第12話
柔らかい日差しと、時折思い出したように吹く冷たい風が、緩慢な季節の変化を物語っていた。
桜の花のつぼみが膨らみ、あと一週間もすれば、満開の桜並木が見られることだろう。
僕は最近、もっぱら小説を書いていた。
きっかけはいろいろあった。僕の文章力を高く買ってくれた担任の教師が、高校生が挑戦するのに適した小説大賞への応募を勧めてくれたこと。
感想文コンクールの大賞受賞を予想外に喜んでくれた両親の薦め。
少しだけついた僕の自信。
でも、一番のきっかけとなったのは、やはり光月の言葉だった。
「あなたが書きたいと思うことがあるのなら、わたしはそれを読みたいと思うわ」
そう言われたとき、僕はより一層書きたいと願った。
もう僕たちは三年生で、始業式の日にはほんのりと受験の話題にも触れられた。すでに有名大学受験に向けて取り組みを始めている生徒もいるだろう。行こうと思えばいつでも推薦で、それもそこそこ名の通った大学に行ける光月とは違い、真っ向で受験しなければ浪人する可能性の高い僕は、この時期に小説を書いている場合ではないのかもしれない。でも、仮に今小説を書かなかったとして、その分の時間を受験のための勉強に費やすかと聞かれれば、おそらく何の迷いも無く首を横に振るだろう。僕にはきっと、大学に行って何をするのかが、まったくイメージできていないのだ。
文章を書いて生活していきたい。しかし、今の僕には、それと大学とがうまく結びつかないのだ。かといって、進学しない、と選択肢にも正直首を傾げてしまう。仕方なく僕は、これという強い理由も無く分相応の大学を目指すのだ。こんな考え方が出来、またそれが許される環境にいる僕は、とても幸せ者だと思うが、これはこれで不安だらけでもある。
とにかく。
今受験勉強をするメリットよりも、この時間を使って小説を書くことの方が、意味があるような気がしてならないのだ。そんな気がするのならば、やったほうが良い。僕は真剣だった。
幸い、大賞の締め切りは七月。曰く、『受験を制する』と囁かれる夏には終わる計算だ。あとは、間に合うように書き上げること。それだけだ。
と、そういうわけなのだが……。僕はここにきて、改めて文章を書くことの難しさと奥深さを知ることとなった。
実際に何を書こうかと考え始めたとき、これがなんとも支離滅裂で、物語として一本にすることがとてつもなく難解あることに気づいたのだ。
三ヶ月弱。
規定では四百字詰め原稿用紙五十枚以上という少な目な枚数にはなっているが、これでは時間が足りないかもしれない。
ジャンル指定はない。空想、ノンフィクション、ミステリー、ドキュメント、思想、なんでもよいわけだが、この短時間で素人の僕がまとめ上げられるものはあるだろうか。
そこで、僕は思いついたのだ。
そうだ。僕は僕を、書こう。
彼女と出会って、彼女を好きになって、それでも何も言えなくて。あのときの気持ちを文章にしてみよう。
実体験を元にすると、なるほど書きやすかった。ゼロからすべてを作るのではない物語は、これほどまでに筆が進むものかと思ったほどだ。あとはかけがえの無い思いを、丁寧に言葉に乗せていくだけだ。
書きかけの作品を光月は随分と読みたがったが、僕はそれをさせなかった。完成したならまだしも、まだ途中の作品を彼女に見せるのは恥ずかしかった。それも内容は、僕が彼女に片思いをしていた期間の話だ。余計に中途では見せたくなかった。
四月が過ぎて、五月に入り、それもやがて過ぎ去って、梅雨の時期に入った。僕たちの時間はあっという間で、どれも大切な時間なのに、一瞬で通過してしまっているような錯覚に陥る。僕の世界は、小説と、彼女と、あとはその他の少しずつで出来ていた。
僕と光月も、なにもなかったわけではない。
結構前から自然に手をつなぎ、少し前に自然とキスをした。いや、キスは正直なところ、『自然と』なんて格好よく言えるほど、僕の心中は穏やかではなかった。それはきっと、彼女も同じだったと思う。
初めてキスをした時、あの日のことは忘れられない。
