第6話 どこまでも独善的に

籠宮朔

宛先:音成さん

件名なし


はじめまして。籠宮朔と言います。

姉のことでたくさん迷惑をかけてしまったようで、とても申し訳ないです。

手紙を読んでからずっと考えていました。

姉は俺のことを嫌っています。だから俺が何か行動しても、それは姉を余計に苦しめるだけだと思っていました。けれど音成さんが頑張っているのに、姉がああなった原因である俺が何もしないでいていい訳がないとやっと決心出来ました。音成さんのおかげです。ありがとうございます。

これまでのことはここに書くより、直接会って話した方が誤解なく伝わるかと思います。

しかし俺はどうしても梛蕩町には行けません。大変申し訳ないのですが、△△駅まで来ていただけないでしょうか。交通費は俺が出します。土日ならいつでも大丈夫です。よろしくお願いします。


音成

宛先:籠宮朔様

Re:


音成です。

連絡ありがとうございます。

明日の土曜日、午前10時△△駅着の電車に乗ります。



 早朝と言えど土曜日の電車はがらんどうで、ロングシートを独占出来た。大きな窓の外には美しい海が広がっているが、音成はそれに目もくれずスマートフォンの画面を注視している。もっと言えば、籠宮朔から送られてきたメールの文章を。

 不可解な点ばかりだ。姉の自殺未遂に言及がないことも、どこまでも内罰的な文面も、行きすぎた謙虚さも、梛蕩町に来れない理由も。特に最後、音成の交通費を出すと書けるくらいなのだから、金銭的な理由ではない。詩乃に偶然会うのを避けているのだろうか。寝起きの完全には働いていない頭で、音成は滔々と考えを巡らせていた。

 単調な音と揺れは眠気を誘う。いつの間にか船を漕ぎ出した音成をよそに、電車は海から陸へと進んでいく。握ったスマートフォンが左手から滑り落ちて足の甲を直撃し、幸か不幸か意識は覚醒した。

 電車がトンネルに潜る。景色は黒一色になり、窓に自身の顔が映った。重い瞼をかろうじて開けている自分がなんだかとても間抜けに見えて、どうしてこんなことをしているのかと思ってしまう。そんな雑念を振り払う気力も今はなかった。

 スマートフォンを拾って、もう一度メールを表示させた。籠宮朔からの感謝の一文が目に入り、罪悪感で胸が抉られる。きっかけが興味本位でしかないと知ったら、彼はどんな思いで自分を見るのだろう。

 金属の軋む耳障りな音をたてながら電車が終着駅に停止する。△△駅まではここからさらに乗り換えを重ねて一時間強。帰るならこのまま座っていれば折り返す。音成は小さく息を吐いて、駅のホームに躍り出た。

 冷房の効いた車内から外に出たせいで汗が吹き出す。いかなる生物でも生命活動を弱めそうな夏の日に、蝉だけが賑々しく力一杯に生きていた。

 煩く暑い空間を彷徨い、音成はようやく△△駅行きの電車に乗り込めた。再び冷房の風に晒され、一気に汗が引いていく。体温を根こそぎ奪われる前に急いで上着を羽織る。それからボックスシートに腰掛けて視線を窓の外にやると、澄んだ青色の海が見えた。

 発車ベルが鳴り響く。みるみる遠ざかっていく海を、音成は横目でずっと見ていたが、視界は外すれすれに茂る深緑の木々に遮られる。その緑色も過ぎ去って開けた視界に、似たり寄ったりの住宅が所狭しと並んだ。統一されたデザインは街に一体感をもたらすも、あれだけ似ていたら迷子の一人二人は居るはずだ。間違えてよそのお宅に突撃してしまううっかりさんも居るだろう。想像するとおかしくなる。

