第2話
1
卯月の風が斜めに吹いて、淡紅色の花びらが散り散りに舞う。
見た目には非常に美しく、思わずため息の出るような春の一ページだが、そのまま視線を舗装された道に落とすと、今度は違う意味でため息が出る。
可憐に舞う桜吹雪は必ず地面に落ちて、その鮮やかさを一瞬にして奪われるのだ。
咲き誇っていた華やかさも、そして宙をひらりと掠めた美麗さも失って、あっけなくも色褪せた醜いただの破片へと姿を変えてしまう。
そうした花弁は無情にも積もり、色汚い芥(ごみ)の山となり並木道を覆っていく。
その刹那に描かれる些細で深刻な寸劇が妙に悲しい。
窓際の席の最後尾から二番目。一人そこから外の景色を見ていると、どうしても詩的な考えばかりが浮かんでくる。
視線を室内に戻すと、相も変わらず何十という人の群れが、いそいそとノートにペンを走らせていた。
黒板では『関係代名詞〈That〉の用法』と言うタイトルで、延々とさして意味を持たない例文が英語で書かれている。
「『John has a dog that swims very well』このthatは、『~するところの』という意味で日本語には訳さないことが多い。これが、もっと複雑な文になると少し厄介になる関係代名詞の『that』だ。だから……」
来年の大学受験ではネックになる、と言って、担当の英語教諭は熱心に黄色と赤のチョークを駆使して説明してくれている。
僕は書きそびれていた部分を急ぎ足でノートに留めると、またぼうっと窓の方を眺めた。今日はどうも集中力に欠ける。授業に対して、決して不真面目な人間では無いと思うが、極たまにどうでもよくなるときがある。こんな、実際に使っているアメリカ人でさえ深く考えてもない文法を、理屈をこねて説明して理解して、果たしてそれは実践で使える技術なのだろうか。そんなことが頭を掠めると、一時的にではあるが急激にやる気がなくなることがあるのだ。
正直言って、今の僕には何処の誰とも知らないジョンの犬がうまく泳げようが泳げまいが、そんなことはどうでもよい。たとえそれが英文になったとしても関係ない。
黒板に書き足されていく似たり寄ったりの例文を横目で流し、僕は僅かな通路を跨いで右斜め前隣を見た。
見ていることを気付かれないように、視線や顔の向きを変えて盗み見る。
そこには、小柄な少女が背筋をピンと伸ばして真剣に前を見つめていた。ここからでは彼女の顔が見えないのが口惜しい。僕は少しだけ彼女の顔を思い描いてみる。常に潤んでいるような大きくて優しい瞳に、高すぎない鼻、小さな口。艶やかな長い黒髪は、白のリボンで一つに結わいて、耳の前に生え下がる両サイドを木製の小さな髪留めでくくっている。もみあげを流れ落ちる髪を髪留めでくくっているのは、この学年でもこの学校でも彼女だけだ。
藍川光月(あいかわみつき)
美しい名前の彼女は、名前に恥じない美しさを持っていて、本当に同じ世界に住んでいる人間なのかと疑いたくなる。本当に美しい人に対しては、「美しい」という以外の感想を述べるのが、困難であるのだと初めて知った。
凛として可憐で、何もせず立っているだけでも気品の漂う彼女は、噂によるとどこかいい所のお嬢さんらしい。二年に上がる時のクラス替えでクラスメイトになって数日、彼女と話したことはまだない。
藍川光月のことを耳にしたのは、入学してすぐだった。一年生も一ヶ月を過ぎる頃までは、男子の間でその話題が必ずといっていいほど上がったものだ。彼女は僕の二つ隣のクラスで、噂を仕入れてきた友人たちはその姿を一目見んと、休み時間になると教室を出て行き、開きっぱなしのドアから彼女を眺める、という習慣が何日か続いていたのを覚えている。それはもちろん僕のクラスメイトだけではなく、他のクラスからも数十という人が、かわるがわる来訪していたようだった。何とか彼女と親睦を深めようと、あらゆる人があらゆる手段で彼女にアプローチをかけていた。
僕だって、例外ではなかった。
でも、僕は彼女に声をかけることはしなかったし、出来なかった。
僕は藍川光月のことが好きだった。
長い髪が好きだった。大きな瞳が好きだった。ふとどこか遠くの虚空を見つめる仕草も、透き通るような真剣な眼差しも、穏やかな笑顔も好きだった。
本当は話がしたい。僕に向けられる声が聞きたい。もっと仲良くなりたい。
だけど、僕には高嶺の花だ。僕はそれほど明るい人間ではない。流行にも疎い。話題も偏っている。
