第3話 gifted

 カレーがたっぷり二人分入った鍋を持ったまま、音成は唖然と口を開ける。床中に散らばる紙の上で、詩乃が大の字になって眠っていた。不用心にも玄関扉に鍵はかかっておらず(だからこそ音成はここの持ち主を起こさぬまま部屋に入れた)、たたきには一人分の靴しかない。先日、二人で買い物に行った際に選んだ可愛いデザインのカーテンは、開けっ放しの窓から入り込んでくる潮風に揺れていた。その度に、地面の紙まで舞い上がる。

「……信じられない」

 呆れ果てた音成の声、鍋から漂うカレーのスパイシーな匂い、米が炊きあがるアラームのどれに反応したかは分からないが、詩乃が上体を起こす。未だ玄関に突っ立ったままの音成を緩慢な仕草で招き入れた。

「音成さんこんばんは!ご飯食べましょ」

 紙をかき集めて適当に置き、折り畳みテーブルを引き寄せる。鼻歌交じりにキッチンに立ち、これまた音成との買い物で買ったカレー皿に白飯をよそう。スプーンはコンビニで貰うプラスティックの物。最後、アパート一階に設置された自動販売機で買ってきたお茶を冷蔵庫から出して、詩乃の準備は終わり。腹の虫がうるさいくらいに鳴いている。

 小さなテーブルの真ん中に布巾を敷いて、鍋を置く。蓋を開けると、今晩の主役が姿を見せた。

「美味しそう」

 詩乃はもう目を輝かせて、じっと音成の手元を見つめている。半開きの口からは今にもよだれが垂れてきそうだ。彼女の実家の両親が送ってくれた野菜が、少し黄色っぽくてねっとりしたルーに絡んでつやつやしている。

「食べていいよ」

「いただきます!うわ美味しい!」

 カレーを頬張る詩乃は幸せそうだ。ゆっくり食べな、という音成の声も届かないくらいに。その様子を見ているとなんだか温かい気持ちになる。小さく聞こえる咀嚼音に混じったガリガリという音は気になるが。

 詩乃の好きなカレーは甘口。少しくらい辛くても美味しいのになと思いながら、音成も自分のスプーンを口に運ぶ。

「!?……えっ硬っ、硬い!」

 なんとか噛み砕いて飲み込むと、きょとんとした詩乃をよそにスプーンでカレーをかき混ぜていく。例のごとく火を通しすぎて柔らかくなった野菜はほろほろに崩れていくが、米だけはその形を変えないどころかスプーンを跳ね返した。見ると、大方のちゃんと炊けている白飯に芯が残ったままの粒がくっついて塊を成している。

 詩乃と知り合い、部屋の掃除を手伝ってから数週間。明らかに生活能力が低いまま一人暮らしを始めたらしい彼女を放っておくことがどうしても出来ず、また食料が余ることをもったいなく思った音成は、毎日夕食を二人分作って詩乃と共に食べるようになった。そのせいか詩乃の顔色は出会った頃より幾分か良く、体格も健康的になりつつある。その変化に安堵するのと、詩乃の実家から送られてくる野菜を使わせてもらえること、何より料理初心者でなんでも作ってみたくなる(そして大抵、食べきれない量になる)音成の料理を美味しいと言って平らげてくれるのがありがたかった。そのため音成としてはもう有り余る程のリターンを貰っているようなものだったが、詩乃はお世話になってばかりだと捉えているようだ。「今日の夕食は、私がお米炊いておきますね」そんなことを言い出したのも、内心で引け目を感じていたからだろう。

 しかしこれはひどい。炊飯釜の目盛り通りに米と水を入れてスイッチを押せばいいだけのはずなのだが。

「このご飯、硬いなあ」

「ごめんなさい……荊を負います」

 それでも詩乃は食べるのを止めない。ううん、と音成が唸る。

 部屋を見回せば数週間前の大掃除から時が止まっている。洗濯物は放置されているし、本はあちこちに積まれていた。飾り棚の上の写真立ては壁を向いている。掃除も苦手なようだ。必要な物や手紙をこまめに送ってくれる優しいご両親は、これで何故詩乃の一人暮らしを許可したのだろう。相変わらず何が書いてあるのか分からない紙も散らかしっぱなしである。

