第11話
三月三日。桃の節句。
この日は、彼女の誕生日だった。女の子の日に生まれるとは、なんとも彼女らしい。
ひな祭りとの関係もあって、彼女は友人たちと女の子だけの誕生日会をやったようだ。僕はその話を知っていたので、会が終わったあとで個人的にプレゼントを渡そうと思った。終わる予定の時間を過ぎてから、彼女の家に向かう。プレゼントと小さな花束を持って。花は、途中の花屋で見かけた、花束というよりブーケのようなものだった。春の花を少しずつ集めた珍しいタイプのもので、ほとんど衝動買いに近かった。
当然、そういったセンスは皆無な僕にとって、プレゼント選びは難航を極める、かと思いきや、今回はそうでもなかった。それは、先日買い物に出かけたときの彼女の行動を覚えていたからだ。
「いらっしゃい。どうぞ、入って」
「いいよ。もう夕方だし、今日はプレゼントを渡しに来ただけだから」
「わざわざ来てくれたのだもの、お茶くらい飲んでいって」
本当に渡すだけのつもりだったのだが、このあと特に用事があるわけでもない。断る理由も無いし、一緒に過ごせるなら、その時間は少しでも欲しい。僕はほんの少しだけお邪魔することにした。
彼女の家に入るのは、これで四回目だ。いずれもリビングまでで、まだ彼女の部屋に入ったことは一度も無い。
玄関を進み、正面のドアを開けると、大きなリビングが広がっている。それはもう、間違えればどこか、ホテルの小ホールなのではないかと勘違いするほど広い。なにせ、グランドピアノと大きなソファ三つと、大画面液晶テレビ、及び5.1チャンネルのスピーカーが設置されてなお、一般家庭の二倍はあるほどの大きなさなのだ。このリビングに、今日は雛壇まで設置されている。
「座って待っていて」
そういって、彼女は今入ってきたのとは別のドアから出て行く。反対側のドアは、対面式のキッチンのあるもう一つのリビングへの入り口となっていて、食事は通常、そちらで行うらしい。
僕は座って、彼女を待つ。きっと、紅茶を煎れているのだろう。コーヒーには多少詳しい僕だが、紅茶はてんで知らない。彼女は結構詳しくて、アールグレイやらカモミールやら、オレンジペコやチャイなどといった珍しい紅茶まで出してくれる。僕にとっては新しい体験で、毎回楽しみでもあった。
「はい、お待ちどうさま。今日はお煎茶にしたわ。少し良い葉を頂いたものだから」
僕は内心、がくっとこけそうになった。こんなテンポのズレも彼女らしい。
「お花まで買ってきてくれたのね」
「うん。ちょうど通りかかった花屋でさ、偶然見つけて可愛いと思ったからつい買っちゃった。こういうの、好きかなぁと思って」
「嬉しいわ。菫も入っていて、素敵」
紫色の小さな花にやさしく触れながらいう。
「菫、好きなんだ?」
考えてみると、僕は彼女の好きな花を聞いたことがなかった。
「ええ。この季節に咲く花だから。それに、形もね。可愛いでしょう」
僕はそれに「ああ」と答えた。ふと、何かに書いてあったことを思い出す。
「そういえば、菫の語源は、その花の形が昔の墨入れに似ていることからきているらしいよ」
「へぇ、そうなの」
僕が言うと、彼女はもう一度花の形をよく見た。
「ほんと、なんでもよく知っているわね」
「いらないことばかりさ」
「必要なことよ、きっと」
光月は僕を見て言った。
「作家さんには、特に。そういう知識って、とても価値があるもの」
幸せそうに微笑んで、彼女は花束を見て、また僕を見た。
彼女には、僕を癒す何かがある。表情、仕草、声、匂い、そのひとつひとつが、すべて僕を癒してくれる。僕はとりわけ癒しが必要なほど、疲労しているとは思えないが、疲れているときはなおさら、疲れていないときでさえ、僕は彼女に『癒される』と感じる。それは安らぎであり、落ち着きであり、幸福である。理由や利害関係が生じない人と人との関係、それこそが真の人間関係なのだと思う。そして、恋や愛は真の人間関係の中にのみ存在するものだと僕は確信する。
「プレゼント、あけても良い?」
「うん」
僕が頷くと、いつかと同じく子供のような表情で静かに包みを開けていく。
「あ、これ……」
僕がプレゼントに選んだのは、木製の写真立てだった。
本を模したそれは、実際に開くことができて、開いた両方のページに写真を入れることができる。「本」の造型部分がリアルに再現されていて、とても小洒落ている。先日街を歩いたときに、小さなアンティークショップの片隅に飾られているのを、光月は熱心に見つめていた。
「この前のお店の……素敵だなって、思っていたの」
写真立てを抱きしめるように抱えて、彼女は言った。
「これね、写真が二枚入るから、わたしと仙君を一枚ずつ入れて飾っておくの。二人で写っている写真もいいけど、別々の写真を繋がった写真立てに隣同士で入れておく方が、ずっとそばにいる感じがするわ」
その感覚が、僕にはなんとなくわかった。
どこかに出かけた一シーンを思い出として飾っておくのではなくて、写真を一人と見立てて飾る。いつでも二人でいられるように、またそう思えるように。そんな切ない願いが込められているのだ。僕にはそれが愛しかった。
ピリリリリリ!
