第4話 暗雲は晴れ間に

 嵐は音成の予想通りに梛蕩町へとやって来た。荒れる海を眺めたい気持ちはあるが命には代えられず、音成は大家の忠告に従い雨戸を閉めて外から聞こえてくる風や波の音に耳を傾けるだけに留めた。それはそれで趣があるが、やはり海のきらめきや優しい波のざわめきに直接触れる楽しさには敵わない。

 一人暮らしの自宅待機が退屈なのは詩乃も同じなようで、彼女は音成の部屋に入り浸るようになった。二人で料理やゲームに興じるうちに、上空の厚い雲は緩やかながら流れていく。

 そんな日々が続いたある日曜日。音成と詩乃は共に一台のノートパソコンに向かっていた。

「……この論文の執筆者の持論は最新研究との齟齬があるため主張の主軸に据えるのは控えた方が無難かと思われますがもし必要なら……」

「菜根譚前集百二十三項に同趣旨の内容が含まれているので現代語訳と共に載せれば説得力が増すかと」

「ここ主語と述語が噛み合ってませんね。曖昧な言い方も避けましょう」

「『かかわらず』は拘泥の拘ですよ関係の関じゃなくて」

 詩乃の口はよく回り、音成は目を回した。指が絡まりそうな速度でタイピングしても追いつけない。それでも音成が数ヶ月かけてまとまる様子を見せなかった卒論は半分ほど形になってきている。研究を元に文章を考えて書いているのは音成だが、追加資料はほとんど詩乃の部屋か頭の中にあり、校正も詩乃の担当だ。共同執筆者として彼女の名前を書くことを、真面目に検討する必要があるかもしれない。

 ふと気がつくと雨の音がすっかり止んでいる。太陽が顔を出したようで、雨戸の隙間から細く光が差した。

「晴れた!」

「えっ、どこ行くの!?」

 音成が口を開くより速く、詩乃は外へ飛び出していった。みるみる小さくなる背中に、台風の目に入っただけだからすぐ帰ってきなよと叫んだが、届いたかどうかは不明だ。一人取り残された音成が、ふうと息を吐いた。

 戸締りもせず、窓は全開状態で昼寝していた彼女を見てから薄々勘づいてはいたが、詩乃はプライバシーという概念を持っていない。やたらと恋人の有無とか実家のこととかを聞いてくるし、喉が乾いたからと音成邸の冷蔵庫を勝手に開けるし、ペンが欲しくなれば引き出しも開ける。そもそも詩乃は同い年の高校生と比べても身躯や発想がかなり幼く、一般常識に疎いのだ。それに反して語彙や知識は並大抵から平均以上の大人を束にしても、易々と上を行く。膨大な知識を脳に収めておくために、常識を記憶する分の容量まで使われている印象だ。針が振り切れた人間との付き合いは、没個性な人間とのそれより数倍も楽しいが、しかし疲れる。連日連夜の悪天候に気が滅入っていたのもあり、今の状況はまさしく天恵だった。

 そこまで考えて、音成は自分の両頬を引っ叩く。求められてもないのに彼女の人生に介入しようと考えたのは自分だ。

 鞄から手紙を取り出す。さすがの詩乃も人の鞄をひっくり返すまではしなかったので、彼女が捨てた手紙をこっそり持ち出していることは秘密のままにしていられた。この中身を読めば、彼女が時折見せる仄暗い闇の理由の一欠片は分かる気がする。何日経っても、そして今も、封を破る勇気は湧かなかったけれど。

 雨がまた降る前に詩乃を迎えに行こう。再び手紙を入れた肩掛け鞄を持ち、音成も外に出た。

 湿り気のある重い空気が肌に纏わりついてくる。一歩踏み出すたびに汗が吹き出して気持ちが悪い。こんな中を、詩乃はどこまで走っていったのだろう。

 スマホを取り出し、慣れた手つきで地図アプリを起動する。四角い画面の一角を残して、あとは全てが水色に塗られていた。三方を海で囲まれたこの町の施設は多くない。詩乃は何も持たずに飛び出したからお金が必要な場所には行けない。食卓を共にするようになってからだいぶ回復したとはいえ、まだまだやつれている彼女にずっと走れるような体力もないはず。

 だとすれば公園か図書館くらいだろうか。地図によれば、どちらもここから遠くない。額に滲んでは流れ落ちる汗をハンカチで拭い、音成は歩を進める。

 聞こえる波音が爽やかだが、身体に吹きつける熱風のせいで冷涼感は相殺されている。むしろマイナスだ。音成は残暑厳しい海辺の秋に慣れておらず、アパートからさほど離れていないのに目を回している。足がやたらと重く感じるのは安物のゴムサンダルの底が溶けて地面に付着しているからだが、音成本人にはそこまで気を回せる余裕がない。

「う〜ん、死にそう」

 ひとりでブツブツ言いながら、音成はこの町に引っ越してきた夏の日のことを思い出していた。どうしようもなく暑くて、誰かに助けて貰わなければそのまま死にそうだったところを見知らぬ少年が助けてくれたこと。顔も声も覚えていないけれど、真っ赤なジャケットを着ていたことだけは覚えている。それも明らかに夏用ではない長袖の。

 天使か何かなのかもしれないな、と思った。あの少年が生身の人間だと言われるよりも、ようやく独り立ちした音成が早々に命を散らそうとしているのを見るに見かねた神様が送り込んでくれた存在だと言われた方がまだ現実味がある。もしかしたらアパートから見える、海上の神社に祀られた神様が歓迎してくれているのかも。それなら天使じゃなくて……何と言うのだっけ?

 乱雑で奇天烈な思考が収束を見せるより早く音成が図書館にたどり着いた。三階建てのシンプルなコンクリート造りで、特別大きくも小さくもない。もう少し前なら夏休みの自由研究に行き詰まった子供たちで溢れかえっていただろうが、今はしんと静まり返っている。

 ガラス戸に近づいて、愕然とした。

「台風上陸のため臨時休業と致します」内側にそんな貼り紙がしてあり、どの扉も当然だが鍵がかけられていたのだ。汗は顔から頭から滴って、地面に丸い染みをつけた。

 臨時休業自体は予測するべきだったから別に良い。せめてこのガラス戸の向こうの自動販売機を使わせてくれ……! 目を細めて凝視するも、音成は超能力者ではないので何も起こらなかった。

 しばし項垂れた後に勢いよく顔を上げると、視界の端に炎天下の厳しい光線を一身に受ける物体が映った。喜ばしいことに自動販売機は外にも設置されていたのだ。頭で考えるよりも早く、足が動いた。

 ペットボトルの水を一気飲みし、もう一本買った予備は首筋に当てる。体温が奪われていく感覚は、音成の意識をしっかりとこの世に繋ぎ止めた。

 気を取り直してまた歩く。

 どんなに進んでも、海の水色は必ず視界の片隅にある。磯の香りと波音も途絶えることなく音成を包み込んでいる。いい景色だ。

 ほどなくして、「梛蕩海浜公園」と書かれた看板が見えてきた。位置情報サービスを切り、案内掲示板に駆け寄る。公園は様々なエリアに分かれていて想像よりもずっと広い。しらみつぶしに探すしかないか、と音成は半ば達観して、地図を写真に撮った。

 しかし遊具のエリア、広場、球技場、海水浴場、全てを見て回っても詩乃が見つからない。オフシーズンだからか人は疎らで、人混みに紛れることは出来ないのに。もしかしたら読みが間違っていたのかも。音成はベンチに座って、予備のペットボトルの水を飲みながら地図を睨む。

「うん?」

 今まで気づかなかったが、現在地の近くからひょろひょろと横に道が伸びている。その先は小さく水色で塗られていた。地図上ではどのエリアもメルヘンな名前がポップ体でつけられているのに、そこだけは黒く細いゴシック体で貯水池と書かれている。念の為見て帰ろうかと、重い腰を上げた。

 公園内はどこも綺麗に舗装されているのに、貯水池に繋がる道は土が剥き出しのままだ。台風のせいでぬかるんでおり、いかにも歩きにくそうな道。しかし、良いことが一つある。

「居るんだ……!」

 音成のよりも小さな足跡が、ずっと向こうまで続いているのを見つけたのだ。別の人のかもしれないとはなぜか微塵も思わず、弾むような気持ちでそれを辿った。次第に灰色の雲で覆われていく空が音成を急かす。急げ、急げ。

 鬱蒼と茂った森が突然終わり、開けた場所に出た。並々と水を湛えた貯水池のほとりに人影が見える。目を凝らすと、それが長い髪の少女だと分かった。詩乃に間違いない。

「シノちゃーん!」

 音成の呼びかけは届いていないようだ。詩乃は身を乗り出した格好で固まっている。水面はすぐ側にある。

 嫌な予感がした。

 先刻よりも大きな声で叫んでも、詩乃はこちらを向かない。

 音成が地面を蹴った。後には深い穴が残された。

 強い日差しと湿気に削られ、体力は底を尽きかけていたが走るしかない。腕を振る。足が縺れる。視界が激しく上下する。

「シノちゃん! おーい!」

 詩乃の上半身が、ぐらりと前に傾いた。

 コマ送りの動画を見てるようだった。風が吹く。詩乃の髪がたなびく。水上へと、踊るように……

「駄目だ!」

 音成が叫んだのと、手にしていたペットボトルが吹っ飛んでいくのが同時だった。半分ほど中身が入ったペットボトルはまっすぐに詩乃の方へ飛び、そして命中した。幸いにも詩乃の両手は柵から離れておらず、彼女はこちら側の陸地へと倒れ込んだ。

 音成としてはペットボトルを投げるつもりもなければ、詩乃にぶつけるつもりもなかった。つまりまったくもって予想外の事故が起こってしまい、顔を青くして駆け寄る。詩乃は倒れたまま、顔を押さえて呻いていた。

「痛いよ、時夜……」

「ごめんシノちゃん、ぶつけるつもりはなかったって言うか本当にごめんなさい」

「えっ、音成さん?」

 ここに来てようやく音成を認識した詩乃は、上体を起こして目を白黒させた。

「何してるんですか? なんでここに?」

「こっちのセリフなんだけど! 危ないでしょ!」

「平気ですよ」

 詩乃はにこやかに笑って、それがごく当たり前のことであるかのように言う。

「助けてくれるはずだから」

「そりゃあ今回は間に合ったけど!」

 詩乃が何かを言いかけたが、その言葉が音成に届くより先に雷鳴が轟いた。

「とにかく、もう帰ろう。早くしないとまた雨が降る」

「でもせっかくの日曜日なのに……」

 名残惜しそうに呟いた詩乃の、とろんと蕩けて濁った目が、本当は何を見て何を望んでいるのか。音成には分からなかった。

 ただ一つ分かるのは、もし自分がここに居なかったら詩乃があのまま水底に沈んでいたということだけ。好奇心で踏み入れた友人の闇は恐ろしく深くて広くて、何も知らない音成には照らせそうにない。

「ねえ、もう帰ろうよ」

 そっと差し出した手を、詩乃は握ってくれた。暑いけれど今はそれが嬉しい。

「帰りましょうか」

 対する詩乃はいつもの笑顔に戻っている。今夜はソーメンが食べたいです、なんて言う声がとても呑気だ。泣きたいような笑いたいような複雑な気持ちで、音成が詩乃の手を握り返す。

「ぎゃっ!?」

 突如、背中に鋭い痛みを感じた。ついで足元に拳大の石が転がる。振り返ってもそこには茂みがあるだけで、人も動物もどこにも居ない。物が突然飛んでくるような状況ではないはずなのだ。

「大丈夫ですか?」

「へ、平気。いいから帰ろう」

 音成は動揺を取り繕えず、詩乃の手を半ば強引に引いた。帰り道を教える詩乃の口調は、地図アプリの案内よりもずっと分かりやすかった。

 二人は雨が降る前にアパートに到着し、音成の住む205号室に転がり込んだ。身支度を整えて、水を張った鍋をコンロの火にかける。今夜のメニューはリクエストに答えてソーメンだ。夕食の出来上がりを期待してこちらを見てくる詩乃ははしゃいでいるようにすら見えて、さっきのことは夢かと思うほどだが、しかしまったく安心出来なかった。

 背中は痛いし、詩乃に巣食う闇を払えたわけではもちろんない。ただでさえ危ういところがある上に、「自殺を図った」なんて情報が加わってしまえばいよいよ匙を投げる訳にはいかなくなった。しかし解決に必要であろう情報はないし、聞いてもはぐらかされて終わりなのは経験で分かる。つまり完全に手詰まりだった。

 頭に悩みをこれでもかと詰め込んだまま、音成は食事を作る。二人でそれを食べるも、今日ばかりは話に花が咲かなかった。いつものように皿を洗い終えた詩乃が、ではお暇しますと会釈する。

「か、帰らないで!」

 詩乃は不思議そうに音成を見て、納得したように微笑んだ。

「大丈夫ですよ。また明日」

「でも……本当に?」

「ええ。卒論でしょ? 心配無用です」

 そうじゃないんだけど、と言おうとした代わりに、助かるよと冗談めかして言った。

 扉が音を立てて閉まるのを確認し、音成は鞄をまさぐった。指に触れた紙を引っ張り上げる。

 詩乃が捨て、音成が持ち出した手紙。ずっと開封を躊躇っていたが、そんな臆病なことはもう言ってられないところまで来てしまった。封筒を丁重に破り、中の便箋を震える手で開く。


姉さんへ

お元気ですか? 俺はそれなりにやってます。

夏休みは家族で旅行に行きましたが、やっぱり父さんも母さんも、姉さんがいないと寂しそうでした。

もちろん俺も、寂しいです。

それに兄さんは姉さんのことが大好きなので、絶対に山味町に戻ってくるはずです。その時に姉さんに会えなかったら、兄さんは悲しくて泣くと思います。

それと、高校は全寮制のところに行こうと思っています。父さんと母さんも了解してくれました。今から準備しています。

だから、早く帰って来てください。

いつでも姉さんの帰りを待ってます。

朔より


 それは短い手紙だが、情報に飢えていた音成にとって福音だった。「籠宮朔」はやはり詩乃の身内で、おそらく弟。詩乃は本人の言葉通り家族に愛されている。そして帰ってくることを望まれている。

 気になる点は二つ。今は実家を離れているらしい兄の存在と、寮に入れる「から」帰って来いという朔の言い分。

 まず前者、子供が独立して家を出るのは音成がそうしたようにありふれたことだが、詩乃から兄の話を聞いたことはない。そして後者、アパートの家賃や食料を送ったり、子供を寮に入れたりするよりは家族揃って暮らす方がよっぽど節約になるだろうに、朔が寮に入れば詩乃が帰って来れるという主張はおかしい。音成は机の引き出しから新品の封筒と、便箋がないのでコピー用紙を取り出した。人様に送る手紙としてはマナー違反もいいところである。

 それからスマートフォンのメモアプリを開き、乱暴なフリックで文字を打つ。消しては打ち、消しては打ち、ようやく原稿ができた時には太陽が昇りはじめていた。

 拝啓の二文字すら惜しい。時候の挨拶なんかに文字数を割いている余裕はない。言いたいこと、知りたいこと、こちらの情報を書き連ねる。一語一語、綺麗にとは言えなくとも最低限、読み間違いのないように。それにしても、籠という字はバランスが取りにくい。


籠宮朔様

突然の不躾なお手紙をどうかお許しください。

籠宮詩乃ちゃんの隣室に住んでいます、音成と申します。

彼女とはある理由で仲良くなり、今では毎日一緒に夕食を食べています。

先日、彼女が貯水池に飛び込もうとしました。その時はなんとか止めましたが、もしかしたらまた繰り返すかもしれません。

詩乃ちゃんがこのようなことをする理由に心当たりがあれば、ぜひ教えてください。スマートフォンのメールアドレスを記しておきます。

〇〇〇〇@××××.com

もしもスマートフォンなどを持っていなければ、封筒に書いた住所宛に手紙を頂けると幸いです。

音成


追伸

詩乃ちゃんが住んでいるのは204号室です。


 これは賭けだ。

 この手紙をご両親に見せられたら、間違いなく通報される。音成の人生は翳り、詩乃は連れ戻される。家族揃って暮らすという籠宮家の願いが叶うことになるが、きっと今の詩乃にその展開は毒。それでも他に道はない。この危険な賭けに、音成は身を任せるしかなかった。

 インクが乾ききったことを確認し、折りたたんで封筒に入れる。切手と住所を念入りに確認した後、徹夜の体に鞭打って音成は立ち上がった。

 ポストに塗られた人工的な赤は、朝焼けの中でも目立って見つけやすかった。ゆっくり深呼吸して、手紙を投函する。それは手を離した瞬間に吸い込まれて、かたんと音を立てた。

 どうか全てが良い方向に進みますように。

 ポストの前で手を合わせ、音成が祈る。

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