「これなんて書いてあるの?っていうかそもそも何語?」

「奥の細道ですー。ドイツ語の」

「ドイツ語」

「日本の古典文学は世界中の言葉で訳されてて、それらを比べるのはとても面白いですよ」

「へ、へぇ……じゃあこっちは?」

「イタリア語の枕草子」

「これは中国語かな?」

「広東語のテキストです。声調が多くてややこしい方です」

「全部読めるの?」

「まあ……それなりに得意なので」

 そう言う詩乃の目はどこか遠く、静かだった。

「すごいね、シノちゃん」

「やめてください」

 詩乃の声が素っ気なくなったのは、音成の微妙な声質の変化を感じ取ったからだろうか。

「……カレー、冷めますよ」

「あっ、うん、そうだね」

 音成とて目の前の少女があからさまな感情の降下を見せたことに気づけないほど鈍感ではない。ぎこちなく口に運んだカレーはぬるい。先程とは打って変わって雰囲気は重く、二人仲良く楽しい夕食とは到底言えなくなった。

 こうなってはもう、音成に打つ手はない。窓の外に広がる景色が夏休みの眩しさから秋の涼しさへ姿を変えた今、いつ何時訪ねていっても部屋にいる詩乃にまさか学校の話を振るような愚かな真似は出来ないし、その話題が封じられればもう音成と彼女との共通項なんてどこにもないのだ。夕食がどんなに美味しいかを詩乃に伝えてもらい気を良くして、比較的簡単な料理のレシピを教える。二人一緒の夕食は、それだけの会話で過ぎ去っていくほどあっという間だったから。

 たかがアパートの隣人。それでも、毎日の数時間を重ねて過ごしてきたわりには、音成は詩乃を知らな過ぎた。もちろん逆も然り。あんまりにも寂しくないか、それ。音成は自分に言い聞かせ、恐る恐る口を開いた。

「あのさ、……ごめんね」

「え?いえ」

「シノちゃんのこと、なんにも知らないなあって思って。一緒に買い物に行くし、毎日こうやってご飯食べるくらいなのにね」

「確かに。わたしも音成さんのことよく知らないや」

「もうちょっと危機管理能力を身につけた方がいいよ。せめて玄関には鍵をかけるとか、窓開けっぱで寝ないとか、知らない人を部屋に上げないとか」

「でも音成さんは優しいじゃないですか。ラッキーでした」

 ふふふと笑う詩乃は、元通り愛嬌たっぷりの少女に戻っている。

「どうして引っ越してこられたんですか?」

「就職先がこの近くでねー、仕事は春からなんだけど、ひと足早く来ちゃった。一人暮らししてみたかったの」

「では今、大学四年生……くらい?ですか?」

「そうそう。二十二」

「わたし十六歳なので六歳差ですね」

「えっ、じゃあ高一なの?」

 中学生だとしても十分小柄の範疇に入りそうな詩乃。改めて実年齢を知ると、出会ったばかりの痩せ細った少女の姿が余計に痛々しく思えて辛くなる。

「高一ではないんです。学校行ってなくて」

 音成は途端に後悔した。分かっていた。分かっていたはずなのに、何故こうも迂闊なのか。ずっと避けていたのに全てが台無しだ。目も見れずにごめん、と呟いた音成を、詩乃は笑い飛ばす。

「別にそんな深刻に考えないでください。わたしは心の底から行きたくなくて、お母さんもお父さんもいいよって言ってくれたんです」

「だけどそれって」

「イジメでもないですよ。……まあ音成さんならいいか、言っても」

 詩乃が今になってようやくスプーンを置き、話し始めた。

「ギフテッドってご存知ですか」

「ギフ……めっちゃ頭いい人だっけ?」

「ちょっと違いますけどそれで構いません。で、どうやらわたし、そうみたいなんです」

「シノちゃんがギフテッドってこと?」

 はあああ、と息をつく。音成はしばしば混乱したように頷いたり首を傾げたりしていたが、やがて納得したようで口を開いた。

「つまりシノちゃんはめちゃめちゃ頭いいわけだ。なるほどね」

「ギフテッドにも色々あって、勉強が得意とか、コミュニケーション能力がずば抜けているとか、芸術的センスに恵まれているとか。最後のはタレンテッドとも呼ばれますけど、混同されがちです」

「ふんふん、それで?」

 どうか自慢だと思わないでほしいです。そう前置きして詩乃が語った彼女自身の前日譚は、音成にはまるで別世界のことだった。

 未就学児の頃から言語能力を筆頭に、学習面での突出した才覚を現していた詩乃は、いつだって周りの人物から賞賛され続けてきた。本を読めば両親は褒める。テストで学年一位を取れば教師が褒める。模試の成績が発表されればクラスメイトも褒める。すごいね、偉いね、賢いね……ありとあらゆる賞賛の言葉は、S極に引きつけられるN極のように詩乃へと集まった。

 ギフテッドという存在を知る前、詩乃は自分が異端だと思い込んでいた。周りを見ていれば計算式を書かずに答えが導き出せることも、一度読んだだけの物語を暗唱出来ることも普通じゃないと気づけたから。中学生の頃、どうしてもと頼まれてクラスメイトと放課後勉強会を開いたことがある。嫌味の一つもぶつけずに、暗くなるまで机に向かい詩乃の言葉を懸命に聞いている姿を見て、わたしに向かう賞賛の言葉は本来ならこういう人たちに向かうべきなのだろうと、引け目を感じる毎日。

(どんなに勉強が出来ても、真面目に頑張れないならお前は駄目だ)

 担任の、そんな心ない言葉こそ自身の評価として相応しいのだとばかり思っていた。画一的な教育の中に、詩乃の頑張りどころなんて皆無だったのに。健康な人間が呼吸を頑張れば余計に息苦しくなるように、あがけばあがくほど窮屈な世界の中に溺れ苦しんだ。

 転機は中学生活も残り半年を過ぎた頃にやってくる。娘の様子に違和感を覚えていた詩乃の両親が、ギフテッド支援団体のサイトを見つけたのだ。そこで紹介されていた特徴に思い当たる節があった両親は、詩乃に然るべき機関によるテストを受けさせ、無事に彼女がギフテッドであることを証明させた。

 自分の子供が特別な才能を持っていると知った時、大多数の親は喜ぶもの。詩乃の両親もその大多数に入っていて、その時の嬉しそうな顔、声はとても鮮やかだ。すぐに娘が誰にも理解されない悩みを抱えたまま十数年もの時間を過ごしたことに気づいて顔色を変えたけれど。

 退屈で、虚しくて、後ろめたい日々を、高校に行けばあと三年は間違いなく過ごさなくてはならない。現在の日本にはギフテッドのための教育機関は極少数であり、今から進学先として視野に入れるのは厳しい。かといって留学させられるほどの財力はない。悩んで悩んで悩む両親を見て、詩乃は高校に行きたくないと言った。

 気を遣っているなんてことはもちろんなく、本心からの発言だったのだが、やはり揉めた。それでも長い話し合いの末、これ以上苦しむくらいなら学校に行かなくていい、いつか大学に行きたくなったら高卒認定試験を受ければいいと言われ、詩乃の希望が全面的に通ったのだ。

 中学校を卒業したら家から離れて一人暮らしがしたいと言う詩乃を、両親は止めなかった。むしろ賢い子だから大丈夫と背中を押してくれた。取り決め通りの仕送りとは別に食べ物や手紙をよこし、互いに近況報告をしている。

「というわけです」

「はへぇ」

 間抜けな声しか出せないのも無理はない。可哀想とか凄いとか、そんな次元をあっという間に吹き飛ばしてしまうほど、詩乃の境遇は特殊だった。目を白黒させる音成を見て笑う彼女は今風の可愛らしい顔立ちをした、ごく普通の女の子にしか見えないのに。

「辛かったでしょう?」

「いいえ。わたしは幸せでした。時夜がいたから」

「トキヤ?」

「わたしを特別扱いしなかった、唯一。ずっとずっと隣にいてくれた……」

 潤んだ目を細めて、詩乃は夢を見るような顔になる。その頬は薄ら紅く染まって、きっと花の蜜のように甘い思い出があるのだろうと、色恋沙汰に疎い音成にも分かった。

「シノちゃんは、トキヤくんが好きなんだね」

「誰よりも好きです。この町は時夜が連れてきてくれた場所なんですよ。秘密ですよ」

「どんな子なの?カッコイイんだろうなあ」

 それは単なる雑談、もしくは恋バナを振られた際の礼儀とも言える反応で、実際音成にも僅かな好奇心があったことは否めないが、それでも社交辞令に過ぎない。しかし詩乃の顔からは一瞬で色が引き、その変貌振りに音成はたじろいだ。

「関係ないでしょう。そんなこと聞いてどうするんです?」

 二の句が告げない音成を、詩乃はまっすぐに見つめる。

「いや〜ちょっと気になってさ」

 言ってしまってから、ここで言葉を終わらせては駄目だと直感した。

「シノちゃんみたいな可愛い女の子を射止めるなんて、とんだラッキーボーイじゃん?それに、すっごい嬉しそうだったし、さ」

「フフッ。お上手ですね」

 どうやら機嫌は直ったようだ。ギフテッドであることへの賞賛と、彼氏(暫定)の話はタブー。そこに触れられると、詩乃は機嫌が悪くなる。肝に銘じておこうと思った。友情と呼ぶにはあまりにもギブアンドテイクの上に立っている関係だけれど、音成はこの町に来て初めての友人との繋がりを失いたくなかった。