特に何かの日、ということでもなく季節の行事もない日だった。ただ僕たちはいつものように映画を見て、街を歩き、そして夕方公園に寄った。
夕陽が奇麗だった。周りには誰もいなくて、会話もなんとなく尽きてきて、そういう雰囲気がだんだんと立ち込めていった。
キスがしたい。そう思ったことがないわけがなかった。でもそういった行為が、なんとなく彼女を汚(けが)してしまいそうな感じがして、僕はとても怖かったのだ。それ以前に、もっと単純な意味でも、彼女とキスすると考えただけで、頭の中が『バンッ!』と爆発しそうになる。だって、光月とキスだ。それだけでもう十分に未知の世界だ。
けれど、そんなことをいつまで言っていても仕方がない。覚悟を決めて僕が見つめると、それを感じ取ったのか、彼女はゆっくりと目を閉じた。
もう、あとには引けない。キスがこれほど怖いとは思っていなかった。
静かに顔を近づけていく。彼女の唇はもう目の前だった。
触れる寸前で、僕も目を閉じた。
唇が、何かに触れた。それは信じられないほどやわらかく、そしてほんのりと冷たく、かすかに震えていた。
これはどうして、神秘的で甘美な感覚なのだろう。僕は素直に感動していた。生まれて初めて味わう不思議な感覚だ。
秒数にしてきっと五秒くらい。それが、僕にはずいぶんと長く感じられた。唇を離してそっと目を開けると、同じく目を開けた彼女と視線がぶつかり、なんだか恥ずかしかった。彼女はすぐに目を伏せて赤くなった。
前とはほんの少しだけ違う、暖かい沈黙が流れた。
キスは、想像以上に、気持ちでするものだと思った。
冷静に考えてしまえば、唇と唇が触れ合うだけの行為だ。
世の中には、色々なキスがあるし、そういうディープなものでなければ、単純な粘膜の接触だ。それがこんなにも価値があるものなのだと、してみてから深く実感した。
そうやってまた、僕たちはこの何気ない日常を特別なものへと変えていくのだ。
そういう意味では、僕たちはやはり、おおよそ受験生らしいをことしていなかった。
人並み程度には勉強し、学校側が行ってくれる特別講習などには参加していたが、僕は小説を書き、そして彼女はピアノを弾いていた。
幼いころから華道、茶道、日本舞踊に、ヴァイオリン、数々の習い事をしてきた彼女が、現在も続けているのがピアノだった。
音楽全般に関して相性の悪い僕は、何回か聞かせてもらったが曲と曲名が一致しなく、また微妙に長いクラシック音楽は、イントロを聞いたところで何がなにやらさっぱりではあったが、それでも彼女がピアノの上級者であることだけはわかった。どう考えても一人の人間の指が出しているとは思えない音の数と連続、その精密さと技術とは別の表現力。国内の大会で幾度となく優勝している彼女は、冬にイギリスで世界的な音楽コンクールに出ることが決まったらしい。その道で食べていこうとは微塵も考えていないらしいが、受験勉強よりも(いや、光月なら両立が可能なのだろうけど)そちらに焦点を当てているようだった。
特にどこにも出かけない休日は、彼女の家のリビングで彼女の弾くピアノを聞きながら執筆する、ということが多くなっていた。たいてい無音でなければ何かの作業に打ち込むことが出来ない僕なのだが、不思議なことに光月の弾くピアノは聴いていても気が散らないのだ。単なる気分の問題かもしれないが。
小説が完成したのは、七月の一週目の金曜日だった。それからさらに四日をかけて誤字脱字をチェックし、やっと応募する。完成作はコピーして手元にあったが、彼女に読ませるのは、正直躊躇われた。片思いをしていたころの僕の思いは、大々的にではなく、どこかでこっそりと彼女に知ってもらいたいことなのだ。知らないままでも良いことではあるが、もし知るとしたら、そういう形で知られたい。なぜなら、とてもじゃないが、格好良い、なんて表現からは一番遠い場所に位置しているからだ。素直な気持ちを書き綴れば、情けないことのほうが多い。僕は、そんなものだ。