突然、僕の携帯電話が騒ぎ出した。この音はメールではなく、着信だ。誰からだろうと液晶画面を覗くと、坂崎昌子からだった。文化祭の関係もあって、一応お互いの番号は知っているのだが、彼女から電話がかかってきたのは、覚えている限り二回目だ。
僕は最初、出ないでいようかと思った。別に後ろめたいことなんて何も無いが、光月のことを考えると、また不安にさせてしまうかもしれないからだ。
しかし。
「あ、ちょっとごめん」
僕は言って、電話に出た。なんとなく、嫌な予感がしたからだ。
『あっ、水無月君?よかった、つながって。大変なの。今、三島君が……』
返ってきたのは、昌子本人の切羽詰った声だった。
「茂樹がどうかしたの?」
『他の高校の生徒に絡まれて、連れて行かれちゃったのよ!』
その声は真剣そのもので、かなりあわてている様子が伺える。
「落ち着いて。どの辺だかわかる?場所は?」
僕は聞いた。話によると、場所は駅裏の繁華街で茂樹は一人、相手は三、四人だそうだ。ここから走れば、五分とかからないだろう。
「ごめん、光月ちゃん。僕、ちょっといってくる」
電話を切って、僕は告げる。
「えっ、どこに?何かあったの?」
「うん。でも、心配しないで。わけは後で話すから。今は、急がないと」
あっけにとられている光月をほとんど構わず、僕は脱いであったハーフコートを羽織る。
「またすぐに連絡する。ほんとにごめん。それじゃ」
急いで玄関に向かい、靴を履く。こんなときに限って、なかなかうまく履けない。後ろでは、光月の「ちょっと」という声がしたが、悪いと思いながらも無視する。茂樹の危機だ。仕方が無い。
僕は走り出した。
茂樹には、譲れない信念がある。正義がある。普段は温厚で、人付き合いも上手な彼だが、そういう頑固なところがあるのだ。そしてそれは、誰を相手にしても、どんなときでも貫く。僕の知っている三島茂樹は、そういう人間だ。だから、しばしば喧嘩をするのだが、案の定というかなんと言うか、茂樹は喧嘩も強いのだ。多分、その辺の不良なんかよりは断然強いだろう。それはわかっている。だが、今回は相手が多い。いくら彼でも分が悪い。自慢ではないが、僕は腕っ節が強いほうではない。行ったところで大した戦力にはならない。でも、親友が危機だと教えられて、そのまま放っておくわけには、どう考えてもいかないではないか。
僕は全速力で走った。
十字路を過ぎ、商店街を抜ける。駅の正面口を無視して駅裏の角を曲がると、昌子の姿が見えた。
「水無月君!」
「茂樹は?」
「あっち。警察、呼んだほうがいいかな」
昌子は裏路地の方をさして言う。
警察、か。僕は悩んだ。茂樹に非がある可能性は、ほとんど無い。しかし、彼は、茂樹はそれを望むだろうか。いや、安全第一だ。
「交番に行って。知らない学生が喧嘩しているって。そうすれば、君も深いこと聞かれなくてすむから。おまわりさんに知らせたら、すぐに帰った方がいい。僕たちもうまく逃げる」
そう言って、僕は茂樹の連れて行かれたというほうに向かった。
駅の裏路地は、なんとも陰湿な空気が流れていた。入り組んでいる道がいくつもあって、並んでいるどの店もシャッターが閉まっていた。営業時間には、もう少しだけ早いのかもしれない。『準備中』の札のかけられている居酒屋を右に進むと、人の気配がした。茂樹たちだ。
「茂樹!」
僕は叫んだ。茂樹は羽交い絞めにされて、少しぐったりとしていた。あの状態で、何発か殴られたのだろう。
僕は勢いよく走りこみ、そのまま茂樹を捕まえているやつに体当たりをした。怖くなどなかった。それどころか、僕はいつになく機敏な動きをしていたと思う。
当たった腕に、衝撃を感じる。体当たりによろめいて力が緩むと同時に、茂樹がすり抜ける。そのまま茂樹を引っ張って逃げようとした時、僕の目の前にひざが見えた。次の瞬間、とっさに顔を背けるもむなしく、左頬に鈍い痛みが走った。今度は僕が体勢を崩し、地面に倒れてしまった。
「仙!」
茂樹が僕を呼ぶ。
「このやろう!」
