第12話 愛していると言うのなら

 その誘いにどう答えたかは曖昧だが、詩乃は彼の言いつけに逆らったことは一度もない。とどのつまり肯定したのだ。プロポーズと引き換えの心中の誘いに。余炎厳しく全身火照る中で、左手の薬指だけがひんやりと冷たい。

 目の前の時夜が柔らかな笑みを浮かべている。慈しまれていることをありありと伝えてくれるこの顔を詩乃は何より好いていた。ずっと見ていられるなら、対価に何を差し出しても良かったのだ。初対面の時からこの思いを胸に抱いて、詩乃は時夜に付いてまわった。でも、思いは少しも変わらないのに、大好きな笑顔は変わってしまった。そこに両親の面影を見出した瞬間、時夜のこともまた疲れ果てさせてしまったのだと、否応なしに理解した。

 ギフテッドとは神様に愛された特別な人間だと言われる。故に祝福すべき存在であると言うのなら、神様というのは随分と思い上がりも甚だしい。神様なんかじゃなくてお母さんとお父さんから普通に愛されたかった朔と同じように子供扱いされたかった。詩乃は自身の特異性を自覚した時からそう願い続けた。その願いさえ叶えば、もしかしたら妬みに塗れた苛立ちの矛先を隠そうともせずいたずらに弟を傷つけてばかりの、世界で一番悪い姉になんかならなかったかもしれない。救いようのない性格の悪さも、ちょっとは取り繕えたかもしれない。いくつものifを並べたところで言い訳にもならないことは重々承知の上で、夢を見ずにはいられなかった。普通でさえあれば、普通に生まれられれば。もはや夢と呼ぶのも憚られる、恨みがましい執着を知って尚、時夜は詩乃に優しかった。

「じゃあ、俺が詩乃の夢を叶えてあげるよ」

 宣言の後、時夜は何をしても詩乃の隣に並ぶようになった。成績はツートップとなり、話しかければそれ以上のことが返ってきて、運動や芸術に至っては詩乃より遥か上を行く。彼女の特異性は時夜の前では次々と崩れて、どこにでもいる普通の子であるという認識を植え付けられた時、呼吸ひとつ取っても比べ物にならないほど楽になれた。

 だけどそれは、時夜に惨い負担をかけ続けることに他ならない。天性という名の壁を突き破る努力の裏にどれほどの血や涙が流れたかなど、想像するのも烏滸がましいと詩乃は思っていた。努力などしたことのない脳で想像出来ると思った時点で、彼の努力を矮小化しているような気分になった。

 それなのに、どうしても、やめてほしいとは言えなかった。また一人で特別に戻るのが怖かった。疲弊して擦り切れてしまういつかが来ることを予想していたのは、詩乃も同じ。彼に従順であり続けるのはせめてもの償いのつもりだったのかもしれない。

 誰より自分の言うことを聞くこと、どんな我儘でも隠さず言うこと、人との交流は最低限に、スマートフォンは持たないように、梛蕩で一人暮らしをするように。それほど多くも大変でもない頼み事の中に、心中が加わるだけ。思いつく中で使えそうなものに絞れば、どんな手段を用いようと自死は痛みか苦しみを伴うだろうけど、詩乃はもはや命が消えることに対する恐怖など感じることすら出来なかった。生きて独りに戻るより、ずっと良い。

 初秋の空は明るい青色をしていて、内情はともかく、彼らによく似合う。まだまだ容赦なく照る日差しのせいでじっとりと汗をかいていたが、どちらからともなく繋いだ手を離そうとはしない。側から見れば暑苦しいほどに仲睦まじい若人たちである。彼らは死に場所を求め彷徨っているなどと言われて、誰が信じるだろうか。

「邪魔が入らない場所じゃないとね」

「綺麗なところが良いなあ」

「海好きだもんね」

「うん、大好き」

 時夜がもたらしてくれたものだから。

 何でもかんでも言うことを聞く関係は不健全だと忠告してきたのは朔だったはずだ。その時は反発したものの、今となってはぐうの音も出ない。無理強いへの償いとしての従順さなど、健全さからはほど遠い。ただ、少なくとも詩乃は不幸ではないと思っている。誇張なしに時夜を通せばどんなものでも美しく素敵なものに見えるから。社会のシステムに傷つけられてきた彼女が厭世家にならなかったのは、時夜あってこそだ。