しかし、どうしても読みたいという彼女の願いには勝てるはずもなく、結局僕はその小説を手渡した。
次の日に読み終えた彼女は、照れくさそうに「わたしはこんなに綺麗じゃないわ」と言った。そこにしか触れなかったことは、きっと彼女の思いやりなのだろうと思った。
そして、僕たちの二度目の夏休みが始まる。
小説を書き終えた僕は、些か勉強をする時間が増えた。他にすることがないなら、やるしかない。それを放棄するのは、ただの怠けものだ。光月との交際のことを誰にもとやかく言われないためにも、僕は学生である自分に課せられた最低限の責務を十二分に果たさなくてはいけない。それほど有名ではなくても、志望した大学には必ず入ろうと思った。それは僕の恋が、彼女と付き合っている事実がプラスに働いているのだということの証明でもあった。
八月の中盤、僕たちは縁日に行く約束をした。
年に一度の夏祭りくらい、堂々と遊んでもばちはあたらないだろう。
夕暮れ時になって、僕は彼女を迎えに行った。虫の音が所々から聞こえて、夏の風の匂いがここそこに漂っていた。この季節は日の沈みかけるころが、一番過ごしやすい。熱気を含んだ空気が徐々に冷やされて、独特の涼しさを生むのだ。
祭り。
その響きには、とても胸が高鳴る何かがある。僕はいつものように少し早めに彼女に家に着く。彼女の母親に通されてリビングで待っていると、そこへ彼女が現れた。
僕はそれに思わず釘付けになった。目を奪われ、心までも奪われる。
光月は、浴衣を着ていた。白地に淡く赤い金魚をあしらった、少しだけユニークな模様。
最近はおろしておくことが多くなった髪を結い上げて、涼しげな佇まいの彼女。くるりと一回転して、にっこりと笑う。
「どうかしら」
似合うに決まっている。浴衣姿の女性は、美しく見えるが、彼女のそれは別格だった。
「天女かと思った」
「また、恥ずかしい事を。でも、ありがとう」
光月は赤くなった。その後で、思い出したように口を小さく開き、「少し待って」と言い、自分の部屋のほうに消えていった。しかし、数秒で戻ってくる。
「これ、使ってもいい?」
そう言って見せたのは、いつか僕がプレゼントしたあの貝殻の口紅だった。僕が頷くと、彼女はリビングのテーブルの上にあった鏡を覗き込んだ。
「ちょっとの間、向こうを向いていて」
僕に言ってからしゃがみこむ。
僕は言われるままに後ろを向くフリをして、こっそりその様子を盗み見ていた。
小さな二枚貝を静かに開き、右手の薬指でそっと掬う。ゆっくりと薄く唇をなぞり、なじませる。その仕草に、僕はハッとなった。なんと美しく、色っぽいのだろう。鏡を見つめる横顔に、薄く紅の引かれた唇に、雪のように白いうなじに、僕は見惚れてしまったのだ。
ああ、この感覚は、味わったことのある者にしか、きっとわからない。
何度も。
そう、何度でも。
僕は君に恋をしていく。
あきれるほどに、何回も。
「あっ、もう。見ないでって言ったのに」
見ているのがばれて、僕は彼女に怒られる。けれど、それも少しだけで、すぐに光月は僕を見上げた。
「どう?」
「思ったとおり、よく似合うよ」
彼女は嬉しそうに俯いて僕の手を握ったが、ここが自分の家で、しかも家族がいるのだということに気づいたらしく、すぐに手を離した。
僕たちはやっと外に出て、神社に向かう。一つ目の角を曲がって彼女の家が見えなくなったところで、僕は改めて彼女の手を握った。
光月の歩幅にあわせて、いつもよりゆっくりと歩く。遠くのほうで、にぎやかな祭囃子が聞こえる。それはやがて大きくなっていき、明るい電球がいくつも並ぶ普段とは姿をかえた参道に到着した。ずらりと並んだ出店は見るだけで心が弾む。すでに混雑し始めている中を、僕たちはぶらぶらと進んだ。
綿飴、金魚すくい、焼きそば、たこ焼き、りんご飴。特別何かをするわけではないのに、この雰囲気は楽しい。
花火まではまだ時間があったので、僕は射的に挑戦してみた。たいしたものではなくても、何か彼女のために賞品をとろうと企んだのだ。