 実際にそんなことが起こったら不審者情報が出回るか警察が呼ばれるかの二択で、そこから友情が生まれる方向へ話が進むことはほぼない。改めて、自分と詩乃の関係性の奇妙さを考える。荷物を廊下に放置していたことに文句を言ってそれきりになるはずだった間柄は、同情と好奇心と打算が混ざって友情として出力された。寂しくなることを覚悟していた一人暮らしが、まるで地元での生活と地続きになっているかのような楽しさに溢れているのは、ひとえに詩乃が居てくれたから。

 なくしたくないと思う。音成にとって詩乃はそんな存在だった。自分が詩乃との交流に心から楽しみを見出しているように、詩乃にも自分との交流に心からの安らぎを見出していてほしかった。興味本位。ヒーロー気取り。全部分かっている。認めている。だから自分はいっそのこと、どこまでも独善的に詩乃に関わろう。全てが良い方へ向かって闇が晴れたら胸を張って、詩乃のことを友達だと言えればいい。そのためにも、まずは籠宮朔に会わなければいけなかった。乗換案内アプリが表示する現在位置によると、△△駅まであと数十分。

「次は△△駅、△△駅」

 車内放送が長旅の終わりを告げる。スマートフォンを鞄にしまって手すりを掴み、電車が止まる揺れに備えた。

 降りた瞬間、空気の違いを感じた。

 梛蕩町とは異なる、発展しきった都会の──△△市も首都に比べれば田舎だが──とにかく音成にはその匂いからして物珍しい空気が漂っている。線路を挟んだ向こうにもそのまた向こうにもホームがあり、これから遊びに行くであろう学生や家族連れが整列しつつ談笑している。上りエスカレーターの終着点は高級チョコレート専門店やアパレルブランドの店が入っている駅ビルの中にあり、そこも人で賑わっている。きょろきょろ辺りを見回していると、制服を着こなしたお洒落な女性店員が静かに近寄ってきた。気後れしながら改札どこですかと聞くと店員は慣れた様子であちらですよと微笑んだ。

 この駅は訪れる度に華やかさを増す。距離的には地元とさほど離れていないはずなのに、音成にとっては一月も過ごしていない梛蕩町の方が自分に寄り添ってくれる場所だった。

「どこに居るのかな」

 声に出して、待ち合わせ場所もお互いの特徴も教えていないことに気づく。そもそも10時に着くと送ったメールの返事も待たずにここに来てしまった。いくらなんでも気が急いた。今日は無理だと言われたら後日出直そう。念のためスマートフォンを取り出すと、ホーム画面に通知があった。



籠宮朔

宛先:音成さん

件名なし


南口のファミレスに居ます。

カーキ色のパーカーを着ています。

店員さんに待ち合わせだと伝えてあります。



 音成は駆け出していた。矢印標識が指し示す通りに駅を抜け、そのまま空を仰いでレストランの看板を探す。不思議なことに、これだけ賑わっている駅前にもかかわらずそれらしき店は一つしかなかった。夕方のスーパーマーケットの比ではない人混みの中を走って、走って、たどり着いた店のドアを開ける。

「いらっしゃいませー」

「あ、えっと待ち合わせです」

「はい、籠宮様のお連れ様ですねー、こちらでございまーす」

 心臓が早鐘を打っているのは炎天下を走ったから以上の理由がある。店員の案内通りに通路を進むと、奥の席で少年が一人俯いていた。

「籠宮朔くん」

 呼ばれてぱっと顔を上げた少年は健康的な肉付きをしており、日焼けの跡があった。黒いくせっ毛や愛嬌のある顔立ちが詩乃との血の繋がりを感じさせる。もしも詩乃が年相応に栄養を摂って生きていれば、この姉弟はもっと似ていたはずだ。

「音成さんですね」

「はじめまして。今日は本当にありがとう」

 席に着くや否や、朔がメニューを渡してきた。

「何か食べますか。奢ります」

「いや、いいって。ここは大人に任せな」

 ミートドリアとクラブハウスサンド、ドリンクバーを二人分頼み、最初の一杯をテーブルに置いてから、改めて互いに向き合った。聞きたいことは山ほどあり、時間は限られているのに、一言が出てこない。

「あの、姉さんは元気ですか」

 先に言葉を絞り出したのは朔の方だった。

「元気だと思う……痩せすぎだとも思うけど」

 ここに来るまでに決めていたことがある。朔に隠し事をしないこと。嘘をつかないこと。取り繕いが最悪の結果を招くこともあると、音成は昨夜身に染みて理解した。

「やっぱり。姉さんは家事が出来ないから、ちゃんと食べれてないんじゃないかと思ってました」

「えっ、家事が出来ないって知ってるの? ご両親は?」

「多分知らないです。両親は姉さんのことを何でも出来る子だって思ってます」

 つまり詩乃の両親は、娘があのような窮状に陥る可能性を少しも考慮せずに梛蕩町へ送ったということか。これでは放任主義を通り越して、ただの育児放棄だ。音成は苦々しい思いで朔の話を促す。

「姉さんがギフテッドなのは聞いてますよね? 両親も俺もそのことに気づけなくて、ずっと姉さんは苦しんだんだと思います。両親は本当に責任を感じていて、これからは姉さんの好きにさせようとしたんです。だから一人暮らししたがった姉さんの言うことを聞いた」

「だけどそのせいでシノちゃんは……」

「手紙を書くから様子を見に来たりしないでって姉さんは言ってました。送られてくる手紙を読む限り、一人暮らしを満喫しているようで、両親はすごく安心してました。やっとあの子を幸せに出来たって喜ぶくらいで」

 ここまでの話だけでも、詩乃と朔が共に両親を良い人たちだと思っていることが分かった。朔は両親が責められないようにか、随分と言葉を選んでいる。いつも嬉しそうにしながら両親を語る詩乃の面影が目の前の少年に重なった。

「そう言えば、音成さんはどうやって俺の住所を知ったんですか?」

 当然の疑問だが、いざ説明しようとすると言葉に詰まる。捨てられていた手紙を盗って勝手に読みました、なんて真相はどんなにオブラートに包んでも気味が悪い。

「……シノちゃんが捨ててた君からの手紙を勝手に読みました」

 それでも取り繕わないと決めた。

 白状した後はもう朔の顔など見れず、肩を竦めながらテーブルの木目を数える他になかった。

「ああ……本当に読まれてなかったのか」

 しかし朔が気に止めたのは別の所だった。冷静に考えれば姉に送っていた手紙が読まれることもなくゴミ箱行きになっていたという事実を知ってしまったのだから、そこにショックを受けるのも当然。自分が姉に嫌われていると思っている彼なら手紙の扱いに予想をつけていたかもしれない。それでも予想と確定した事実なら与える衝撃が大きいのは後者だ。

「何があったか聞いても」

「お待たせしましたー! ミートドリアとクラブハウスサンドでーす!」

 しんみりした空気は底抜けに明るい店員の声と、温かな湯気をたてる料理に掻き消された。呆気にとられた二人は、目の前に料理が置かれていくのをぼんやり眺めることしか出来ない。スキップするかのように軽やかに去っていく店員の背中を見送った後で、逆に置かれた料理を交換する。音成がクラブハウスサンドで、朔がミートドリア。

「と、とりあえず食べちゃおっか。冷めたら美味しくないし」

「……そうですね」

 手を合わせて、いただきます。

 クラブハウスサンドは見たところ柔らかそうなチキン、平たく切られたトマト、レタス、薄焼き卵がこんがりトーストされたパンに挟まれている。型崩れ防止用のピックを引き抜いてから、がぶりと一口頬張った。粒マスタードの酸味を伴った辛味が具材の味を活かしつつもしっかりまとめている。アクセントとして刻んだキュウリが入れてあるらしく、咀嚼の度にパリパリと小気味よい食感をもたらす。いつか自分で作ってみようと音成は考えていた。実家で暮らしていた頃は決して出てこなかった発想だ。