 いつの間にかカレー皿も鍋も空っぽになっている。最後の方はすっかり冷たくなっていただろうに、本当に美味しかったですと詩乃は言ってくれた。

「よし、じゃあ後片付けだ!」

「わたしやります!」

 元気に立候補した詩乃が慣れた手つきで皿を洗うのを見つつ、音成はまったりお茶を飲んだ。ぐしゃぐしゃに丸めてある紙屑はさすがにいらないだろうと、手を伸ばしてゴミ箱に投げ入れる。外した。

 音成はそれを拾って、今度はゴミ箱に近づいた。封の切られていない手紙が入っているのを見て、目が点になる。

「ちょっとシノちゃん、手紙捨てちゃダメじゃん」

「迷惑メールみたいなものなのでお気になさらず」

 でも、と言おうとして口を噤む。そうやって、今夜だけでいくつ地雷を踏んだ。本当にいらないにしろ、訳があって捨てたにしろ、人のプライバシーに土足で踏み込むのは失礼極まりない行為。明らかにDMとかの類には見えなくても、拾ってましてや読むなんてしてはならない。そこまで分かっていても音成の手は止まらなかった。ゴミを捨てるついでに、指先だけで手紙をつまみ上げ、文字を確認する。

(○○市梛蕩町××番地Maison de la Mer206号室 籠宮詩乃様)

 おかしい。住所と詩乃の名前は合っているが、この部屋は204号室であり、角部屋の206号室は空き部屋だ。音成は角部屋を希望していたが、既に人が暮らしていると聞いて仕方なくその隣の205号室に入居した。しかし、いざ音成がここに来ると206号室が空き部屋となっているというややショックな事情があり、記憶違いということも有り得ない。

 ただの書き間違いだろうと自分で自分を納得させ、封筒を裏返す。

(△△市山味町□□番地 籠宮朔)

 思わず声を出しそうになる。山味町は音成の出身地からさほど離れていない、山あいの町だ。ついさっき、詩乃はこのアパートがある梛蕩町を時夜が連れてきてくれた場所だと言っていた。恋愛対象として話していた以上、親戚ということはないだろう。歳が離れていても子供を連れ回す他人の男ということになるし、同年代だとしても子供だけで移動する距離ではない。そもそも、この町には外れの方にショッピングモールがあるとはいえ、年頃の子供たちが遊ぶ目的ならはるばる来る場所でもない。少し山を降りれば、△△市には巨大なモールもテーマパークもあるのだから。ならばかつての詩乃と時夜は、どういう目的でここに来たのだろう?

 そして、極めつけは差出人の名前。籠宮という聞き慣れない名字からして間違いなく詩乃の肉親だ。それを捨てる?迷惑メールみたいだとまで言って?両親を語る詩乃が嘘をついているとは思えない。しかし詩乃の話に両親以外の肉親の存在は一切出てこなかった。なら、この籠宮朔という人物は意図的に詩乃が除外しているのだろうか?

 疑問符に支配された頭で指先を離そうとしたが上手くいかない。そのうちに、ゴミ箱の底にもう二、三通ほど手紙が捨てられていることに気づいた。差出人は全部同じ、籠宮朔。

 音成はしばしの葛藤の後、指先で挟んだ手紙を引き抜いて服の下に入れた。

「音成さん、洗い終わりましたよ〜」

 幸運なことに詩乃には気づかれていない。出来る限り自然な笑顔を装ってお礼を述べた。

「ありがとう。そろそろ帰るね。おやすみ」

「おやすみなさい」

 綺麗になった鍋を片手に、玄関扉を閉める。音成は早鐘を打つ心臓を落ち着かせようと、大きく深呼吸した。

 下衆な好奇心がないとは言い切れない。それでも詩乃が抱えている闇を垣間見てしまった以上、何とかしたいという気持ちも確かにある。神様に特別愛された彼女に、凡人の自分が出来ることなんて皆無かもしれないけれど。

 廊下をほんの一部屋ぶん移動するだけの間に、波の音が聞こえてきた。頂点に達してから岩場に打ちつけられて散らばっていくまでがはっきりと聞こえる。もうすぐ嵐が来るのだろう。

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