第8話

「今日は、一緒に帰れそう?」

 放課後、僕の席の隣に立ってそういったのは、光月だった。

「うん。大丈夫」

 僕は言って、そそくさと帰り支度を済ませる。光月と一緒に帰れるのは、一週間ぶりくらいだった。夏休みがあけてすぐの頃は、ほぼ毎日一緒に下校していたのだが、ここのところ僕(というか、僕に用事のある人)の都合で放課後は図書室で過ごすことも多かったのでなかなか帰りが合わなかった。それに彼女の方も、実は習い事をいくつか掛け持ちしているためにそうそう待っていてもらうわけにもいかなかったのだ。

 僕は誰かに呼び止められる前に、いそいそと校門を出た。いなくなってしまえば、こちらのものだ。

「一緒に帰るの、久しぶりな感じがするわ」

 校門から続く緩やかな下り坂を歩きながら、光月はそう言った。

「ごめん。なんか最近呼び止められることが多くて。部活もホントは出なくていいのに、出なくちゃいけなくなっているし」

「ううん、いいの。仕方ないわよ。部活動じゃ仕様がないし。ほら、勉強とか、文章とかも仙君は親切で教えているんですもの。それに、ある意味人助けみたいなものでしょう?それを優先するべきだわ」

 彼女は言って、微笑んだ。その微笑みに、僕は若干内心がひやっとした。

まだ付き合い始めて二ヶ月に満たない僕たちだが、僕にはなんとなく彼女の本音と建前がわかるようになってきた。光月は、皆が思っているほど優等生ではない。もちろん、完璧ではない。都合の良い人間ではないのだ。つまり、彼女がこういう風に聞き分けの良過ぎることをわざわざ口にするとき、それは決して本心なんかではあるはずもなく、無理して聞き分けの良いふりをしているに過ぎないと判る。

 そして、彼女のこの思いやりに、何処まで甘んじて良いものか、どの辺から見え隠れしている本音を汲み取って行動するか、その匙加減が非常に難しい。

「どこか、寄っていこうか?」

 僕は言った。一人で帰らせている埋め合わせ、というわけではないけれど、コーヒー一杯を飲みながら少し話をするだけでもお互いに気分が違ってくると思った。週末に遊びに行くだけでは機械的でよくない。本当を言えば、ずっと一緒にいたいのだから。

 彼女は「うん」と答えて、嬉しそうな顔をした。それを見て僕は安心した。ホッとしたというか、なんとなく漠然と『良かった』と思った。

 坂道を下りきると、例の書店の並ぶ通りがある。そのまま進むと駅と一体型の近代的な商店街がみえてくる。僕達はその中でも、少し奥まったところにある喫茶店に入った。レトロな外装とメニューの少なさから、あまり学生は来ない店だ。その分、店内は落ち着いているし、出されるコーヒーも申し分なく美味い。

 いつもどおり、僕はホットでコーヒーを、光月はミルクティーを頼んだ。

「すっかり話題の中心人物だものね、仙君」

 紅茶にミルクを注ぎながら、悪戯っぽく光月は言った。

「茂樹にも言われた。それほど注目されるようなことでもない気がするんだけど」

「いいえ。凄いことだとわたしは思うわ。誰しもが賞をとれるわけではないもの。それに、社会的な評価を得るのは、意外に大変なことよ」

 今度はティースプーンで紅茶をかきまぜながら言う。その仕草が、とても優雅で似合っていて、彼女らしかった。

「新しく文芸部に入った人もいるのでしょう?」

「ああ。正式には四人入った。それ以外にも、見学とか一時的に色々聞いてくる生徒もいるしね」

「みんな、水無月先生(・・)に教えを請うために?」

「そんな大それたものじゃないよ。それに、僕が教えられることは、僕が勝手に思い込んでやっていることだから、それが他の人に合うか、また、出来るかなんてわからないし」

 そう、どんなに色々教えてくれといわれたところで、僕は何をどう説明すればよいか解らない。僕は文章の書き方をプロに習ったわけではないし、そんなこと考えたこともない。ただ、自分の思うまま、感じるままに言葉を追求しただけだ。今回の賞だって、その結果たまたまついてきたようなものだ。そもそも、たかが一回、読書感想文のコンクールで賞を取ったくらいで誰かに教えるなんて、おこがましい。僕はそう思っていた。

