第14話 克服
背中に感じていた圧力から解放される。締まっていた喉にどっと空気が傾れ込み、勢いよく咽せた。だが、そのおかげで音成は息が出来るようになった。なんとか上体を起こすと、人影が一つ増えている。
「朔……なんでここに居るの」
たった今自身を突き飛ばした人影に、時夜が問う。つとめて冷静さを保とうとしているが、それがかえって彼の怒りや動揺を表す。わなわなと声が震えていた。
「助けに来た」
そう言い放った朔が音成の方へ目をやる。きらめく眼光の強さに決意が滲んでいた。音成はしっかりと頷き、立ち上がった。
しばし時間を遡り、今日の昼下がり。
朔にメッセージを送ってすぐ、音成は駅に駆けつけていた。梛蕩町は、どこに行くにも車がほぼ必須である。車がなければ電車を使うしか遠出の方法はない。おそらく頼れる大人の居ない詩乃が行方をくらますのなら、この町に一つしかない駅に行くしかなく、確実に駅員によって目撃されているはずだと音成は考えた。だが、それらしい情報は一つも得られなかった。
徒歩で町の外に出るのは体力気力等を考慮すると難しい。詩乃は未だ梛蕩に留まっているはず。だとしても駅を離れて、行き違いになってしまったらどうする? これほど不自然に居なくなってしまった彼女が、実家に帰る可能性はどれほどある? 駅員に連絡と詩乃らしき子供を引き止めておくことを頼んでも、電車の出発時間だからと押し切られてしまう可能性の方が高い。ただでさえ少ないダイヤである。これに乗らなきゃ駄目だと主張する乗客を引き止めきれるはずがない。その場でひとしきり行ったり来たりした後、音成は仕方なく駅を離れた。
音成が決行した作戦は町中を探し回りつつ、上り下りの電車が来る時間に合わせて駅に帰るという、最も単純で体力任せのそれであった。そうするしか思いつかなかった。数十分単位で町と駅を往復するのは非効率極まりないが、詩乃の将来を鑑みて、他人に頼ることは出来なかった。
そうして、何度目かの発車ベルを聞き届け、また町に戻ろうとした音成の背中に声が掛けられる。
「音成さん!」
振り向いて、一瞬硬直した。黒に近い色のサングラスをした見慣れない人物に名前を呼ばれたら、誰もが多かれ少なかれそんな反応になるだろう。相手もその心理に思い至ったようで、音成の側に駆け寄る前にサングラスを外した。
「朔くん! びっくりした、それどうしたの」
「……海を見るのが、怖くって」
テンプルを弄りながら朔が言う。
「ずっと考えてたんです。なんで姉さんはこの町を引越し先に選んだんだろうって。……きっと、近寄らせないようにしたんでしょう。事故を起こしてから、俺が水辺を見ることすら嫌がってたって気づいてたんでしょうね。だからどこに居ても海が見えるこの町に俺は来れないって、そう考えたんですよ」
「……っ」
「良いんです。俺はもう平気ですから。音成さんのおかげで、ちゃんと向き合おうと思えました」
掛け直されたサングラスの暗いレンズに遮られて、正確には読み取れない。それでも音成には、朔の目に光が宿っていることが分かった。言葉の通り、彼はもう大丈夫なのだと。
「これからシノちゃんを探しに行く。朔くんはここに居て、もしあの子が来たら引き止めてほしい。出来そう?」
「やります。それと、万が一の場合に備えて、GPSアプリを入れてください。助けに行きます」
「そんなことには……いや、分かった。ありがとう」
「それでは、また後で。こちらこそありがとうございます」
そうやって二人は別れた。次に会う時は三人で笑っていられることを願って。
時刻は現在に戻る。願いは未だ叶っていないけれど、朔は約束を果たしてくれた。音成は軽く足踏みをし、時夜へと視線をやる。今度は自分の番だと鼓舞するように、限界まで虚勢を張って。
「時夜くん、答えて。シノちゃんはどこにいるの?」
「言わない。詩乃は誰にも渡さない。もう傷つけさせない。誰にも」
ゆっくりと、地を這うような声で時夜が返す。生涯培ってきた恨みを、ただ目の前の音成と朔を穿つためだけに放つ。恐ろしいと思う。それ以上に、後ろめたさが溢れてくる。この恨みは彼の想いの証だ。自身ではどうにもならない特性を持ってしまったばかりに、ずっと生きづらさを抱えていた彼女の幸せを祈って、障壁となるものを取り除くことに身を尽くした時夜。それだけ苦労して作り上げた、二人だけの平穏だった世界を、今、自分たちは壊そうとしているのだ。証拠があるわけでもない。ただ「不幸だと思ったから」そんな主観で、音成と朔は時夜の作った詩乃の為の世界を壊そうとしている。この為だけに頑張ってきた、そんな努力を間違っていると突きつけようとしている。それはとても傲慢で、許されざること。
それでも、やっぱり。
「君は間違ってる。何かを犠牲にしなければ得られない幸せは、成り立っちゃいけないんだよ」
