第5話 過去の片鱗

 ここのところ以前にも増してスマートフォンを手放せなくなっている。朝起きてまずロックを解除し、食事を摂りながら画面を見て、外の郵便受けを確認しながら通知も確認し、卒業論文の執筆の息抜きに新着メールボックスを漁り、詩乃が来る前に充電する。日々がその繰り返しで過ぎていく。しかし送られてくるのは似たりよったりな内容のダイレクトメールばかりで、音成が期待するものは一切なかった。

 籠宮朔に手紙を出してからもうすぐ一週間が経つ。日付を考慮すると確実に届いているはずだが、未だに何のアクションもない。警察が訪ねてきたこともないのが救いだ。少なくとも、通報からの警察沙汰ルートだけは免れたということだから。

 それに日曜日以降、詩乃はアパートの敷地外に出ていないらしい。それはそれでどうなのかと思うが、人知れずどこかに身投げしましたなんて展開に比べたら遥かにマシ。あの日のことは自分の中だけで消化して、また普段通りの暮らしに戻るという選択肢もありだ。どんなに親しくなっても音成はやはり何も知らない他人で、救世主の役は身に余る。

「ヒーロー気取りで引っ掻き回して、馬鹿だ」

 スマートフォンの明かりだけが照らす一人ぼっちの部屋に、音成の自嘲が反響する。

 時刻は午後五時を回っていた。数時間後には昼寝から目を覚ました詩乃が空腹を訴えてくる。今日は野菜たっぷりチャーハンの日。金曜日が来る度に、来週こそパラパラなのを作ってみせると豪語して、結局一度も成功したことがない。詩乃は美味しいですよと言って食べてくれるが、それでは駄目なのだ。一度興味を持ったことは気が済むまで突き詰めたい。

 台所に立つと、先程までの憂いはすっかり影を潜めた。意気揚々と冷蔵庫を開ける。米はたくさんある。野菜は詩乃が持ってくるから良し、肉はウインナーを使うから良し。卵は……ない。

 卵のポテンシャルは高い。焼く、茹でる、炒める、何なら生でも食べられる。料理をする者なら誰もが重宝する具材だ。自炊初心者の音成も、困ったら卵に手をつけた。その結果が今である。一つくらいは残っていると思っていたが、どうやら今朝食べた目玉焼きで終わりだったようだ。そっと扉を閉め、エプロンの紐を解いた。買いに行くしかない。

 テーブルの上に置きっぱなしだった財布だけ持って廊下に出る。204号室の扉は今日も半開きになっていた。恐る恐る中を覗くと、相変わらず窓を全開にした部屋の中心で詩乃が眠っている。ブランケットを掛けているあたり、成長したとも言えるだろうか。

 階段を降りた。

 嵐が過ぎ去った梛蕩町には爽やかな風が吹き渡る。日没直後、うっすらとした赤から濃い青へと変わっていく空とそんな空の色を映したような海を音成はとりわけ愛していた。その光景を毎日眺めることが出来る喜びはどんな言葉でも表せない。長い年月をここで過ごして、いつか景色に飽きてしまっても、この夕暮れの空と海に感動したことだけは忘れずに生きていたいとすら思えた。

 点滅する街灯の下を一直線。スーパーマーケットは徒歩圏内にある。

 コツ、コツ、コツ。音成の足音に重なる、もう一つの足音が聞こえてきた。地面に目をやると、伸びた影がゆっくりとこちらへ向かってくるのが分かる。背筋を伝う冷たい汗が寒気をもたらす。その嫌な感覚を断ち切るように、音成は勢いをつけて振り返った。

 数メートル後方にいたのは、スーツを着た女性だった。彼女はきょとんとした顔で音成を見るが、次の瞬間には怪訝そうな顔つきになって足早に離れていく。弁明をしようと開いた口からは空気が漏れるのみで、伸ばした腕がやり場のない恥を語っている。音成は言い訳をする代わりに、鈍痛が残る背中をその手でさすった。

 詩乃が貯水池に飛び込もうとしたあの日は気が動転していたから、背中に石が当たったのは何かの偶然だと思ってさほど気にとめなかった。しかし風で転がった石が当たった程度で、こんなに痛みが長引くわけもない。

 あの石は誰かが自分を狙って投擲したもの。その可能性に辿り着いた音成は背後に気配を感じ取るのがすっかり恐ろしくなってしまった。防犯意識は高いに越したことはないが、ずっとこの調子では生活に支障をきたす。現に今、去っていった女性にとって音成は不審者以外の何者でもない。

 はああ、と深く溜息をついて、また歩く。

 やがて目当ての店に着くと、音成は籠を片手にまっすぐ卵売り場へ行った。必要なものはこれだけだ。

「ただいまからタイムセールを行います。本日の対象商品は牛肉……」

 そんな魅惑の店内放送が聞こえてきたのはレジに並ぶ前だった。音成はほぼ反射的に踵を返して、精肉売り場へ足を運ぶ。いくら梛蕩町の人口が少ないとはいえ、夕方のスーパーマーケットはそれなりに混雑するものだ。音成は卵と己の身を庇いながら、人の波間を縫うように泳いでいった。

 人集りに無理矢理腕をねじ入れて、指先を掠めたパックを一つ掴み、早々に退散。戦利品は焼肉用の味付き牛肉だった。美味しそうだなと思いながら値段のせいで躊躇し続けてきた代物だが、パッケージの上にでかでかと貼られた半額シールは音成に微笑んでいる。周りに人が誰も居なければ、幼子のように飛び上がってはしゃいでいた。しかし音成は大人なので、ガッツポーズをするくらいに留める。

「シノちゃんも喜ぶかな」

 救世主になれないなら、せめて気晴らしにはなってあげたい。美味しいものを食べさせるという、ありふれた術しか知らないけれど、自分に出来ることはきっとそれくらいしかないのだろう。

 音成はレジに戻らずお菓子売り場へ向かった。以前に詩乃が食べていたもの、好きだと聞いたものを籠に次々と入れる。一通り見終えたらジュース売り場へ。同じことをしてアイスクリーム売り場へ。腕がちぎれそうな重量になった籠を両手で引き摺るように、レジへ戻った。

 会計を済ませて外に出る。空は紺碧に染まりきり、銀色の星が輝き出していた。走りたかったが、卵入りの重いレジ袋がそれを許さない。のろのろと不安定な足取りで、行きよりずっと時間をかけながら来た道を戻っていく。

 やっとのことでアパートに戻った頃には、すっかり息があがっていた。

「あれぇ、音成さん? おかえりなさい」

「大家さんじゃないですか。ただいまです」

 大家は街灯の明かりを頼りに、掲示板のポスターを貼り替えていた。表情やおっとりとした口調からは好々爺ぶりを伺わせるが、すらりと伸びた背や常に良い姿勢を保つ姿は只者ではない……と音成が勝手に考えている。そんなキャラクター付けをするくらいには親しみを持てる相手だ。

「籠宮さんのこと、いつもありがとうございます」

「えっ」

「色々面倒見てあげてると聞きました。籠宮さんが嬉しそうにしていましたよ」

 その言葉を聞いて真っ先に、自分だけじゃなかったと思った。詩乃は誰がどう見ても気がかりになる状況に立っている。独りよがりだと思っていた自身の行動を肯定されたような心地で、音成はずっと気になっていたことを尋ねた。

「シノちゃんに届く手紙って、部屋番号間違ってますよね?」

「そう、そうなんです。ちょっと事情がありまして」

「事情って何ですか」

 それは守秘義務があるから、と言われるも音成は食い下がる。ここまで出された情報の欠片を逃す訳にはいかなかった。溶け出したアイスクリームにも袋を持つ指が鬱血する痛みにも構わなかった。シノちゃんが心配なんですと断言すると、大家は渋りながらも口を開く。

「206号室でボヤ騒ぎがあったんです。そこに入居していた籠宮さんの不注意でした」

 そんな出だしで語られた経緯はあまりにも衝撃的なものだった。

 大家曰く、詩乃は料理中に壁を焦がしたとのこと。詩乃の保証人である両親に連絡しようとするも、詩乃がどうか家族には言わないでと泣きながら懇願してきたこと。憔悴しきった様子に気圧され、とりあえず部屋を移動させたこと。角部屋である206号室は他の部屋より少し家賃が高いので、その差額を弁償に当てるようにしたこと。騒ぎを起こしたのは音成が205号室に入居すると決まった後だったので、詩乃は空き部屋の204号室に移動したこと。

「本来なら退去命令を出すような話ですよ。しかし火事がそこまで大事にならなかったのと、籠宮さんの様子が心配になって」

 おそらく詩乃と出会ったばかりの音成がしたのと同じ心配を、大家もした。

「……虐待」

「疑いました。しかし家賃は滞りなく払われてますし、手紙や食料品も頻繁に送られてくるんですよね」

 そう、彼女を取り巻く環境や彼女自身に不可解な点があっても、状況だけなら詩乃は仕送りを貰いながら一人暮らしする学生の立場に違いない。音成の前でも、詩乃が両親の話をする時の語り口はなみなみと愛を注がれた子供のそれなのだ。兄弟の話は一切されないことが気になっていたものの、詩乃が家庭に問題を抱えているとは到底思えなかった。

「すみません、私が話せるのはこれだけです」

「大家さんが謝ることじゃないです。むしろわがままを言ってしまって申し訳ありません」

 二人はお互いにぺこぺこ頭を下げて、各々の部屋に戻っていった。

 もうアイスはすっかり溶けてしまった。味は落ちるだろうが、冷凍室に入れて明日食べよう。詩乃の分はまた後日買えば良い。それよりも肉が心配だ。階段を登る。

 部屋に鍵はかかっていなかった。そもそも鍵を持って出ていないことを思い出す。これじゃ詩乃の危機管理能力を咎められないなと自分に呆れつつ、中に入って手探りで電気を点けた。

「ひっ!?」

 先程まで真っ暗だった部屋の中央に、人が居たのだ。こちらに背を向けてへたり込むその人物は、声に反応したのかはたまた明かりが点いたことに反応したのか、ゆっくりと振り向いた。詩乃だった。

「何してんのシノちゃん! 明かりくらい点けなよ!」

「音成さん……朔、って誰ですか?」

 その問いかけは、音成の背筋を凍らせるのに十分過ぎる威力を放っていた。どうにかして平静を保とうとしているのは詩乃も同じなようで、声音は僅かに震えながらどこまでも低く響く。

 音成は答える前に、そっと視線を下に向けた。詩乃の手に握られているスマートフォンは自分のものだ。きっと彼女は通知欄に籠宮朔の名前を見つけてしまったのだろう。待ち望んだ連絡だが、タイミングが悪過ぎる。もちろんそれは充電中だからといってスマートフォンを持たずに外出した自分のせいなのだが……

 しかしホーム画面に出るメールの通知は、内容までは表示しない。見られたのが名前だけならなんとでもなる。

「高校の時の友だ……」

「籠宮って、滅多にいる苗字じゃないんですよ!」

 間合いを一気に詰め、詩乃は至近距離で音成を睨みつけた。

「どうして?」

「確かに珍しい苗字だけど、シノちゃんしか居ないわけないでしょ」

「籠宮姓は全国に数百人程度。朔は人気のある漢字ですが、それでも上位……『蓮』などに比べればまだまだです。同姓同名はほぼ有り得ない。それもわたしの周囲なんて狭いコミュニティで」

 上気した詩乃の呼吸は荒い。音成はどうにかして宥めようとしたが、一向に落ち着く様子は見せなかった。

「どうして、あの子は……」

「友達と、シノちゃんが言ってる朔って人が同一人物ってこともあるかもしれないじゃん。色々習い事とかもしてたし」

「同一人物だったら嫌なの!」

 詩乃は両目からぼたぼたと涙を流している。ただならぬ様子に戸惑い、音成は何も言えなくなった。

「音成さん、は、わたしの味方だよね? 朔じゃなくてわたしのことが好きだよね?」

「落ち着いてよ。何があったか聞かせて? あっ、その前にご飯食べる?」

「いらない……」

 詩乃はしばらく音成にしがみついて泣いていたが、やがてふらふらと部屋を出ていった。待って、の声は届かない。

「シノちゃん!」

 音成の目前で閉ざされた204号室の扉には鍵がかけられた。こんな時に限って、と歯がゆい思いで扉を叩く。

「開けて! 落ち着いて話そう?」

「嫌だ、嫌だ……時夜……」

 後はすすり泣く声だけが聞こえる。

 詩乃と朔の確執は未だ分からない。ただ自身の不注意が最悪の結果を招いたことだけは理解出来る。その自覚があるから、音成は204号室の前を離れられなかった。扉を叩く手を止めて、音成は静かに息を吐く。

 今の詩乃に必要なのは……否、もう自分のことなんて必要としていないかもしれない。そんな理屈を散々捏ねてばかりだったから、詩乃はこうして傷ついたのだ。自分が傷つけたのだ。

 理屈じゃなくて本心を尽くす。結局のところ自分がするべきことはそれしかない。

「……シノちゃん。聞いてくれる?」

 返事はない。

「一人暮らしを始める時、すごく楽しみだったけど、同時に怖くもあったんだ。今まで家に帰れば絶対に誰かが居たけど、これからは誰も居ないところに帰らなきゃならないんだって」

「でも、君が居てくれたから。今はこの町に来れて本当に良かったって思ってるよ。君が友達になってくれたから」

「ありがとう、シノちゃん。大好きだよ」

 遅すぎるとは思う。今、こうしてすらすらと言えるなら、何故自分の胸で泣きじゃくる彼女に言ってあげなかったのか。

「明日もご飯食べに来てね。待ってるから」

「……本当に?」

 か細くて儚い詩乃の声が確かに聞こえた。

「いつもの時間。待ってるからね」

 音成は再び、確固たる意志を伝える。詩乃の声はもう聞こえない。

 目の前の扉が詩乃の拒絶そのものを表しているように見える。去れと言われているようだった。音成は居た堪れない気持ちになって顔を伏せ、誰にも届かないほど小さな声でごめん、と零した。

 荒んだ空気が漂う夜闇の中で、波の音だけがいつも通りの平穏を伝えていた。

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