「でも、みんな遅いわよね」

 紅茶を一口啜って、彼女は言った。

「仙君の才能、わたしなんてずっと前から知っていたもの」

 言ってから恥ずかしいのか、照れながら光月が僕を見た。

 誇らしげな、でもその中に僅かに違う感情を含んだ微妙で繊細な表情の彼女が可愛かった。

「どんなこと、聞かれたりするの?」

「色々だよ。漠然とさ、どうやって文章書くのか、とか。あと、どうやったら現代文の成績があがるか、とか。なんか、どうしようもないくらい色々。あとは、オススメな本はどれか、とかかな」

 その瞬間、光月は少しだけ眉を顰めた。でもそれは一瞬で、すぐにいつもの表情に戻った。

「ちょっとだけ、ジェラシーかな。なんて……」

 突然、彼女はそんなことをポツリと言った。そしてすぐに顔を上げて、

「ウソウソ、冗談よ。ただ、最近女の子ともよく話をしているから、なんとなく……」

「なんとなく?」

 僕が聞き返すと、彼女は困ったような表情で口ごもった。

「なんとなく、その、なんでしょう……ううん、なんでもないの。ごめんなさい。気にしないで」

 そう言って晴れやかに微笑んだ。

「あっ、そうだ。あの本知っている?『山猫の憂鬱』。ちょっと前の本なんだけど、なかなか面白かったよ」

 僕はこの間勧められて読んだ本の話をした。坂崎昌子に教えてもらった本なのだが、これがなるほど面白かった。人生観や価値観、哲学的な思想を盛り込んだ重い内容の恋愛小説で、多少難解ではあるが、本を読み漁ってきた僕から見ても、十分に満足のいく作品だった。

「どんな本なの?」

「一応は恋愛小説かな。ちょっと考えさせられる深い内容のものだけど、きっと君も楽しめると思う」

「そう。じゃあ、読んでみるわね。仙君、持っているの?」

「あ、いや、僕も人から借りて読んだんだ。ほら、坂崎さん。たしか、君と出席番号の近い……」

「昌子ちゃん?」

「そうそう。彼女、けっこう色々読んでいるみたいでさ、ほかにもいくつか教えてもらったんだ」

「そうなの……」

 彼女はそう言って、ほんの少しだけ表情を曇らせた。それがなぜなのか、僕にはさっぱりわからなかった。 

 それからずっと、彼女はいつもより元気がなかった。

 どこか具合でも悪いのだろうか。男と違って、女の子はいろいろあるそうだから。そのときの僕は、本当にそれぐらいにしか思っていなかった。

 やがて数日が過ぎ、文化祭の日が来た。

 当日僕はクラスの裏方としてコーヒーの抽出を担当し、光月は風紀委員の仕事で学園内を巡回することになっていた。でも僕たちは、二人とも作業する時間を午前中にして、午後からは一緒に見て回れるように計画していた。

 僕は朝から、四台揃えられた家庭用コーヒーメーカーに水を入れたり、事前に挽いておいた豆をペーパーフィルターにセットしたり、またそれを取り替えたり、という作業を延々と繰り返していた。おかげで僕たちのクラスのコーヒーは待ち時間なしで提供することができていた。僕はもともと、コーヒーが好きだった。もちろん、なんでも興味を持ち始めると凝り性なので色々調べ始める。ちょっとばかり、コーヒーには詳しかった。どこの豆がどんな味だとか、どう淹れるとおいしくなるかとか、人より若干は知っているつもりだ。

 香ばしい薫りをずいぶんとかぎ続けていると、いつの間にかお昼過ぎになっていた。中毒になりそうな頭を軽く振って立ち上がると、交代のクラスメイトがやってきた。

 僕はその生徒にあとを任せ、ハリボテのキッチンカウンターを出る。うちのクラスの出し物は、なかなか繁盛している様子だった。ここにウェイトレスとして光月が参加していたなら、もっと客は増えただろうな、なんて思いながら教室を出ようとすると、ちょうど廊下の向こう側から光月が歩いてくるところだった。

 彼女は僕を見つけると、胸の前で小さく手を振った。

「タイミングピッタリね」

 彼女は目を細めた。左肩には、『風紀委員』と書かれた腕章がつけられていた。分担しているとはいえ、五階建、三棟にもおよぶ会場のパトロールは大変そうだ。

「お疲れ。問題は起きなかった?」

「おかげさまで。みんな節度を守ってくれているから、助かるわ。ごめんなさいね。クラスのほう、手伝えなくて」

「いいさ。文化祭中の巡回は風紀委員の一番重要な役割だし、仕方ないよ。ま、光月ちゃんが接客していたなら、もっと来客数は増えただろうけどね」

 僕が言うと、彼女は少し照れたように微笑んだ。僕は最近、彼女を「光月ちゃん」と呼び始めた。『光月』と呼び捨てにしてもかまわない、と彼女は言うが、僕にはどうしても抵抗があった。名前をそのまま呼び捨てるのは、何だがえらそうな感じがして気が引けたのだ。