「犠牲? そこに居る朔のことですか? 詩乃を散々苦しめたのは、朔でもあるんですよ?」
「違う! 朔くんは悪くないし、犠牲になってるのは君だよ、時夜くん!」
「……は?」
「俺もそう思う。姉さんは、……特別なんだ。素人じゃ助けられない。気持ちの問題じゃないんだ、分かるでしょ?」
深く息を吐く音がした。
「そう。そう思うんだ。じゃあ、やるべきことは一つしかないな」
時夜の発言の意味をいち早く察したのは音成の方だった。大股で走り、朔の腕を引く。そのままなら彼の頭に命中していたであろう石は、空を切り地面に激突してもなお勢いを弱めず散っていった。
「時夜くんは本気だよ」
耳打ちし、腕を離す。外灯に照らされ一瞬見えた朔の顔は泣き出しそうに歪んでいた。
「兄さん、目的は何?」
「詩乃と一緒に死ぬ。邪魔さえしなければこのまま帰してあげるよ。そこの、音成さんと一緒に」
朔が返事をする前に、音成が口を挟んだ。
「それじゃ駄目。誰も死なせない」
「まさか二対一だから有利だとでも思ってます?」
言うや否や、時夜が走る。姿勢を低く、身体を丸めた状態での突進は掴みどころがない。音成と朔を切り離し、小手調べといった様子で朔を小突く。本当に、軽く小突いたようにしか見えなかった。しかし朔はバランスを崩して転がる。呆気に取られた音成もまた、同じ手にかかる。こちらは欄干に近かったおかげで、転ぶまではいかなかった。すぐに体勢を整え、時夜の背後へ回り込む。瞬時に振り向く彼の手の中で例の如くカッターナイフの刃が光る。
「嘘でしょ、なんで」
「言いましたよね。詩乃を普通でいさせる為に何でもしたって」
音成とは対照的に、時夜には疲れた様子がない。知識だけでなく体力面でも、甚大な努力を重ねてきた証拠だ。その全ては愛する人の為に。音成とも、朔とも、文字通り覚悟が違う。勝ち目などないと、改めて思い知るには十分である。
「このままじゃ朔も死にます。俺が殺します。あなたのせいです。あなたが朔を焚きつけて、梛蕩まで連れてきた」
「そんなことはさせない!」
「朔を守りたいんですね。そうさせてあげますよ。このまま帰ってください。そうすれば朔のこともあなたのことも絶対に傷つけないって、約束します」
「それじゃ意味がない。皆を助けたいんだ」
「分かんない人だな!」
肩を揺さぶろうとする腕を必死に掴む。首筋ギリギリの位置に刃が来る。怪我をさせたくないと気を遣う段階は過ぎてしまった。かなり強く力を入れているはずなのに、カッターナイフを取り落としそうな素振りはない。むしろじっくりと、確実に、刃は音成の首に食い込もうとしている。
「それともあなたが先に死んで、朔に余計なトラウマを残しますか? 大人のすることとは思えませんけど、それを選ぶなら仕方ないですね」
脳内には否定の語句が浮かんでいるが、それを声にすることは出来なかった。奥歯が砕けかねないほどに歯を食いしばる。少しでも力が抜けたら終わってしまう。
「自分は、生きて幸せになることは出来ない」
そんな誤解をしたまま、詩乃も時夜も死んでしまう。朔は、生きてくれるだろうか。今ですら凄まじい罪悪感を引き摺っているのに。
あまりに強い力が掛かったせいで、耳鳴りが始まった。頭が痛い。手も痛い。こんなに痛いのに、時夜には苦痛の一欠片も伝わっていない。唯一自由に動かせるのは足だが、ここで彼を蹴ったところで何の意味があるのか。はずみで頸動脈でも貫かれたら、本当に終わってしまう。
「……朔。分かるよね? そこから一歩でも近づいたらこの人を刺す」
後ろを一瞥すらせず時夜が言った。人影がぴたりと動きを止める。
自分は何をしてるんだろう。これではただの足手纏いだ。もう目を逸らしてしまいたかった。今の状況から。目前で恨みを滾らせる時夜から。音成の心は、絶望と諦観で満たされていく。最後の最後、奥底に残る意地すら、はや消えかけている。
謝りたかった。たった一言、ごめんと言えれば、そして力が抜けてしまえば、自分だけは楽になれる。
だって、頑張ったじゃないか。見ず知らずの子供たちの為に町中駆け巡って、助けようとしたじゃないか。その結果力及ばず倒れたとして、誰が自分を責められると言うのだろう。彼らを助けようとしたのは音成だけなのだ。助けようともしなかった誰かに、音成を責める資格はない。詩乃や朔の両親にも、神様にすら、そんな資格はない。
その時だった。
「ぐっ……!?」
時夜が低く呻いた。音成はこの隙を逃さなかった。力尽くでカッターナイフを奪い取り、朔の元へ駆けていく。
「音成さん大丈夫ですか!?」
「ありがとう、助かったよ」
こちらを睨みつけてくる時夜に、朔は怯えず宣言する。
「近づいてはないからな、兄さん!」
