第2話 友情のはじまり

 菓子折り片手に引越しの挨拶なんて、現実ではもう廃れた文化なのかもしれない。それどころか、最早フィクションの世界ですらなかなかお目にかかれない。そんなことは百も承知だけれど、音成はそれでも昔読んだ漫画で知ったマナーへの憧れを捨てきれなかった。

 それに、と目線を落とす。そこには昨日、音成を転ばせたダンボールが依然として鎮座している。さすがに同じ過ちを繰り返しはしないが、通行の邪魔なことに変わりない。お隣さんには何としてでも部屋の外に荷物を放置するのを止めてもらわなければならないのだ。

 インターホンを鳴らすと、実家のそれと全く同じ音色が響いた。

 何の前触れもなく扉が開く。目の前に立つ人物のみてくれは目を疑うものだった。水分のない伸ばしっぱなしの髪に、シャツワンピース……と言えば聞こえはいいが実際はくたびれた布をかぶっているだけにしか見えない服。そこから伸びる手足の痛々しい程の細さ。容姿が良いであろうことは想像がつくが、それでも誤魔化しようのない顔色の悪さと落窪んだ目を縁取る紫の隈。音成が何より恐ろしく思ったのは、この人物が明らかに自分より歳下だろうということ。せいぜい高校生か、下手したら中学生かもしれない。

「……だ、大丈夫?」

 文句を言おうと意気込んで来たものの、そんなことは思考の彼方に飛んで行った。

「なにがですか?」

 受け答えはしっかりしている。これを尋ねてもいいものか、音成は頭の中でぐるぐる考えて、やっと言葉を捻り出した。

「お父さんや、お母さんは?」

「わたし一人暮らしです」

「えっ」

 音成ですら就職が決まってようやく叶った一人暮らし。目の前の少女にそれ相応の生活能力があるとは到底思えない。となると、やはり虐待やその類なのだろうか。その場合はどうするのが良いんだろう。思考の渦に囚われて硬直した音成をよそに、少女は扉から顔を出した。

「あ、届いてたんだ」

 裸足のまま外に出て、例のダンボールを引っ張り込む。もう彼女は音成のことなど見えていないようで、力任せにガムテープを剥がしていた。中に入っていたのは野菜だった。

 いくつかは泥もついているそれを、少女はかるく指で拭っただけで口に運び、咀嚼した。

「何してるの!?」

 小首を傾げて上目遣いにこちらを窺うその表情が雄弁に伝えてくるのは、「何言ってんだこの人」の一言。少女はあたかも音成の方がおかしいことを言っているかのように、嚥下の後答えた。

「食事ですが?」

 絶句した音成をよそに、少女は再び箱の中へ手を入れる。

「待って。少し待って!」

 音成はずっと手にしていた菓子折りの包み紙を半ば破るように取り除いて箱を開けた。ずらり並んだクッキーを、箱ごと少女の眼前に突き出す。健康的とは言えないが、洗いもしていない野菜よりもずっと、今の少女には必要なように思えた。

「これ食べて!」

 少女の顔が心做しか明るくなる。箱を音成に持たせたまま、個包装にされたクッキーを取っては食べ、取っては食べていく。雪を踏むのに似ていて、それよりも軽く小さな音がしばらくの間鳴り止まなかった。

「ごちそうさまです」

 音成の手には、空っぽになった箱だけが残った。

「美味しかったです。ありがとう」

 ふにゃりと笑った顔は泣きたくなる程に無邪気で、子供どころか弟妹もいない音成ですら、庇護の対象だと認識してしまう。この子の親は一体どうして、こんな仕打ちが出来るのだろう。

「君、名前は?」

「詩乃です。籠宮詩乃」

「引越してきた音成です。よろしくね」

 伸ばしかけて、今のご時世に握手はどうなんだろうと引っ込めた手を、詩乃と名乗った少女は両手で掴んだ。そこから少女らしくもない骨ばった感触が伝わって、音成は悟られないように顔を歪めた。

「詩乃ちゃん、もしまだお腹が空いてたら何か作るよ。食べたいものある?」

「いいんですか? じゃあ、野菜のスープが飲みたいです。材料はたくさんあるので」

 詩乃の視線の先のダンボールには一人暮らしにはやや多いくらいの新鮮な野菜が詰まっていた。

「いい野菜は高いからって、いつも送ってくれるんですよ。こんなにあっても困るのに」

 不平を漏らしているようで、詩乃は心から幸せそうな笑みを浮かべている。そのちぐはぐさが引っかかった。

「誰が送ってくれるの?」

「両親です。優しいでしょ」

 優しかったら娘をこんな窮地に追い込んだりしない、そう言ってやりたかったが、今まで得た情報から組み立てた音成の中の詩乃像と、目の前の幸福そうな少女はあまりにもかけ離れていた。ある仮説を立証するため、音成は尚も尋ねる。

「……どうして、一人暮らししてるの?」

「わたしがそうしたいって言ったからです」

「無理にさせられてるとかじゃなくて?」

「違いますよ」

 質問はあっさり否定された。本当の本当に信じてもいいのだろうか。

「ご両親に、」

 その先を続けることは出来そうにない。出会って一時間も経っていない、たかがアパートの隣人が踏み入っていい域でもない。しかし詩乃は察したらしく、笑ってこう言い放った。

「お父さんもお母さんも、ちゃんとわたしを愛してますよ」

 その発言の力強さと言ったら、もう納得せざるを得なかった。音成はそれ以上何も言わず、ダンボールを受け取って自部屋に戻った。

 片付けは終わっていなかったが、調理道具と調味料だけは出してある。コンソメスープの箱に書かれた手順と睨めっこしながら、洗った野菜を慣れない手つきで刻み、水と一緒に鍋に入れる。しばらく煮詰めて、コンソメキューブを入れ、また煮る。そうして出来た新居での初料理は、不格好ながらもとりあえずは食べられる味になってくれた。

 詩乃の部屋に戻ると、彼女は正座して待っていた。

「気をつけてくださいね。散らかっているので」

 謙遜でもなんでもない。飴色フローリング貼りの床は散らばった紙で真っ白に染め上げられて、「Maison de la Mer」の売りである窓の外の美しい景色はダンボールで潰されている。おかげで室内は昼時とは思えない程に暗かった。明かりをつけようとスイッチを弄っても何の変化もない。見上げた先の天井照明には電球が無かった。

「……酷い。酷すぎる」

 音成の嘆きもどこ吹く風、詩乃は皿もスプーンも見つからないからと鍋からおたまでスープを飲み出した。その鍋も、置かれているのは机ではなく横倒しのキャリーバッグの上。この少女には一人暮らしのスキルどころか生きていくためのスキルが根本的に欠如している。いつ頃からここにいるのかは知らないが、よくもまあ今日まで生き延びたものだ。生野菜を齧り、クッキーを一箱平らげ、それでもスープを夢中になって飲んでいるあたり、特別少食というわけでもないだろうに。

「それ食べ終わったら掃除しようね。手伝うよ」

「何でもしますよ。こんなに美味しいものを食べさせてくれたんだから」

 火を入れすぎてクタクタになった半透明のキャベツを頬張りながら詩乃が笑う。呆れた、と言わんばかりに音成は床上の紙を拾い集めた。それらに書かれた文字を何気なく読もうとして、脳が疑問符に支配された。

 日本語であることは辛うじて分かるが、逆にそれ以外はまるで分からない。数学か法律か、はたまた倫理とかの類なのか、何について述べられている文章なのかすら理解が追いつかない。背伸びした志望校の英語長文読解問題のように、分からない単語が多すぎて文章の意味を読み取ることが出来ないのだ。

 驚くべきことに、部屋に散らばる紙の全てがそうだった。見ているだけで頭痛がしそうな文字の羅列。

「ごちそうさまでした!」

「いや嘘でしょ」

 しかし音成の意識はもう、紙ではなく詩乃に向けられた。キャリーバッグ上の鍋には汁一滴すら残っていない。その代わり、口の周りにニンジンの欠片やらベーコンやらが重力を無視して引っ付いている。

「しょうがないなあ、もう」

 自前のハンカチで拭ってやると、詩乃はまた無邪気な笑顔を浮かべた。

「ありがとう」

「よしよし。じゃあ次にするのは?」

「掃除!ですね?」

 頷きあい、二人は立ち上がった。詩乃にはとりあえず紙を集めるように言いつけ、音成は窓際のダンボールをどうにかすることにした。よく見渡せば、紙以外は必要最低限未満の物しかこの部屋にはない。これならすぐに終わりそうだ。音成はほんの数秒後に、自身の甘い考えを改めることになる。

「何この本の量!? と言うか重っ。よく下の荷物が潰れなかったな……」

「どう見ても夏物の服が入ってるんだけど! 普段何着てんの!?」

「洗剤やら石鹸をキッチン用具と同じ箱に入れるなんて!」

「いや埃やべえ。喘息持ちだったら死しかないな」

「お菓子とか入ってるし! 虫湧くよもう!」

 一つ封を開けては口から怒涛のツッコミが漏れるが、それはそれとして中身を本来あるべき場所に片付けていく手は止めない。最初は戸惑っていた詩乃も徐々に要領良く動くようになっていく。それでも窓を塞ぐ程のダンボールを片付けたり、足りない物を買い出しに行ったりするのは一時間や二時間では困難で、ようやく部屋に差し込んだ日光はオレンジ色だった。

「お疲れー!」

 音成の歓声には反応せず、詩乃はただ窓の外を見ていた。

「綺麗……」

 どこまでも広がる海に沈みゆく太陽。その優しい光を漣が乱反射して、一粒一粒の煌めきが強く、薄暗かった部屋を照らす。

 買ってきたばかりの電球だけれど、もう少しだけ休んでてもらおう。そう音成は思った。

「ここって、こんなに素敵な場所だったんですね。忘れてました」

「ホントだよ。全くもう」

「えへへ、すみません」

 どちらともなく、腹のなる音がした。

 疲労と達成感に包まれた今、そんな些細なことが笑いの引き金になる。最初はクスクスと控えめな声が、クレッシェンドして部屋に響く。

 ひとしきり笑った後に、

「どこか食べに行こっか?」

 そんなことを言っていた。

 音成にとって、もう詩乃はただのお隣さんではなくなっていた。窓の外の景色を取り戻すために戦った、少し大袈裟に言えば戦友。

 それは自惚れではないようで、詩乃もまた音成をただの隣人とは看做していなかった。今日一番の嬉しそうな笑顔で、こう答えた。

「美味しいお店知ってますよ!」

 いそいそと支度を始める詩乃の背中を見ながら、自分の部屋の片付けは終わっていないことを音成は思い出していたが、今この時に限ってそれはどうでもいいことだった。

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