「さて、どこ行こうか。まずは何か食べる?」

「うん」

 文化祭で食べ物といったら、焼きそばかお好み焼きか、焼き鳥ぐらいしかない。あとは冒険してタコスやらラーメンやら出すところもまれにあるが、ほぼ高い確率で美味いはずがない。

 僕たちはとりあえず、焼きそばを買って食べることにした。ベンチのある中庭は、もうすでに人でいっぱいで、僕たちは校庭の隅まで移動してそこで食べることにした。ここにも人は多かったが、中庭よりはうんと空いていた。

「お店、忙しかった?」

「ずっと裏にいたからよくわからないけど、休む間もなくコーヒー落としていたから、きっと忙しかったと思う」

 辺りは人々の声と、よくわからない音楽がいくつか混じりあって、とても賑やかだ。

 僕たちは午前中に起きたことをお互いに報告しあって、そのあとはいつものように他愛のない話をした。周りは騒がしいお祭り気分であるのに対し、僕たちのいる場所は切り取られたかのように普段と変わらず静かでやさしく思えた。

 恋人同士とはいっても、特別(・・)な(・)こと(・・)は案外少ない。最近僕はそう感じる。確かに二人で出かけることが増え、一緒に過ごす時間が増え、それらは友人や家族と過ごすそれとは明らかに違う『特別』であるが、日常を生きるうえで特筆するようなことは思いのほか少ない。そして僕は、同時に気づいた。大切な誰かができて、その誰かと一緒に過ごす日常は、単純に特別が付け足されていくのではく、日々そのものがすべて特別になっていくのだと。

 食べ終えると、僕たちは少し校内を見て回って、一旦自分たちのクラスに行くことにした。光月はまだ、営業している我がクラスをよく見ていないのだ。

「さっきもちょっとだけ見たけれど、結構混んでいるわね」

 出入りの激しいドア付近を見て、光月が言った。

「あっ、水無月君、良かった。ごめん、ちょっといい?」

 ひょっこり顔を出して僕を呼んだのは、坂崎昌子だった。

「今すごく忙しくて、悪いんだけど少しだけ手伝ってくれない?」

 僕は悩んだ。何に対して悩んだのかはよくわからないが、無意識に光月の顔を見ていた。

「いいわよ。わたしも手伝う」

 言ったのは、光月だった。彼女がそういった以上、手伝わないわけにはいかない。どちらにしても手伝うことになっていただろうが、それを率先して光月から言ってもらえたことに僕はほっとしていた。

「それで、わたしは何をすればいいかしら?」

 光月が聞くと、昌子はあいたテーブルの片づけを命じた。

「水無月君は、こっちでコーヒーの準備。あと、もうすぐオレンジジュースが来るから、それをカップに分けて」

 光月のあとをひょこひょこ付いていこうとした僕だったが、昌子に呼び止められ、また裏方をやる羽目になった。分かれ際ちらっと光月の顔を見ると、なんだか寂しそうな目でこちらを見ていた。後ろ髪引かれる思いというのは、この心境を言うのかもしれない。それにしても、なんだろう。これでは普通に仕事に戻ってしまっただけではないか。そんな風に僕は思った。

 結局、僕と光月が解放されたのは、後夜祭の少し前だった。あとはキャンプファイアと定番のフォークダンスで締めである。僕の学校には、これもまた定番な風習というか、慣わしがあって、後夜祭でキャンプファイアの周りで踊る者は両思いでなくてはいけない、という暗黙の了解が存在するのだ。

 のどかで子供じみたオクラホマミキサーが校庭に流れ始める。

 僕は光月を誘って行こうとしたが、彼女は風紀委員の仕事があるからと言って足早に去っていってしまった。校内の最後の巡回だろうか。いつもよりも断然素っ気なく、妙に急いで行った光月が少しだけ気になった。

 文化祭のすべてのプログラムが終了し、後片付けに入る。とはいっても、大まかゴミを出すだけで、細かい復元作業は後日一日かけて行う。

 イスもまともにない教室で、形だけのホームルームが終わる。夜はもう六時を三十分ほど回っていた。

 生徒会と風紀委員、文化祭実行委員は帰りまで別行動なので、僕は校門で光月を待つことにした。一応メールだけは入れておいたが、返事はなかった。きっと最終的な仕事の最中で、携帯をいじる時間がないのだろう。僕はそう思って気にしていなかった。