 ふと前を見ると、朔も心做しか笑っているようだった。ミートドリアは既に半分が食べられている。

 どのみち話を再開させれば重苦しい雰囲気に戻ることが目に見えている。ならばせめて今だけは楽しく食事をしよう。音成は何も言わずに二つ目のサンドイッチに手を伸ばした。やはり美味しい。昼時にはかなり早い夏の午前に食欲をそそるのだから、相当の腕前だ。

「ごちそうさまでした」

「いや早い」

 音成がサンドイッチの味に感動して感慨にふけっている間に、朔はミートドリアの残り半分を平らげてしまった。空っぽの皿からは依然として湯気が上っている。火傷が心配になるスピードだ。

「ジュース持ってきます」

「行ってらっしゃい」

 静かに立ち上がり、ちゃんと椅子を入れてからドリンクバーに向かう背中を眺めながら、詩乃を思い出す。明るく元気いっぱいでやや幼い面がある姉と、大人しく礼儀正しい弟。姉弟でも性格にここまで差異が出るものなのか。容姿自体は、瓜二つとまでいかなくても一目で血縁関係を見い出せるほどには似ている分、余計に不可思議だった。それとも初対面の人間の前だから自制しているだけで、友人と一緒に居れば朔もドリンクバーのジュースを混ぜて泥水を生み出したり、それを責任持って飲み干してあまりの不味さに顔を顰めたりするのだろうか。だとしたら実に微笑ましいが、これまでの朔の様子からはむしろ仲間が好き勝手やった後始末をさせられていそうな印象を受けてしまう。一人黙々と不味いジュースを飲んでいる朔を想像して辛くなった。勝手に失礼な妄想を広げて、勝手に落ち込んでいるのだから世話がない。

「お待たせしました。あ、音成さんも飲み物ないですね。何か持ってきましょうか?」

「君ねぇ、ほんとそういうところだよ!」

「何がですか!?」

 音成にとっては気を遣いすぎる朔を諌めている図だが、朔からしたら突然意味の分からないことを叫ばれた図である。目を白黒させる様子を見て、やらかしに気づいた音成は誤魔化すように咳払いした。

「大丈夫大丈夫、自分でやる。子供が大人に気を遣う必要なんてないんだからね」

 そして入れ替わるようにドリンクバーに向かう。長丁場を覚悟して、コーラとジンジャーエールを一杯ずつコップになみなみ注いで戻った。

「……さて」

 音成の声が、和やかだった場の空気を静かに冷やしていく。これから始まる話の行く末はどう足掻いても楽しいそれではないのだと宣言されているようだった。

「正直、姉さんのことは色々ありすぎて何から話せばいいのか」

「そうだよね」

 音成は頷いて、スマートフォンのメモアプリを起動させた。前日から練っていた質問事項が箇条書きになって現れる。

「まずは手紙にも書いたように、シノちゃんがどうして貯水池に飛び込もうとしたのか。梛蕩は海に囲まれてるから泳ぎたいとかそんな理由じゃないのは分かる。後は一人暮らししたがった理由と、言いたくないと思うけどシノちゃんが朔くんに当たり強い理由と、それからご家族の話が聞きたい。お兄さんも居るんだよね?」

 子供が抱える悩みは、大抵学校か友人か家族に起因している。学校に行かず、地元から離れた町で暮らしている詩乃に前二つ由来の悩みがあるとは考えにくい。明らかに両親以外の家族の話を避けることからも、彼女が抱え込むものの理由は家族にあるというのが音成の考えだ。

「分かりました。多分長くなりますが、姉さんと俺が仲良かった頃の話からしてもいいですか?」

 大丈夫と答えると、朔は自分のジュースを一口飲んで、話し出した。

「まず、姉さんと俺は二人姉弟です。今のところは」

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