転がりながら見上げると、茂樹の拳がちょうど僕を蹴ったやつの顔面に直撃するところだった。勢いがよほど凄かったのか、殴られた少年はそのまま倒れこむ。
「仙、大丈夫か?」
僕に駆け寄り、茂樹が言う。僕は頷いて、立ち上がった。頬が痛い。
「なめやがって、この……」
残り三人のうちの一人が、悪態をつきながら構える。何かの格闘技をやっているのか、形が様になっていて強そうだった。後の二人は顔こそ険しいが、率先して暴力を振るおうとはしないようだ。と、そこに、
「おい、君たち!何をやっているんだ」
路地入り口付近から冷静な声がした。チラッと見ると、制服姿が見える。警官だ。昌子が呼んでくれたのだ。
「逃げるぞ、仙」
茂樹が言うころには、僕らは走り出していた。
「おい、待て!」
「俺たちもヤベェよ」
口々に言う奴らを気にも留めず、僕たちは走った。
裏路地を抜けて、駅前を通過し、それでもまだ走り続ける。商店街に入ったあたりでようやく速度を緩めた。二人とも肩で息をしていた。
僕たちはふらふらと歩きながら、横道を通って近くの公園までたどり着いた。水のみ場で顔を洗うと、ベンチにどかりと座りもたれ掛る。そこでやっと、なんとか落ち着いてきた。
「つかれた~」
「ああ、つかれた」
そう言うと、なんだか変に愉快な気分になった。見上げた空は、夕陽が沈みきる直前のほとんど暗い色だった。
まだ息は整いきらず、しばらく二人とも黙っていた。
カラスの鳴く声が何回か聞こえて、前の小道を知らないおばさんが自転車で通過した。
何処かから、『夕焼け小焼け』のメロディが聞こえてきたあたりで、茂樹が口を開いた。
「坂崎が仙を呼んだのか?」
「ああ。大変だ、って、大慌てで」
「そうか」
「原因は?」
僕が聞くと、少し気まずそうな顔をした。
「小さな子供にさ、ぶつかって転ばせて、そのまま通り過ぎたんだ。結構、派手に転んでさ。泣き始めた」
それだけ言って、彼は軽く笑った。
「ちょっと待てって、言って。けど、俺は別に……」
「「別に喧嘩するつもりじゃなかった」」
茂樹のせりふにかぶせて、僕も言った。彼の言うことはわかっていた。いつだってそうだ。彼は喧嘩を好んでいるような人間ではない。だから、最初から喧嘩するつもりはないのだ。しかし、そう(・・)いう(・・)状況で話に首を突っ込んで、喧嘩にならないことのほうが少ない。
「悪かったな、怪我させちまって」
「いいよ。僕が勝手に割って入ったんだし。それに、何の役にも立ってないし」
僕が言うと、茂樹は「確かにそうだ」といって笑った。
「ははは、なんか、変わってないな。最初の頃と」
「そうだね。そういえば、あのときも、ああやって自分から巻き込まれに行ったのだっけ」
少し懐かしい感じがした。
茂樹と知り合ったのは、中学二年生の秋だった。クラスも違い、何の共通点も無かった僕たちは、たった一回だけ、購買に唯一残っていたコロッケパンの譲り合い(彼はほとんど喧嘩腰だったが)をした。それ以外はまったく関わることなく、二週間後に二回目の再会を果たした。二回目に出くわしたのは、誰もいなくなった校舎の裏でだった。
「あの時も多勢に無勢だったよな。五人ぐらいいたか」
茂樹は薄暗い空を見て言う。
その頃の茂樹は、所謂「不良」のような感じだった。髪を茶色に染め、学ランを着崩して、常に面白くなさそうな顔をしていた。
「そうそう。たまたま通りかかったら、なんか見るからにマズそうな感じでさ。先生呼ぼうかって思ったけど、知っている顔だったから。助けなくちゃって思って飛び出した」
「そんでもって、真っ先に殴られてやんの。結局俺が全員倒して、一件落着。殴られ損な、お前」
茂樹はにやっとして僕を見た。
言うとおりだ。僕が出て行く必要は無かった。彼は強かったし、助けてもらおうなどとは微塵も思ってなかったはずだ。
「でもさ、俺、あの時お前が言ったこと、多分一生忘れないと思う」
「なんか、言ったかな」
僕はそれを良く覚えていなかった。
「ああ。俺が『どうして余計なことするんだ』って言ったら……、『喧嘩弱いのに首突っ込むな、お前に助けてもらうほど俺は弱くない』って言ったらさ。お前言ったんだよ」