今注目されているブランドも知らないし、噂の喫茶店もグルメも知らない。流行りの歌も歌えないし、携帯電話だって友人に言われて最近やっと持つようになったばかりでメールも上手く早く打てない。そんな僕が、仮に藍川さんと話すことがあったとしても、彼女を楽しませる話なんて出来るわけが無い。だから……。
僕は彼女を見ているだけで幸せだった。
授業が終わり、彼女が席を立つ。藍川さんは、休み時間の間、決まって窓際の一番前の空間で仲の良い女子二、三人と話をする。黒板の途切れる左側、教卓とは別の台が設置されていて、それは小さな本棚のように連絡のプリントなどを入れておく場所になっている。他のクラスではその上に何も乗っていないのだが、僕のクラスの担任は女性で、その所為か小さな花瓶にさした花を飾ってある。彼女はいつもその花の隣に佇んで話をしているのだ。
「よう、仙(せん)」
ぼぅっと目で追うようにして彼女を見ていると、突然声がかけられる。前の席から僕の名前を呼んだのは、三嶋(みしま)茂樹(しげき)だった。彼とは中学からの仲で、おそらく一番親しい友人だ。
「お前、また藍川光月のこと見てただろ」
そう言って、整った顔をニヤリとさせる。彼は完全に二枚目のいい男だった。おまけに勉強も出来てスポーツ万能、背も高いと何でも揃っている。
「うん、少しだけ」
僕は答える。すると茂樹はつまらない、といった様子で息を吐いた。
「あのさ、そうやって普通に返されると、なんか話が広がらないだろう」
「ああ、すまん」
「別に謝らなくていい。お前のコミュニケーション能力の低さは今に始まったことじゃないしな」
非難とは違う、丸いニュアンスで茂樹は言う。
「気になるのか?彼女」
「うん……」
僕が言うと、彼は笑ったようにため息をついた。
「好きなんだろ?」
「うん」
「素直なやつだな……」
「だって、茂樹には嘘ついてもしかたないし……」
茂樹は小さく笑った。
「案外、お前みたいなやつが藍川光月を射止めたりしちまうんだよな」
「そんな。それは無理だよ。だって、断り続けているんだろう? 何人からも告白されているのに」
僕は言った。やはりと言うか、さすがと言うか、藍川光月はモテる存在だった。校内はもちろん、他校の生徒からも告白を受けたとの噂すらある。それなのに、彼女には恋人どころか、男友達さえ殆どいない。それは、男子と話さないとか、人とコミュニケーションをとらないとか、そういうことではなく、ただ単純にあまり興味が無いように見える。あくまで僕独自の見解でしかないが、彼女は何に対しても興味が薄いように思える。それを特有の雰囲気のよさで隠しているように思えて仕方が無いのだ。
「分からないぞ? お前は中々個性的だからな。お前と似たようなやつなんて、そうそういない。それに、他のやつはなんていうか知らないが、俺はお前を凄く面白いやつだと思っている。だから、何年もこうしてつるんでいるんだ」
茂樹は明るく笑いながら言った。
「でも、もし本気なら、積極的に行くことだけはアドバイスしておくぞ。押しが弱い恋は成功するはずが無い」
彼は満足そうに口の両端を上げて、前を向いた。次の授業の準備を始めるようだ。
僕はまた、視線を少女に戻す。
休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴ると、彼女は日の強く差し込む窓にカーテンを引いて、自分の席に戻ってきた。彼女がカーテンを引くのは決まって日差しの強い日で、それも席に戻るときだ。僕は不思議に思っていたが、最近その理由がわかってきた。きっとあの花瓶の花だと思う。いくら花とはいっても、極度の日差しに強くは無い。摘んでしまった花は尚更で、今飾られている桔梗は夏の花だが、強い日差しを浴び続けると逆にしおれてしまう。彼女はきっとそれを気にしているのだ。放課後、花瓶の水を取り替えているのを見たこともある。そんな心遣いが出来るところも、僕は好きだった。
僕がもっと、格好良かったら。もっと器用で、流行に敏感で、社交的だったら。少しは、彼女と付き合える可能性もあったかもしれない。
誰かを羨ましいと思ったことは無いが、憧れた事はたくさんある。
ああなりたい、こうなりたい。願望はある。でも、根本は変えられないし、変えようがない。だから僕は、変に背伸びをしたりはしない。背伸びして、無理をし続けると、僕は僕じゃなくなる気がして怖いのだ。
それよりも、僕にしかできないことをしたほうが良い。それが何なのか、本当にあるのかどうかは別として。でも、それを見つけて、誇れるほどに出来たなら、ほんの少しだけ藍川光月と話がしたい。
そう、思っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます