第10話

修学旅行を終えた後の二日は、休日となっていた。旅の疲れを癒すという意味のそれなのだろうが、僕にとってはそれどころではなかった。面と向かって話すことにしたのだ。それを行動に移さねばならない。

 旅行明けの休日は運良く火曜日だった。火曜日は、光月の習い事のない日だ。特別な先約がない以上、空いているはずなのだ。

 僕は前の日(つまり旅行から帰った日の晩)に電話をして、彼女をいつもの自然公園に呼び出した。場所はどこでも良かったが、人のいないところが良かった。半ば一方的に約束を取り付けて、彼女がまだきちんとした返事を出す前に「ずっと待っているから」とだけ言って、強引に切った。もしかすると、折り返し掛かってくるかとも心配したが、結局掛かってこなかった。どうしても行けない用事はないということだろう。そうなれば、あとは光月の気分の問題である。

 僕は約束の時間の遥か前に起きて、かなり前に家を出た。先に行って、少しぼうっとしたかったのだ。

 もしかすると、僕の無意識な何かが原因で彼女を怒らせているのかもしれない。当然、それ以外にも考えれば考えるほど、僕に非がありそうで怖いことこの上ない。正直に聞く以上、それなりの覚悟が必要で、多少はイメージトレーニングもしたかった。

 僕は入り口からすぐのベンチに腰を下ろした。

 季節は秋。もうすぐ冬だ。この時期の自然公園は、悲しいほどに無人で、また寒かった。ほんの少し前まではあんなに暖かかったのに。その温度差のおかげで木々はどれも色とりどりに紅葉していた。この景色もまた贅沢なものである。

「こんにちは」

 ぼうっとしていた頭を現実に戻したのは、心地の良い声だった。振り返らなくてもわかる。この声は、光月だ。だが、あまりに早い到着ではないだろうか。

「あなたのことだから、きっと早くに来ていると思って」

 彼女は言った。

「行くとも行かないとも言っていないのに、勝手に切ってしまうんですもの」

 困ったようにつぶやいて僕の隣に座る。その表情が、まるで聞き分けのない子供を見つめる仕草に似ていて、僕はどきりとする。僕との間には、二十センチほど距離が置いてあった。

 それでも、今日の彼女はそれほど拒絶的ではないように見える。

「ずっと、話がしたかったんだ」

 僕が言うと、光月は足元に目を落としたまま小さく頷いた。

「あの、単刀直入にきくけど、何か悪いことしたかな。いろいろ考えたんだけど、僕は鈍いし、気が利かないから、本当に全然わからなくて」

 僕は言った。本当に直接的な問いかけだった。

「な、何のことかしら。あなたは、何も悪いことなんてしていないでしょう。そもそも、どうして、そんなことを聞くの?」

 しれっと言い放ったつもりの彼女だが、明らかに無理をして言っているのが見て取れる。

「とぼけないで。じゃあ、なんで避けるのさ」

「避けてなんていないわ。ちゃんとお話だってしているし、確かにここのところ一緒に出かけてはいないけれど、それは用事があるからで……」

 どんどん声が小さくなっていく。それに光月は、今日一度も僕と目をあわせようとしない。あんなに目を見て話す子なのに。

「本当に?」

 僕は聞いた。

 地面を見たまま、彼女は頷く。

「光月ちゃん、僕の目を見て言って。本当に避けてない?本当に、なんでもないの?」

 彼女の顔を覗きこむようにして、僕は言った。

 やっと目が合って、光月の体に緊張が走る。

「お願い。何か気に障ることがあったのなら、言ってみてよ。それが一般的にどうかとか、直せるかどうかは、また別の話としてさ。光月ちゃんが気になったこと、話してほしい」