そこまで聞いて、僕は思い出した。その時はただ殴られただけなのに、僕自身とても興奮していて、不愉快そうにはき捨てる茂樹にすごい剣幕で言い返したのだ。
「『僕が喧嘩できないからって、見過ごしていいことなのか?君が弱いから助けようと思ったんじゃない、そうしなくちゃいけないと思ったから。助けたいから助けに入ったんだ、悪いか!』って、見違えるぐらい怖い顔でさ。びっくりしたよ。でも、それ以上にコイツすげぇって思った」
茂樹はしみじみ、といった様子で遠くのほうを見つめた。夕陽の名残の明るさのせいで、十数メートル先まで何とか見える。
「お前は自分の弱さを知っていて、それでも俺を助けに入った。その時解ったんだ。強いっていうのは、こういうことなんだってな。俺はコイツのことをボコボコにできても、コイツに勝つことはできない。コイツより強くはなれないって心底思った。俺は強さに憧れて、手当たり次第に喧嘩売って、勝って、自分が強いこと証明したかった。強いって、そういうことだと思っていた。だから、ショックを受けた。俺はさ、仙が自分の友達であることを誇りに思ってるんだよ」
彼は目を合わせずに言った。僕は少しだけ唖然となって聞いていた。自分がそんなことを言って、茂樹にそんな風に思わせていたなんて、初めて知った。不良相手になんて大それたことを言ったのだろう。だが、今になってそういわれたことは、素直に嬉しく、照れくさかった。
「僕は、命知らずなことを言ったもんだね」
「そうさ。あのころ、自慢じゃないが、俺はこの辺で一番強かったんだからな」
茂樹は言って、何かを思い出したようにこちらを向いた。
「待てよ、あの事件のときが二回目で、その前は確か、購買で会っただけだよな。なのに、なんで『友達だ』って思ったんだ?話せば友達、っていう性格でもないだろう」
眉をひそめて聞いてくる。
彼のいうとおり、僕はそんな、社交的な人間ではない。しかしそれには、きちんとした理由があった。
「一緒に昼を食べたから。パン譲り合って、そのあとなぜか一緒に食べただろ?だからさ」
僕が言っても、茂樹は何のことだがわからないという顔をしていた。
「うちのじいちゃんが言ってたんだけど、一緒に飯食って、旨かったら友達なんだってさ。だから」
それを聞いて、彼はあきれ顔でため息を吐いた。
「なんだ、それ」
僕は笑った。
茂樹も笑い、やれやれと首を振った。
ガザガザという音を立てながら、風が吹いた。弥生の風はまだ冷たく、体が大分冷えてしまっていることにも気づく。
「帰るか」
「うん。あ、光月ちゃんに連絡しなくちゃ」
「いいね、彼女持ち」
「今日、誕生日だったんだ」
「もしかして、彼女と会ってる最中だった?」
「ま、まぁ、ね」
僕は口ごもった。
「ばかやろう。だったら、俺なんて放っておけよ」
茂樹は、結構本気で苛立っていた。
「安心してよ。彼女が行かないで、って半べそかいていたら、きっと茂樹を無視していたから」
「うわっ、それはそれでひでぇな」
僕たちはもう一度笑いあった。
「それじゃあな。ああ、坂崎には俺から連絡しておく。お前と、警察を呼んでもらったお礼もしなくてはいけないからな」
そう言って、茂樹は立ち上がる。僕も立って、軽く手を上げた。
「おう。じゃあね」
僕たちは別れ、それぞれに歩き出した。僕は早速携帯電話を出すと、光月の電話番号を出し、コールボタンを押す。さて、何から説明したものか。そう考えながら、この顔で帰ると、両親にも事情を説明しなくてはいけないな、と思い、少しだけ気が重くなる。
『あ、もしもし、仙君?何があったの?心配したのよ、突然飛び出していくものだから』
三回の呼び出し音の後、心地の良い声が聞こえた。
「ごめん、急に。なんとか、大丈夫だった。うん、詳しくは明日。うん。そうだ、まだ言ってなかったね。誕生日おめでとう」
僕は言いそびれていた言葉を彼女に伝えた。
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