 様々な話と、それすらも心地よい沈黙を繰り返して、ようやく二人が満足する場所を見つけた頃には日が暮れかかっていた。剥き出しの土の道を慣れた足どりで進み奥へたどり着くと、予想以上のロケーションに嬉しくなって二人顔を見合わせて微笑む。ちょっとだけ眺めていたいと言い出した詩乃を時夜は咎めなかった。呼んだらおいでねと言い残し、最期の場所へ繋がる橋を渡っていく。

 木々の向こうに日が落ちて、辺りの光景は疑似的な紅葉景色と化す。気温は高いままだが吹きつける風を冷たく感じて、秋の訪れがそう遠くないことに詩乃は思いを巡らせていた。彼女は秋や冬の梛蕩を知らない。夕焼け色の海や、雪化粧に染まる港町はさぞかし綺麗だろう。

 名前を呼ばれるのを待つまでもなく、慎重に橋を渡る。輝く水面の上に架けられた橋は人一人だけで精一杯の細さで柵も設けられていない。無理矢理すれ違おうとすればどちらかまたは両者共々落ちてしまうに違いない。加えて橋は腐食が始まっているらしく、一歩進むごとに嫌な音を立てる。いつもなら尻込みしているところだが、今の詩乃はあいにく相応の覚悟を決めていた。

 橋の先は東屋になっていて、そこからは人生最期を彩るのに上々の光景が見える。人は詩乃と時夜しかおらず、不愉快な虫の季節は過ぎて、ひぐらしの歌が悲しげに響く。水鳥の親子が生む波紋は、詩乃たちのところへ届くまでに薄まり消えた。

 時夜は床に座って黙々と作業している。これからの旅路のために必要なものを取り出しているのだろうか。詩乃は邪魔にならないよう少し離れたところに座った。床下はすぐ水面だと思ったが、予想よりも高いところに東屋があるのか、それとも床板が厚いのか、ともかく水の流れや冷たさを感じることは出来ない。じっとしている詩乃はいいとして、彼女は時夜を心配していた。しかし彼はやはり涼しい顔をしているように見えて、詩乃は驚き半分、然もありなんという気持ちにもなっていた。

 自分がギフテッドであることを囃し立てられるのを疎んでいながら、詩乃は時夜に神様に近しいものを見ていた。人間を気まぐれに弄ぶ本来の神ではなく、己に縋るものを慈悲にて包みこむ救世主として、人間が空想の中に作り上げた神様。神話ともまた違うおとぎ話の中の上位種。そうした幻想を押しつけられる苦しみを知っている詩乃の目にさえ奇異に映るくらいに、時夜は不思議な魅力に溢れていた。ただただ恵まれた容姿と、若人特有の万能感、詩乃に追いつくための並々ならぬ努力によるその裏付け、それから聞けばすぐ納得のいく理屈が彼をそうさせているだけなのだが。たとえば彼は常に長袖を着ているが、その理由も単に肌が弱くて夏の日差しに当たれないといった分かりやすい理由がある。常に涼しい顔をしているのは、気温による機微が顔に出ない体質だというだけ。気さくで人当たりの良い性格も、彼の場合は角の立たない振る舞いが一番の処世術だと理解しているからである。それにもかかわらず、完全無欠の時夜を目の前にした者は彼を神様だとか天使だとか、自分とは違うところに居る上位種だと見做すのだ。幼い日から今日までの詩乃のように。もしくは新居への道を見失い、炎天下を彷徨い歩いたいつかの音成のように。

「お待たせ。大丈夫?」

 笑顔を貼りつけたまま、時夜は静かに詩乃の元へ来た。隣に座って差し出した手のひらに、ベージュ色のブリスターパックが乗っている。そこにはこの国で手に入る薬として上位の強さを持つ睡眠薬の品名が印字されていた。当然ながら店頭では買えない代物である。どんなルートで手に入れたかは聞かないが、正規ルートでなければ良いと思ってしまった。誰より大好きな人がこれを処方されるほどの精神状態に陥って苦しんだ経験も、それが自分のせいであるという事実も、全てが存在しないことを祈るしか詩乃に出来ることはなかった。

 否、もう一つ。

 二つの錠剤といつのまにか買っていたらしい水のペットボトルを受け取ると、詩乃は常備薬を飲むかのような流れでそれらを飲み下した。そして一気に残りの水を飲み干すと、空き容器と薬の空包装を念入りに指で拭ってから、自身の鞄の奥深くに詰め込む。

 即効性の高い薬でもタイムラグは発生するが厳密な時間は分からない。その上、確かこの薬はうとうとと眠気が訪れるのではなく、ぷつりと意識が途切れるはず。予兆が不明な以上、呑気に構えてはいられない。詩乃は深く息を吸って、言いたいことを声にした。

「さようなら。元気でね、時夜」

 流石に唖然とするかと詩乃は思った。心中を持ちかけた相手が、これから先の未来を匂わせるようなことを言ったのだ。無理もない。

「わたしは大丈夫だから、ちゃんと一人で死ぬから。絶対に時夜を恨んだりしない。邪魔もしない。だから」

 目の痛みは薬の反応だと思いたい。覚悟は決めてきたのだから。たとえ心中が嘘で自分一人が死ぬことになっても、決して時夜を恨まないと。そもそも、死んでしまえば全て終わりだ。霊魂になって取り憑くのも幸福を祈りながら成仏するのもフィクションならではの演出で、実際は意識が消えてそれっきり。捨てたくても捨てられなかった独占欲も攻撃性も消え去って残らない。時夜を縛るものは全てが消えて、これからはどんな生き方だって出来る。

 それでも詩乃は知っていた。たった二錠程度の睡眠薬で人は死ねない。つまり時夜が本当に自由になるには、自らの手で詩乃を殺めなくてはならない。それでは駄目なのだ。一度でもそんな大きな咎を背負ってしまえば、真っ当な幸福を掴む機会など決して訪れない。

「逃げて。どこか遠くに行って。そしてわたしのことなんか全部忘れて、幸せになって……」

 小柄だからか、初めての服用だからか、量の問題か、詩乃が考えていたよりずっと早く効能が現れだした。あともう一言だけ、何よりも伝えなければならないことがある。

「……今まで、本当に、ごめんなさい」

 そう、もっと早く解放するべきだった。

 愛していると言うのなら。



「こんな勘違いをさせるつもりはなかったんだけどねぇ……」

 もう日も落ちて、これなら半袖になっても良いだろうと上着を脱ぎながら時夜が呟いた。上着は広げて床に敷き、その上に詩乃を寝かせる。意識がないことを度外視しても、やはり前より重くなった。以前が痩せすぎなだけでむしろ改善されたと言って良いのに、彼はあからさまに不満気だった。繰り返すが、好みの問題ではない。詩乃の変化は自分ありきでなければ気が済まないのだ。時夜は全てを詩乃に注ぎ込み、詩乃もまた時夜のために在る。二人で完結した関係性が永遠に続けば良かったのに、何も知らない部外者が首を突っ込んで、訳知り顔で掻き乱していく。反吐が出る。自分のものに手を出すような輩など要らないのだ。朔も、何とか言う隣人も。

 詩乃の発言は少し合っており、同時に多くの間違いを孕んでいる。彼女の才能に追いつくための努力に疲れていないと答えれば嘘だが、嫌気が差したことなど断じてない。それほどに彼は詩乃を愛しているし、彼女の居ない人生に幸福など微塵も感じられない。彼だって叶うなら生きて幸せになりたかった。でも、もう無理なのだ。詩乃は時夜の居ない世界でも幸福を模索し、彼に依存しないネットワークを広げていこうとしている。家族から離せば詩乃が傷つくことも誰かに奪われることもないと思って梛蕩に来させたのに、あの内向的な彼女が新たな交友関係を構築するなど思いもよらなかったのである。あと少しで、おそらく彼女は自分を必要としなくなる。それどころか今まで時夜がやってきたことが、ただ単に詩乃を抑えつけていただけに過ぎないと理解してしまう。拒絶されてしまう。そうなってしまえば、どのように努力を重ねたところで彼女の隣に立つことは叶わない。詩乃の幸福の中に自分の居場所はない。作戦の失敗と己の妄想に押し潰されて、時夜は狂いきった屍のように今までを生きてきた。

 それも今夜で終わり、ようやく楽になれる。考えるだけで幸せだが、時夜にはまだやるべきことがある。眼前に持ってきた未使用のカッターナイフは、名だたる凶器に見劣りしない鋭さを持って、彼の右手に収まっていた。

 腐った橋を乱暴に渡ってくる足音が喧しい。

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