 思っていたよりも、遥かに必死な自分がいた。これで本当に何もないと言われて突き放されてしまったら、それこそ終わりだ。それだけはなんとかやめてほしかった。

「……ごめんなさい」

 じっくりと間をおいてから、彼女は言った。

「仙君は悪くないわ」

「それなら、どうして?」

「恥ずかしいから、言いたくない」

 光月は顔をぷいっと逸らして、また黙ってしまった。

「どんなこと聞いても笑わないから、話して」

 なるべく穏やかに僕は言う。このままだんまりを決められてしまったら、前に進まない。

「嫌よ」

 光月は首を振って言った。

「話したら、仙君はわたしの嫌いになるかもしれないもの」

「大丈夫だよ。嫌いになんてならないから」

「なるわよ」

「ならないって」

「なるわ。わたしは、自分がすごく嫌いになったもの」

 いじけた表情で、彼女は呟いた。

「きっと、それでも僕はならないと思う。多分、君が自分のことを嫌いになっても、僕は光月ちゃんのこと、好きでいられると思うよ」

 僕が光月を嫌いになる理由。今の僕では、どう考えても思いつかない。

「本当に嫌いにならない?」

「うん、ならない。約束する。だから、言ってみて」

「うまく言えないけれど、いい?」

「うん、聞くよ。聞かせて」

 僕が言うと、彼女はしぶしぶ話し始めた。

「仙君、人気者になってしまったから。前よりも、たくさんの人と話すようになって。女の子とも多く話すようになって。最近は、昌子ちゃんとも仲よさそうだったし……。仙君が賞をとって、わたしも凄く嬉しかった。でも、その分、何だか遠い人になってしまった気がしていたの。そう思ったら、とても不安で、とても怖かった。本のこともそう。いろいろな本を探して教えあうのは、わたしと仙君の始まりだったでしょう?だからそれを二人だけの特権みたいに勝手に思っていて、全然そんなことあるはずないのにね。昌子ちゃんに本を勧められた話を聞いて、変に不安になったり、イライラしたりしたの」

 自分の中の感情を探るように、ゆっくりと、少しだけ短絡的に彼女は言った。

「帰りも、なかなか一緒にならなかったでしょう。それも重なって、このまま離れていってしまったら、どうしようって、考えてしまったわ。でも、それって全部わたしの我侭で、嫉妬、でしょ?自分はなんて独占欲が強くて嫉妬深いのだろうと思ったら、今度は自分が嫌いになった。あとは、悪循環。どんどんストレスにもなってきていたのね。文化祭でも、表向きはいつもの自分で居たいから、普段どおりにしていたけれど、せっかく仙君と二人で回れる時間も削られてしまうし、もう心の中はぐちゃぐちゃで、気づいたら怒鳴っていたわ。でもあのあと、ものすごく後悔して、仙君に嫌われちゃったと思った。何だか、ヒステリーを起こしたみたいで、恥ずかしかったわ。そうしたら、もうどういう顔してあったらよいか解らなくて、ずっと避けていたの」

 最後のほうは、涙声だった。

 彼女は、不安だったのか。少し話す時間が減って、一緒に帰れる日が減って。ほんの僅かな不安が、日に日に、いやもっと、時間単位で積み重なり、彼女に心細い思いをさせる結果になってしまったのだ。

 僕は純粋に反省した。わかっていなかった。ばか者だと思った。少し考えれば、わかることだったのに。僕は勝手に何か誤解をしていることに気づいた。

僕にとって、彼女は未だ雲の上の人のような存在であり、実際もそうであると思っていた。それはつまり、突き詰めていくと、僕が嫌われたり、振られたりする可能性はあっても、その逆はありえない、という考えであった。そして、この恋に関して、僕は不安を感じても、彼女は不安を感じないだろうという思い込みでもあるのだ。でも、それはまったく違った。僕が彼女に嫌われたくないように、光月も僕に嫌われたくないのだ。そのあまりに当然過ぎる事実にいまさら気づくとは、僕はなんて愚かなのだろう。

「ごめん」

 僕は言った。

「僕は、何か勘違いをしていた」

 言うと、彼女は不思議そうに僕を見た。

「君は、僕に嫉妬なんてしないと思っていた。あ、それはその、『してくれない』って、思っていたんだ」

「そんなこと……どうして?」

 それはきっと、僕の劣等感だ。身分違い、というと少し語弊があるかもしれないが、実際に僕の感じている不安はまさしくそれに近いものがある。光月との恋に、僕はまだ自信を見出してはいないのだ。

「思いが通じたこと、君が僕を好きだと言ってくれたこと。今は全然疑ってなんていないし、わかってはいるんだ。情けないけど涙が出るほど、嬉しい事実だよ。でも、心のどこかで本当は未だに手が届いていないんじゃないかって気がするんだ。やっぱり、僕には自信がない。自信が持てない。悔しいほどに、前向きになれない。まだ、遠くに感じているところがある。いや、違うかな。きっと、怖いんだ。面と向き合って、自分をさらけ出して、君に嫌われるのが、怖いんだ。『自信がない』っていうも、多分逃げる言い訳で、臆病なだけなんだよ」

 僕は自分が傷つきたくない。ずっと、そうなのだ。彼女を好きになって、そしてそれに彼女が答えてくれてなお、臆病な僕は、逃げ続けている。それは本当に自分でも情けなく、悔しかった。

「きっと、知らず知らずのうちに、多くの何かがあなたを傷つけてきたのね。きっと、わたしもその一人で。だから、あなたはそんなにも……」

 とても穏やかな声で彼女は言った。悟りの言葉のようにも聞こえた。

「そんなこと、ないよ。僕はただ……」

 僕は傷ついてなどいない。そう思って言ったのだが、それが上手く言葉に出来なかった。

「ねぇ、仙君。こんなこと聞くのは、あまり好きではないのだけど、わたしのこと、本当に好き?」

 僕は頷いた。

「たとえば、わたしが仙君を嫌いになったとしても?」

 一秒だけ、考えた。まだ彼女と話す仲になる前、報われない恋だと思っていても、僕は彼女が好きだった。

「好きだと思う。嫌いになんてきっとなれない」

 そう答えると、彼女の小さなため息が聞こえた。それはどこか、安堵の息に思えた。

「同じなのよ。わたしも。多分、仙君が誰か違う人を好きになっても、わたしを嫌いになっても、わたしは仙君を嫌いになれない。好きなまま。それがどういうことか、わかる?」

