みちにゆめみる

ありのみ

第1話 こんにちは宿命

「目的地周辺に到着しました。ナビゲーションを終了します」

「いや待って止めないで?」

 静止も虚しく、地図アプリ上の現在地を示す矢印が止まる。左手にスマートフォン、右手にキャリーバッグのハンドルを握ったまま、音成はがっくりと肩を落とした。

「マジか〜……」

 目的地周辺、その情報は土地勘のない人間にはなんの役にも立たない。辺りに見えるのは柵の向こうに広がる海と、灰色の道と、申し訳程度に日差しを遮る木々だけ。そんな木すら今、音成の頭上には皆無で、容赦ない真夏の直射日光は刻一刻と音成の気力と体力を奪っていく。ありとあらゆる種類の蝉たちの大合唱が余計に暑さを引き立てる。駅近だからといって帽子を被ってこなかったことを今更ながら後悔した。

 スマートフォンの画面の半分以上は水色に塗り潰されており、その上に重なる赤い矢印はとても目立っていた。画面だけなら音成は海の中にいるけれど、現実はもちろん無慈悲で、照り返しの酷い灰色の道の上に立ち尽くしている。

「いやこれは死ねる。余裕で死ぬ。助けて」

 音成にとってこの言葉は独り言で、本気で誰かに助けを求めたわけではない。しかし時として、神がかり的な出来事は起こるものだ。

「あの、大丈夫ですか?」

 その声は本当に、音成のヘルプメッセージを拾い上げるかのようなタイミングで降ってきた。いつの間にか隣には見知らぬ少年が立っていて、音成の顔を覗き込んでいる。この暑い中長袖のジャケットを羽織っているのに、その顔は汗一つかいておらず涼やかだった。それだけで人離れした雰囲気を醸し出すには十分であり、音成は一瞬だけ気圧された心地がした。

「あっ、えと……ここら辺の子?」

 しどろもどろの問いかけを気にする様子もなく、少年は小さく頷いた。

「このね、『メゾン・ド・ラ・メール』に行きたいんだけど……」

 音成はそう言ってつけっぱなしのスマートフォンを掲げた。没個性だが綺麗に塗られた外壁のアパートが何棟か並んで写っている。このうちの一部屋に今日、引っ越してきたのだ。

「すぐですよ。案内しますので着いてきてください」

 前に立つ少年はその幼そうな見た目からは信じられないほどに紳士的で完璧なエスコートをしてくれた。さりげなく音成を歩道側、それも日陰になっている通りに立たせ、本人は白い肌を日光に焼かれつつも笑顔を絶やさないでいる。音成が彼を日陰に引き寄せようとしても、礼儀正しくやんわりと断って歩く。それでいて会話のチョイスは気まずい沈黙の訪れを少しも許さない。出来すぎてるな、怖いくらいだ。ほんの少しだけ空気が冷えたような気がするのは、風が海の匂いを運んできたからだと思おう。音成は口には出さず自分に言い聞かせ、額の汗を手で拭った。

 少年の言葉に嘘はなく、程なくして二人は目当ての場所に着いた。看板に彫られた文字はあまりにも達筆すぎて初見ではなかなか読めないだろうが、音成は「Maison de la Mer」の文字をはっきりと読める。フランス語が得意というわけではもちろんなくて、この日を楽しみにするあまりに何度も見た文字だからだ。

「ありがとう〜! 何かお礼を」

 しかしその言葉が最後まで紡がれることはなかった。看板から顔を上げた視界のどこにも、少年がいないことに気づいたために。首を動かし辺りを見回しても、少年どころか誰の影すら見当たらない。嘘みたいに、夢みたいに、あの出来すぎた彼は消えてしまった。

 不思議なこともあるものだ、そう思った。音成はいかなる交通手段を使ったとしても海に出るまで少なくとも二時間はかかる山あいの土地に産まれ育った。それ故に海というものに、常人よりずっと大きな憧れと畏怖の念を抱いていた。どこにいても海の見えるこの町ならば、人ならざる者にだって居場所はあるのだろう。そんなことがあるわけもないのに(そして随分と失礼な考えなのに)頭の中で出した結論は、音成の心にすとんと落ちた。

 早く家で休みたい、音成は心の底から溜息を絞り出した。炎天下。道に迷う。助けてくれた少年は怪異か夢幻かもしれない。一つ一つの出来事は大したことのないようでも、慣れない場所で一人きり、しかもこれから新生活を送ろうとする音成にはやりすぎなくらいに大きくて重かった。気を取り直してキャリーバッグを引く。いつの間にか蝉は鳴き止んでいて、タイヤが石を弾く耳障りな音が響いた。


 この後に起きたことはあまり面白味がないので、便宜上なんやかんやと書く。なんやかんやあって、音成は無事に自室に辿り着いた。あらかじめ送っておいたダンボールの山の中、床に仰向けて大きく伸びをする。苦労してつけたカーテンの向こうは既に藍色に染まり始めて、逆さまになった視界の中で空が波打っている。Maison de la Mer──海の家の名に恥じない距離の近さこそ音成がこのアパートに住むことになる決定打だった。海の近くは危ないと説得してくる両親に、完璧なハザードマップと塩害対策を重視したプレゼンを繰り広げるのはなかなか骨が折れたが、窓の外の景色を眺めればそうした苦労もした甲斐があるというもの。晴れて一国一城の主となった音成はここで人生最後の長い夏休みを、そして人生で最も長い社会人としての時間を過ごすのだ。

(志望動機は何ですか?)

(海の近くに住みたいんです)

 今思い出しても、アホかな?という感想しか出てこない。就活も佳境に入ったあの日は精神的にも肉体的にもかなり摩耗していて、今までの面接の中ではひたすらに隠していた真の動機を、音成はさらりと口に出した。もちろん業務内容や企業理念に惹かれたというのは本心だし、このふざけた動機は永遠の秘密にしておくつもりだった。それでも言ってしまったのは、ひとえに音成の脳が過労によるストライキを起こしていたからに他ならなかった。

 それで受かってしまうのだから、人生は分からない。音成に分かるのは、自分がとてつもなく恵まれているということだけだ。

「痛った……」

 だから今、脚をじんわりと熱を持って襲っている鈍痛も、その余りある程の幸福のしっぺ返しだと考え受け入れようと思うことにした。……しようとした。

 前述の「なんやかんや」の中に一つだけ面白さを見出すのなら、隣人の部屋の前に置かれたダンボールに音成がけっつまづいて盛大に転んだことだろう。誰かと一緒にいればドジだなあと笑っておしまいに出来るのに、一人で転んだ時のあの言いようのないいたたまれなさ。誰にも見られてないしセーフと思ってから防犯カメラ作動中の貼り紙を見つけた時はフリーフォール並にテンションが乱高下した。今は痛みを我慢しても、明日になったらお隣さんに挨拶ついでに抗議しよう。普通は引っ越してきた途端の隣人トラブルの兆しは見て見ぬふりをするのが世間一般的な考えだろうが、あいにく音成はそうした平和主義(もしくは事なかれ主義)とは相性が良くなかった。色々なことがあって気が立っていたというのもある。

 けれどその自覚はあるようで、音成はゆっくりと深呼吸をした。ついでに欠伸もした。ストレスの大半は寝るか食べるかすれば霧散するもの。荷物のどこに仕舞ったか分からない毛布の代わりに、鞄から引っ張り出した上着を被り目を閉じる。クーラーの風に混ざって、微かに海の音が聞こえてきた。単調なそれは最高級の子守唄と化して耳をくすぐる。いつの間にやら脚の痛みも遠のいていって、フローリングの冷たさを浴びながら、音成は心地良いまどろみの中に落ちていった。

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