自分なりには、柄にもなく本気になって挑んだのだが、結局当たったのは、4等レベルの微妙な貯金箱だった。僕が首をかしげていると、的屋おじさんが四等以下の賞品なら、どれと取り替えてもいいと言ってくれた。なんとも粋な心遣いがうれしい。とはいえ、他の景品も微妙なものが多く、光月が喜びそうなぬいぐるみなどは三等以上のものだった。
しばらく考えていた光月だったが、何かを見つけたらしく、目が大きく開く。
「わたし、これがいいわ」
指差した先にあったのは、小さなおもちゃの指輪だった。おじさんからそれを受け取ってみると、おもったよりなかなか良く出来た指輪だった。銀鍍金のリングに、青い楕円のガラス球がついている。だが、指輪は五等の景品の中のもので、もう少し何かの役に立ちそうなものはいくつかあった。
「本当にこれでいいの?」
僕が聞くと、光月は笑顔で頷いた。
「ええ。好きな人にもらう指輪は、特別なものだから」
手渡すと、早速彼女は薬指にはめた。そしてそれを、少し掲げて見つめる。
「ほら、すてき。ありがとう。これ、大切にするわね」
一点の曇りもない笑顔でそう言うと、今度はおじさんに礼を言い、また僕の手を握った。そんな僕たちをおじさんもわらって見ていた。
その後も、彼女は時折指輪を見つめては嬉しそうに微笑んでいた。おもちゃの指輪で喜ぶ光月が、何よりも愛しかった。
僕たちは神社の裏のほうに向かった。雑木林を抜けると、花火を見るには打って付けの野原がある。知る人ぞ知る、秘密のスポットだ。
神社裏とは言っても、隣数十メートルの位置に交番があるので、治安も良い。花火を静かに見たい人のための取って置きの場所なのだ。
二分ほど歩いて、野原に出る。毎年たいてい先客の一人や二人はいるものだが、今日はまだ誰もいなかった。
「真っ暗ね」
「その分、花火が良く見えるんだ」
途端に、重低音が響く。
それほど距離がないせいか、思ったより大きく聞こえた。
音よりもほんの僅かに先走り、光の玉が勢いよく天に放たれる。空の真ん中にまで上ると、いよいよそこで花開く。
鮮やかな色とりどりの火花が、多様な形で漆黒のキャンバスに広がった。その輝きに、野原一帯も僅かに染められる。幾度も幾度も。華やかに、美しく。
瞬く間に散り行く、色彩豊かな光を眺める。その単純で無意味とも言える燃焼活動に、どうして人間は心惹かれるのだろう。花火とは、もしかすると火を使うことを最も許された唯一の種族、人類の究極の娯楽なのかも知れない。
「来年も、一緒に見にきましょう」
「うん、きっと」
答えて隣をみると、思いのほか光月の顔が近くにあった。僕の肩より少し上あたりから見つめ上げる彼女は、とても澄んだ目をしていて吸い込まれそうになる。
小気味の良い花火の音と、点々と灯っては消え行く光が、かえって静寂を際立たせていた。
僕たちは、何も言わなかった。
かわり、お互いのその表情で、どうすべきかを感じたのだ。彼女の目は静かに閉じられ、やがて二人の唇は距離をなくした。
少しだけ熱い感触が、小さな息づかいに乗って伝わってきた。
唇を離すと、妙に色っぽい表情の光月が目に飛び込んできた。
思わず視線を外そうしたら、浴衣の襟から覗く鎖骨が見えて、僕の鼓動は更に高鳴ってしまった。
「……どうしたの?」
「いや、君が、色っぽ過ぎて……」
僕は視線を泳がせながら、言った。
「困った」
すると、
「わたしも、困った」
「え?」
「仙君が好き過ぎて」
心臓が痛くなった。
普段はこんな言葉は使わないけど、きっとこの状態を表すには、これが一番だろう。
ヤバイ、と。
やっぱり、言葉が気持ちに追いつくのは、中々難しいのかも、しれない。
自分の好きな人が、自分のことを好きでいてくれる。これは、数億分の一の奇跡ではなかろうか。
この奇跡に、どれほどの人が気づいているだろう。少なくともそれに気づけた僕は、とても幸福だと思う。
こんな時間が、ずっと続けばよい。
心のそこから、そう願った。
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