「水無月君、お疲れ~」

 校門の塀の内側にもたれて、待つ体勢に入っていた僕に、帰りがかった昌子がそう言った。彼女の乗りはいつも軽くて明るい。

「ごめんね、結局午後もほとんど手伝ってもらっちゃって」

「ああ。あの状況じゃ仕方ないよ」

「でも、せっかく藍川さんと二人で回っていたんでしょ?」

「まあ、それはそうだけど……」

「強引に手伝わせちゃったから、もしかすると藍川さんはご機嫌斜めかもしれないわよ?」

 彼女は悪戯っぽく言って、肩をすくめた。 

 まさか、そんなことはないだろう。だってさっきも僕より先に手伝うことを了解したし、それに第一、いくら二人の時間が裂かれたにしてもあの状況で手伝ったことでへそを曲げるほど、彼女は子供ではないはずだ。

「それは、きっと大丈夫だよ」

 僕は答えた。

「そう。それならいいけど」

 あたりは十分に暗くて、生徒もいっぺんに帰ってしまったのか、すでにポツリポツリとしか姿が見えない。

「あっ、それじゃ、先帰るね。バイバイ」

 校舎のほうをちらりと見て、少し慌て気味に突然手を振る昌子。僕は「ああ」とだけ返して、また壁にもたれかかった。

 ふと、見慣れた人影を発見する。

 暗がりだが、見間違えるはずもない。光月だ。

 僕は軽く手を上げてみた。しかし彼女は気づかない様子で、少し前の地面を見たまま校門を過ぎようとする。

「光月ちゃん」

 僕が呼ぶと、ハッと顔を上げてこちらを向く。

「仙君。待っていてくれたんだ……」

 ぎこちなく光月は言った。

「うん。先に帰るわけないだろ。メールにもそう書いたんだし」

 僕の言葉に、彼女はばつの悪そうな、ちょっと驚いたような表情をした。

「メール、届いてない?」

「え、あ、うん。ごめん、見てなかった」

 光月は言って、ポケットから携帯電話取り出す。ボタンを二、三回押して、

「ええ……届いていたわ。ごめんなさい。わたし、見ていなくて」

 苦笑いを浮かべながら、ぶつりぶつりと歯切れの悪い言い方をする。彼女の一挙一動が、なんだか不自然だった。

「疲れた?少し顔色が優れないようだけど」

「平気よ。大丈夫」

 彼女は首を小さく振って言う。しかし、どう見てもあからさまに元気がない。

 そのあとの会話が続かなかった。

 いつもの心地よい沈黙ではなく、何かを話したほうがよいのに、何を話すべきか分からない、気まずい空気が流れる。僕は話題を探していた。彼女を相手にわざわざ話題を探すなど、非常に珍しいことだった。

「あ、そうだ。この前の本、読んだ?」

「この前の……『山猫の憂鬱』?」

 そう聞き返す光月は、なんだかとても不機嫌に見えた。言葉の端々に棘を感じる。

「読んでいないわ」

 彼女の答えはそれだけだった。

 いつもの彼女ならこんなに単調なものの言い方をしない。やはりなんとなく違和感があった。

「……ねぇ、やっぱり具合悪いんじゃないのか?」

 僕はもう一度聞いた。いつもと違いすぎる彼女はやはり心配だ。

「具合は悪くないわ」

「じゃ、何が悪いの?」

 言葉のあやというか、流れというか、反射的にそう返してしまったのが、どうやら良くなかったらしい。

「どこも何にも悪くないわよ!」

 暗い夜道に、透き通るような声が響く。

 驚いた。

 僕は固まったまま、立ち尽くしていた。

 光月が、こんな風に大声を上げるなんて、思いもしなかった。

「あ、あの、光月ちゃん……」

 僕は少し放心、というか、おろおろしてしまい、複雑な表情で眉間にしわを寄せている光月を見つめた。

「あ……わたし……。ごめんなさい。大丈夫。本当に、どこも悪くないから……」

 彼女はその後にもう一度「ごめんね」と、そして「それじゃ」と言って、駆け出してしまった。追いかけようとしたが、そこはすでに彼女の家のすぐ近くでどうすることもできなかった。

 僕は何がおきたのかさっぱり理解できないまま、しばらくその場を動けなかった。誰もいない路地に向けて、首を傾げてみる。

 僕は何か、知らないうちにまずいことでも言ったのだろうか。

 秋の夜風がとても冷たく感じられた。

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