朔は時夜の背中に向かって投石したのである。いつかの痛みが想起され、複雑な思いになりつつも、この機転の良さは褒められるべきだと音成は思った。
「もう武器もない。姉さんの居場所を教えてくれるよね」
朔が啖呵を切ると、時夜は観念したかのように溜息をついた。
本当に観念していたのなら、どれほど良かったことか。
「ほら、朔。見てごらん」
両手を広げて時夜が言う。
「ここは貯水池の真ん中。落ちたら、今度こそ助からないだろうね」
青白い外灯が、スポットライトさながら時夜を、そして背後に広がる貯水池の波打つ水面を照らす。きらきら光る黒い波が、果てなく続く。気がつけば時夜の背後だけではない。今、朔と音成が居る場所のすぐ後ろにも黒い波があって、ここに繋がる橋も当然水に囲まれていて、きらきらと、きらきらと、彼ら三人を包んでいる。
「あの日、俺の忠告を聞いてさえいればこんなことにはならなかった。詩乃を苦しめることはなかった」
魚が跳ねる、ちゃぷんという水音。苔むした水の匂い。親しい友人の、恐ろしい表情。
「全部、お前のせいだよ」
それは全てが、あの日の再来。
「あ……ああ……うわあああああああ!」
「朔くん!?」
音成の呼び掛けも、両耳を乱暴に塞いで蹲ってしまった朔には届かない。
「今更何が出来る? どうして今更になって何かをしようとする?」
「このままで良かったじゃないか。おじさんたちも、どう接して良いか分からない娘が居なくなって肩の荷が下りたみたいだし」
「お前がしたことは自己満足。一つも、詩乃の為じゃない」
あんまりな物言いだ。でも、時夜と詩乃にとっての紛れもない真実だと、そう分かってしまうから怒れない。
詩乃の両親は娘を愛しているからこそ、今まで彼女を傷つけてきた環境から遠ざけて、梛蕩に行くことを許したはずだ。けれど、それが詩乃の希望でも、間違いなく彼女の救いであったとしても、心のどこかで詩乃はこう思っていたのではないだろうか。「厄介払いをされた」と。「自分が普通の子供であれば、一人暮らしなど許可されなかったはずなのに」と。親元で庇護されている朔からの手紙も、詩乃の心をささくれ立たせた。何より、朔は一連の行為が自己満足であることを、誰よりも認めていた。
心の柔らかいところを深く刺された朔は、もはや再起不能と言っても過言ではないほど小さくなっている。音成はそんな彼の背に触れたまま、言葉を捻り出した。
「もう、もうやめよう……時夜くん。それは分かってるんだよ。朔くんだって」
「じゃあ引き下がってくれますか」
黙って首を振る。
「でも、自分の為に動いた結果、誰かを助けられることもある」
「例えば?」
音成は真っ直ぐ時夜を見据えて、自分の胸に手を当てた。
「朔くんは、お姉さんに謝って自分の気を楽にしたかっただけかもしれない。でも間違いなく、こっちは助かったよ」
音成は、今度は朔の方を見て言った。
「朔くん、ここが貯水池だって分かってたよね? もしかしたら時夜くん絡みかもって予想もしてたよね? それでも君は助けに来てくれた。あの日のことは、もう乗り越えられてるはずなんだよ」
ポケットに仕舞ったスマートフォンは、依然として位置情報を発信し続けている。
緩慢に立ち上がった音成を、時夜の視線が忌々しく射抜いた。
「まだ諦めないつもりですか。今度こそ殺しますよ」
「……させない!」
返事をしたのは朔だった。
「兄さんの言う通りだよ! 俺は誰かのためになんて動けない! ここに来たのは全部、全部、自分のためでしかない!」
声帯を傷つけたのか、がらがらに掠れている。さぞかし痛いだろうに、朔はなおも叫ぶ。
「でも! そんな俺でも生きてて良いって、そう言ってくれた人が居るから!」
「その言葉に相応しくありたいんだ! それだけだ!」
雄叫びを上げて朔が走った。いくら時夜でも向こう見ずな突進には流石に対応出来なかったらしい。掴みかかられ、揺さぶられる。
「姉さんを、このまま死なせたくない。一言謝りたい。謝らせて。お願い、お願いします、兄さん……」
「嫌だ。あの子は二度と傷つけさせない。だから死なせる。俺にはその権利がある。誰も彼も敵に回る中で、ずっと味方で居続けた俺だけに」
膠着状態の二人を見て、音成は天を仰いだ。空の色が変わっている気がする。
今ここで朔に加勢するのは簡単だ。だが、そうすれば事態は振り出しに戻る。詩乃の現状が不明なのに、これ以上時間を掛けてはいられない。こうやって争うこと自体、時夜の思う壺である可能性すらある。
考えろ。
時夜は常に詩乃の味方だ。
考えろ。
時夜の目的、それは詩乃を独占すること。
考えろ。
その目的に至るまで、何があった。彼は何を望んでいる?
……それは、
「ねえ、シノちゃんは、誰と居るの?」
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