、それは本当に、真面目な話でさ。信じるほか、ないなって思って」

 僕は光月と視線をあわせずに言った。

「同時に、昨日まで来ていた光月はどうなのだろうって、考えたけど、それも、なんとなくわかっちゃってさ。勘っていうのかな。妙に納得できるところがあった」

 視線を合わせると、彼女は悲痛な顔で僕を見ていた。こんなに追い込まれた表情の光月を僕は見たことがない。言わないほうが、よいのだろうか。そんなことが頭を掠めもしたが、それでは何の解決にもならない。僕は、ついにその事実を突きつけることにした。

「君は、もうこの世界にはいないんだろ?」

 光月の目が、切なさの形に歪む。今にも泣きそうな、そんな顔をしていた。そして何も答えないことは、それが事実であることを表していた。

 光月の母からの電話は、国際電話で、その内容はとても信じがたいものであった。

 三日前に光月は由月さんの運転する車に乗って、そこで事故にあったらしい。急いで病院に運ばれたが、約十時間後、二人は息を引き取ったそうだ。時差から考えると、丁度僕の家に訪ねてきた時間だ。

向こうでの出来事なので、いろいろと面倒が多く、帰ってくるにはもう少し時間がかかる。葬儀は日本でするようだが、いつになるか分からない。

 そう聞かされて、僕の頭は真っ白になった。何をふざけたことを言っているのだ?現に光月は、昨日も一昨日も僕のところに来ていたではないか。話をして、触れ合って……なのに、それがもうすでに死んでいる?おかしな話ではないか。

 でも―。

 彼女なら、たとえ死んでしまっても、何らかの形で僕に会いに来るだろう。逆の立場でも、きっとそうすると思うから。

 幽霊がどうとか、あの世とか、この世とか、そんな世界の仕組みなんてこれっぽちも分からないけど、僕はきっとどちらの立場でも会いたいと願うだろう。

 それなら、死んだ光月が僕に会いに来たとしても、別に不思議なことではないではない。そう納得してしまったのだ。

「ごめん、なさい」

 光月はポツリとこぼした。

「そのとおりよ。わたしは、もうこの世にいないの。でも最後に、あなたに会いたいって強く願ったわ。そうしたら、ここに来ていた」

 実感が湧いていないのは、事実だった。こう話している瞬間にも、僕にはリアリティがない。たかだか電話一本で、光月の死を理解することは出来ない。

「けど、それももうおしまい。これ以上一緒にいると、仙君が、死んでしまうから」

「どういうこと?」

「最近、体調が悪いでしょう?それは、わたしのせい。死んだ人間と長く一緒にいると、どんどん生気を奪われていって、最後には死んでしまうの。なんだか、おとぎ話みたいでしょう。でも、ほんとのこと。それなのに、もう三日も一緒にいて、それもすごく近くにいたから、仙君はきっともうすぐ限界なの。魂が、死んでしまうのよ」

 淡々と、彼女は言った。どうしてこんなときなのに、光月は平気な顔をしているのだろう。いや、冷静を装っているのだろう。そうしていないと、彼女自身が壊れてしまうからだろうか。僕はじっと、光月を見つめた。

「だから、今日が最後」

 彼女の瞳には、もう堪えきれない涙が一筋、静かに流れ落ちていた。

どうして、そんなことをいうのだろう。

 どうして彼女は、こんなときにこんなことをいうのだろう。

 そういう彼女を、僕は本当に馬鹿だと思う。それは僕が彼女に対して、唯一愚かだと思う部分で、その部分も僕はちゃんと好きなわけで。

 優等生である彼女の、優等生らしい答えには、僕は騙されたりしない。そんなことでは、藍川光月の恋人にはなれない。

「言っていることが、おかしいよ」

 冷淡な口調で、僕は言う。

「もし、本気でそう思っているなら、きっと光月は一度も僕のところには来ないだろ。毎日会いに来たり、しないだろ」

 僕は言った。彼女が本気で逢瀬による僕の安否を気遣うなら、最初から会いにはこない。どんなに我慢しても、何も言わずにあの世に行ってしまっていたはずだ。彼女は、そういう子だ。

 光月はついに耐えられなくなって、奇麗な顔をクシャッと歪ませて泣き出した。せき止めていた何かが崩れ去ったように両手で顔を覆って、おいおいと泣き始めたのだ。

「……一緒、に、来て。一緒に……いて」

 途切れ途切れに、光月は言う。これが、彼女の本心だ。僕までも死んでしまうと分かっていても、光月は自分と一緒にいてほしいと。それは奇麗事ではない、彼女の本当の気持ちだ。多分彼女は、その願いが本来望んではいけないことで、本来叶うはずもないことを心のどこかで理解しているだろう。だからこそ言うのを躊躇ったのだし、控えめにしか口にしないのだ。死んでくださいといわれて、すぐに頷ける人間は少ない。増して十七、八の高校生が、決断する問題ではない。

 普通に生きてきた僕が、突然死ぬだの生きるだの、きっとそんなこと、良く分からない。それほどに僕たちの生活から「死」は遠い存在なのだ。その選択を迫られて、即決で首肯するほど、僕は薄っぺらな考えとモラルを持ってはいない。

 しかし。

 僕はふっと、小さく息をついた。

「いいよ。一緒にいよう。ずっと。陽が完全に落ちて、夜が明けて、朝が来るまで、ずっと、一緒にいよう。それくらいには、きっともう二人ともこの世にはいないだろ?」

 泣いていた彼女は、不可解そうな顔で僕を見た。

「どうして……。どうしてそんな嘘」

「嘘じゃない。僕は本気だ」

「信じていないのね。わたしが本当に死んでしまっているって」

「違うよ。だいたい、そんな幼稚ですぐばれる嘘、つく意味なんてないだろ。意味不明な嘘なら、それは嘘じゃなく本当なのさ。だから、それを信じていないわけじゃない」

「なら、どうして? どうして即答できるの? 死ぬのよ? 未来が、なくなっちゃうのよ? よく考えて!」

 彼女らしくもない、激しい口調だった。こんな荒々しい口調を聞いたのは、あの文化祭の帰り以来だ。

「考えたよ。いや、考えるまでもない、かな」

「怖くないの?」

「死ぬのが?」

 僕が言うと、光月は頷く。

「よく分からないけど、多分、怖いと思う。でもさ、君のいない未来を生きていくほうが、ずっと怖いと思うから。だから」

 僕は微笑んだ。

「仙君って、馬鹿な人なんだ」

 ぽろぽろと涙をこぼしながら、光月はつぶやく。

「気づくの遅いよ。でもさ、本当に君がいない世界を、僕はどう生きたらよいか分からないんだ。君に出会ったことで、ううん、君が振り向いてくれたことで、僕の世界は変わってしまったから」

 僕はそっと立ち上がり、光月の側まで行って座ると、昨日のように彼女の両手を自分の両手で包み込んだ。

「自分の人生に、不満はなかった。僕は自分の境遇を、どうとは思っていない。どちらかといえば、恵まれているほうだろう。両親は揃っているし、家族の仲は良いし、特別醜く生まれたわけでもないし、頭は、ちょっと悪いけど、得て不得手はそれなりにあるし、多くはないけど、友達だっているし、親友と呼べる人もいる。目立たない存在でも、冴えない人生でも、それはそれって認めていた。でも同時に、やっぱり、もうちょっとこうだったら、って思うこともあって。それが、君に会って、より明確になった。ああ、僕は僕の人生に満足なんてしていなかったんだって、気づいた。

 僕は、世界には分相応というものがあって、それはきっと絶対的なもので、それを飛び越えられるのは、映画や小説の中の話だと思っていた。だけど、実際に君が僕を好きだといってくれて、ホントに信じられなくて。見るものすべてが、明るく色づいて見えた。嬉しかった。幸福とは、まさにこのことだと、本気で感じた」

 僕は知らず知らずのうちに、涙を流していた。情けないと思いながらも、その雫は止まらなかった。何の涙なのか自分でも分からなかったが、それはおそらく、誰かを愛しいと想う涙であると、僕は思う。

「君は、僕に自信をくれた。勇気をくれた。光をくれた。藍川光月という少女は、僕の世界を変えてくれた人なんだ。その人が望むなら、その人と一緒にいられるなら、きっと命だって、惜しくなんてない」