 彼女は言って、今度は逆に僕を覗き込むように見た。

「たとえあなたがなんとも思っていなくても、あなたを好きな人間はいるということよ。だから、もっと自分を好きになってあげて。前にも言ったけれど、わたしも自信なんてない。周りがどう思っていても、それを自分で認識するのは、別問題だったりするの。わたしも、うじうじしている。後ろ向きにだってなる。弱音だっていつも言っているわ。そう、だってわたしは、告白なんてできないくらい、自信がなかったのですもの」

 重みのある言葉だった。でも、その重たさは、なんとなく心地よくもある。そういえば、彼女は最初、告白するつもりなど無かったと言った。そんな勇気は、自分には無かったと。だからああして、ごまかすように手の込んだやり方で、僕との仲を切り出した。

 端から見れば、彼女は万能に見える。正面きって戦えない相手など、いないように見える。でもそれは、彼女の才能が見せる幻影で、空虚な幻なのかもしれない。実際の彼女は、誰かに恋することに不安を抱く、等身大の一人の女の子なのだろう。

そうか、と僕は思った。僕は、彼女のことが見えなくなっていたのだ。付き合い始めたことで、かえって僕は藍川光月を神格化してしまっていた。何てことだ。一番同じ目線で見てあげなくてはいけない存在なのに。ここ数週間、光月の不安は、そんなところからも感じたのかもしれない。

「ありがとう。それと、やっぱりごめん。僕、頑張るよ。もっと、自信を持てるように。そして、もっとしっかり君の事を見る。だから、仲直りがしたい」

 仲直りがしたい。口にすると、思った以上に恥ずかしい台詞だった。しかし、それは紛れもなく僕の純粋な思いでもある。

 彼女は照れたように小さく頷いて、それから首を横に振った。

「謝るのは、わたしのほう。だって、わたしが勝手にやきもちを妬いて、大声を上げて、仙君を避けていただけですもの。だから、わたしのほうこそ……仲直りしてください」

 彼女は言って、とても控えめに手を差し出した。握手のつもりのようだ。仲直りの握手。その発想が、似合わないくらい子供っぽく思えて、心が温かくなった。

「もちろん」

 僕は勇気を出して、その手をしっかりと握った。小さくて細くて、ちょっとだけ冷たい。

安心と、嬉しさと、それに類似するいろいろな感情が合わさって、胸の中に流れ込んだ。よかった、と心底思う。自分がどれほど彼女のことを好きか、どれほど彼女に嫌われたくないかが改めてわかる。そして気づく。大切なことに。

「今の僕にも、絶対に自信を持てるものが、ひとつだけあった」

 僕が言うと、光月はまた小首をかしげた。これは彼女の癖のような仕草なのだ。

「君を好きだというこの気持ち。これだけは、僕の自信だ」

 光月の頬が、見る見る赤く染まる。

「あ、そうだ。光月ちゃんにお土産、じゃなくて、プレゼントがあるんだ」

 僕はポケットから、小さな包みを取り出した。修学旅行の京都で買った、あの貝殻の口紅だ。

「はい」

僕は差し出した。

「開けてみて」

 受け取った包みを、促されるままゆっくりと彼女は紐解き始めた。

「見つけたときに、すぐに思ったんだ。きっと君に良く似合う色だって」

 中身を見て、彼女は子供のような顔になった。

「ありがとう。実はこれ、買おうかどうしようか、すごく迷って、結局買わなかったものなの」

 光月は幸せそうに微笑んで、もう一度ありがとうと言った。彼女こんな幸せそうな顔を見るのは、しばらくぶりの気がした。

「素敵よね。風情があって、可愛いわ」

「今度、つけてみてよ」

「ええ。でも、少し勿体無い気がするわね」

 そう言って、彼女は貝殻をもとの包みの中に丁寧に戻す。

「何か、特別な時につけることにするわ」

 久しぶりに取り戻せた彼女のとの空気に、僕は内心胸をなでおろしていた。きちんと話してよかった。なんでも、素直に向き合ってみるものである。あのままわからないからといって、一人で悩んでいたら、間違って放って置きでもしたら、もしかすると近い未来に取り返しのつかないことになっていたかもしれない。不器用な僕に出来ることは一つで、まっすぐにひたむきに向き合うこと。それしか術を持っていないのだ。比較的早い段階でそれに気づけたことは、幸運だった。

「どこか、行こうか」

 それに彼女は小さく首を振り、木漏れ日のようにやさしく笑った。

「ここでのんびりしましょう。いつもみたいに」

 

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