勿忘菫
灰汁須玉響 健午
第1話
始まりが存在した時点で、同時に必ず終わりが出現する。その二つは、どちらか一方が単体で存在することはなく、また不可能である。
始まらないものは終わらず、終わりのないものは始まってはいない。
人は終焉を強く思い残すことが多く、逆に始原を確実に覚えているものは案外に少ない。
それは、僕も例外ではなかった。
始まりは、よく覚えていない。十ニ、三年ほど前の話。きっと十七歳の春で、優しい風が程よく吹いていた、そんな季節だったと思う。別に記憶が鮮明にあるわけではなくて、忘れかけた今でもその状況が容易に想像し得るだけだ。推測や憶測の域を出ない。
しかし、終わりは違う。僕はあのときのことを、今見てきたように詳細に話すことが出来る。
その日の天気も、風の匂いも、彼女の仕草の一つ一つでさえ、僕は克明に書き記すことが出来る。それは思い出ではなく、刻印に近い。
痛みと感じる時期はもうとっくに過ぎ去って、皆でやり終えた花火の後のような虚しさだけが、ぽつりと置き去りにされている。
粉雪のちらつく寒い夕暮れを見ると、心の奥の何処かが小さく悲鳴を上げる。その叫びは世界を軋ませ、僕の足元を揺るがす。自分がどんなに踏みとどまっていようとも、揺らぐことを望んでいなくとも、じわじわと侵蝕し、やがて僕をあの季節へと引きずり戻そうとする。
僕は逃げる。
その悲しみに、捕まるわけにはいかないのだ。
ある程度まで逃げると、悲しみは追跡をやめる。諦めたように肩を落として、元の薄暗い奥底に戻る。僕は安堵のため息を漏らし、閉まった扉に厳重に鎖を掛ける。また時間と共にいつの間にか外れてしまう鎖を、丁寧に掛け直すのだ。
忘れるべきなのだろう。彼女でさえ、それを望んでいるはずだ。だが、僕の『あの頃』と『彼女』は、余りにも密着しすぎていて、どう頑張った所で切り離すことは不可能だった。いつも隣には彼女が居て、生活の中心には彼女が居た。
戻ることは叶わず、また戻ってはいけない。戻りたいと願うこともあってはならない、あの頃。
僕たちを取り巻く全てが、可笑しいほど輝いて見えた時代。
いや、取り戻せないからこそ、輝いて見えるのか。
分からないが、それさえもどちらでも構わない。どのみち僕は、そこには帰れないのだ。
思い起こしてみれば、とても不思議なことだったのかもしれない。僕はそれを誰にも話さなかったし、誰もそのことについては触れなかった。ある者は密かに気付き、ある者は全く知らないまま時を重ねたことだろう。でも、僕は真実を知っている。彼女の残した真実を『記憶』という形で記してある。いずれ消えていくものだとしても、それまでは確実に僕の中に存在し続けることになる。
今のうちに、文章にして残しておいたほうが良いだろう。僕の刻印が薄れる前に。
彼女と過ごした、ありふれて平凡で、かつ極めて不思議な時間を。
僕は静かにペンを取った。書いてしまうことで、別の何かにしてしまうつもりなのだろうか。よくは分からない。けれども、とりあえず書いておくことにする。
それが、とても必要な事のように思えてならないから。
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