「仙君……」

 赤くはれた目で、彼女は僕をまっすぐに見つめた。

 僕はそのまま、彼女を抱きしめた。こんなにもしっかりと温もりを感じられるのに、この子はもう死んでしまっているなんて。幽霊というのも、不思議なものだな、なんて不謹慎なことを少し考えた。そんなどうでもよいことを考えられるのは、僕は十分に冷静である証拠だった。ならば、この決意は絶対に変わることはないだろう。

「わたしは、なにもしていないわ。ただ、あなたを好きになっただけ」

 僕の胸で小さな声で彼女は呟く。

「誰かが、誰かを好きなる。それはほんの、些細なことかもしれない。でも、君が僕を好きになってくれたことは、天地がひっくり返るほど、大変なことだったんだよ」

 優しく少女の髪を撫でる。すると光月は、何かを諦めたように息を吐き、体から力を抜いた。さっきよりも、少しだけ受け止める重さが大きくなった。

 僕は片手で頬を撫でると、ゆっくりと口付けた。

 そう、この人以外、何もいらない。

 僕の腕の中で、彼女はもう一度「ありがとう」と言った。

 結局、僕たちは一線を越えることはなかった。越える必要すら、ないのかもしれない。

「やはり、一度帰るわ。もう一度、自分の家も見ておきたいし」

 夜になって、彼女はそう言った。

「仙君も、もう一晩考えて。それで、明日もし気持ちが変わらなければ、一緒に行きましょう」

 僕はそれに頷いた。

 これから、いなくなるのだ。身の回りの整理と、両親に一言、謝らなければなるまい。自分の勝手で、せっかくの命をなくしてしまうのだから。それだけは、申し訳ない。けれど、きっといつか分かってくれる。僕のこの今の気持ちを。この覚悟を。意味不明な内容になるけれど、手紙も書いておこう。そして今夜は、自宅で夕食を食べよう。最後の、夜だから。




朝起きると、とても寒かった。

カーテンを開けて、曇った窓を開け払うと、不安げな空に白い雪がちらほらと舞っていた。雲の隙間から時々顔を見せる太陽が、粉雪とあいまってなんともいえない風情をかもし出している。

これが僕の見る、最後の朝だ。

昨日はあれから、自宅に行って、両親と話した。当然、このことに関しては触れなかったが、意味不明にとりあえず謝って、それから、茂樹にも電話した。部屋を片付けて、あちこち掃除もした。立つ鳥、なんとかというやつだ。

ベッドから這い出ると、僕は顔を洗い、歯を磨いて髪を整え、朝食を食べてから着替えた。顔色は今日も優れない。これから死ぬのだから、当然か。

決意は、変わりそうもない。

とても穏やかな気持ちだった。

もとより、この世界にそれほど執着がなかったのかもしれない。そういえば、生きること自体への執着は、あまり無かったような気がする。

まあ、今となってはどうでも良いことか。

僕は大好きな小説を最後に読み返しながら、光月が来るのを待った。

コーヒーを片手に、本を読む。

僕らしい最期の過ごし方だと思った。

しばらく読み進めていると、また睡魔が襲ってきた。ここのところ、睡魔には襲われっ放しだ。僕は特に抵抗するでもなく、静かに目を閉じた。最期にうたた寝、それもよいかもしれない。

ゆっくり、意識が落ちていく。

光月は言うには、死ぬのは寒くて冷たいらしいが、こんなふうに意識が落ちてゆくのだろうか。

遠くのほうで、声が聞こえた。

その声はとても懐かしくて、暖かくて、心地よかった。僕はうっすらと目を開けたが、目の前は真っ白で、何も見えなかった。

『仙君』

 どこからか、その声は僕の名前を呼ぶ。

 そうか、この声は、光月のだ。

『わたしは、あなたのことが、大好きでした。眠れない夜があるほど。伝えられないもどかしさに泣けるほど』

 この期に及んで何を言い出すのだろうか。嬉しいけど、分かっている。もう、言葉にする必要なんてない。

『わたしは、仙君と一緒にいたい。たとえそれが、あなたの未来を奪う結果になったとしても』

 ああ、分かっている。僕はそれを望んで受け入れたのだ。覚悟は、揺らいでいない。

『すぐに頷いてくれたとき、すごく驚いたけれど、とても嬉しかった。あなたは、わたしのために命さえ、投げ出してくれるのだと』

 安易な決断ではない。それが僕の絶対の意思だ。

『でも……それはやはり、してはいけないことなの』

 そう聞こえて、僕は目を覚ました。今度こそ本当に、夢(・)から(・・)覚めた(・・・)のだ。

「光月、どういうこと?」

 目の前には、すでに光月がいた。ふとあたりを見回すが、ここは確かに僕の部屋で、僕は椅子に座った状態で、外には雪が降っていて、間違いなく、眠りに落ちる前からつながっている現実だった。

「わかって、仙君。やっぱりわたし、あなたに死んでほしくないの」

 僕は思わず立ち上がった。勢いよくではない、静かに椅子を離れたのだ。

「死ねば、一緒に行けるんだ。死後の世界がどうかはわからないけど、少なくとも、今の状態よりは、ずっと長くいられるはずだ」

「駄目よ。あなたは生きて」

「またそうやって、建前を言う。一般では、それが正論かもしれない。周りのことをよく考えれば、それを選ぶのか当然かもしれない。でも、もうそんなこと、どうでもいいじゃないか。僕は君と逝く。そう決めたんだ」

 決して声を荒立てることなく、僕は言った。

「違うの。これは、わたしの心からの願い。あなたに、奇麗事なんて言うつもりはないわ。一緒に来てほしい。けど、あなたは生きてほしい。仙君がわたしの立場だったら?共に居たいと望むと同時に、結局最後は同じことを言うはずよ。だって、好きな人には、生きていてほしいもの」

 光月は笑った。僕の大好きな、あの微笑みを浮かべながら、目からは涙がとめどなく溢れていた。小さな拳をきゅっと握り、精一杯微笑んでいるのだ。

 僕は反論の意思を失った。

 これは、彼女の覚悟だ。

 昨日僕が、死を決めたのと同じように。

 光月は、僕と一緒に行かないことを、僕を生かすことを決めたのだ。

 それは紛れも鳴く、彼女の持つ強さそのものだった。

「仙君、さようなら……」

 光月は静かに言って、僕に背を向けた。学校帰りの分かれ道でそうしたように。送っていった彼女の家の前でそうしたように。いつもと変わらなく、彼女は振り返った。

「光月」

 距離にして、一メートル。僕は、駆け出すようにして彼女の手をつかもうとした。しかし、僕がつかんだのは空気で、小さな背中はどんどんと遠くなっていく。ドアさえすり抜けて、光月の姿は透明になっていく。

 僕はドアを開け放った。

「光月!」

 必死になってあたりを見回し、急いで階段を駆け下りる。

「光月」

 彼女の名前を叫びながら、僕はアパートの周りを走り回った。もう知っている。解っている。光月はこの世界の、どこにもいないのだと。でも、探さずにはいられなかった。叫ばずにはいられなかった。裏庭の方に行ったとき、薄く積もった雪に足を滑らせ、僕は転んだ。膝と、手と、足首が痛んだ。

「光月……」

 地面についた手と足が、じわりと冷たい。僕は雪混じりの土を握り締めて、涙を流した。泣くことに、ためらいなどなかった。なんと情けなく、なんと無力なのか。僕には、消え行く彼女に追いすがることさえ叶わない。

 悲しかった。それは紛れも鳴く喪失感であり、絶望の色だった。僕の世界にはまた、光がささなくなった。

 悔しくて、切なくて、僕は何度も彼女の名前を呼び、何度も地面を殴りつけた。

 そこで、ふとあるものが、僕の視界に入った。裏庭の真ん中にある、小さな花壇だ。僕はそこに、見覚えのある花を見つけた。藍白色の可愛らしい花だ。この時期に何の花だろうと近づいてみると、それは弱弱しい菫の花だった。

『菫の花って返り咲くことが多いんですって』

 光月の言葉が頭を掠める。

 僕はその花に、そっと触れた。

 早春の花。しかし、長く時を経て返り咲く、小さな花。

 控えめに、小雪にまみれて咲く菫。

 それは、忘れて生きてほしい。でも、忘れないでほしいという、彼女の複雑な心そのもののようだった。

 僕はその花に向かって微笑みかけた。涙は止まってはいなかったが、今流れた涙は少しやさしい気がした。

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