第13話 こんばんは宿命
板をいつ踏み抜くかという緊張感も忘れて、老朽化した橋を渡りきると、音成はしばし肩で息をした。心臓が痛いくらいに早鐘を打ち、汗の塩気と血の味が口内で混ざり合う。呼吸すらも苦しくて仕方ないのに、身体は酸素を求めて喘ぐばかり。今日ほど運動不足を反省したことはない。
それでも地面に向けられた視界の片隅に、自分のものではない影が入った時、音成は自分でも信じられないスピードで後ずさった。夕闇に紛れてその顔は見れないけれど、目の前にいる影の持ち主が自分の探し人の片割れであろうことは想像がついたからだ。その彼は音成に決して良い感情を向けていないということも。
「こんばんは。良い夜ですね」
柔らかくも甘い声が耳に馴染む。
「……時夜くん?」
「はい。久世時夜と申します」
この場にそぐわない礼儀正しすぎる受け答えをする彼は、しかし間違いなく敵意をこちらに向けているのだとすぐに分かった。何故、見ず知らずの少年にこうも恨まれなくてはならないのか。不服はあれど口にはできない。怯えを悟られないように自我を保つだけで、今の音成には手一杯なのだから。
「どうしてここが分かりました?」
「……シノちゃんがここの貯水池に飛び込もうとした日、背中に石がぶつけられた。ということは誰かが居たってことでしょ。その時シノちゃんは君の名前を呼んでた。だからここに来れば会えるんじゃないかって、それだけ」
町中を駆け回って体力が尽きかけた頃にようやく導き出した結論は、推理というより勘に近いし、そもそも詩乃は何かにつけて時夜の名を呼んでいたのだから、根拠にすらならない。それでも正解に辿り着けた幸運に感謝しつつ、音成はゆっくり息を吐いた。
「人に石を投げたりしたら駄目だよ」
「ペットボトルなら良いとでも?」
間髪入れず返された声音は軽く、かえってその裏の怒りをありありと伝えてくる。あれは正真正銘の事故だったのだが、そう言ったところで火に油を注ぐことになるのは目に見えている。
「あれは飛び込もうとしてたのを止めたかっただけ。 君こそ居たならなんで止めなかったの?」
「それを詩乃が望んだから」
淡々とした口調で時夜が答える。
「俺と詩乃はいつでも一緒でした。出会って以降の互いの記憶の中に相手が居ない時が、それこそ一瞬もないくらいには。だけど唯一、詩乃の居ない記憶があるんです。あの子の弟が起こした事故です」
「朔くんが貯水池で溺れたこと?」
「ご存知でしたか。詩乃は俺と朔だけが共有する思い出の存在を許せなかったんですよ。だから自分も貯水池に飛び込もうとした。そして俺に助けてもらいたがった。朔から、その思い出を奪おうとしたんです。可愛いですよね」
二の句が継げないとはまさにこういうことだろう。音成は何かを言おうとして口を開けたまま、わなわなと震えることしかできていない。日本語という共通言語が用いられているはずなのに、時夜が告げたことの全てを音成の脳は拒絶していた。与えられた一単語一単語を咀嚼して、脳内でいくら再構成してみたところで、意味も意図もまるで理解不能だ。
「なんで?」
乾いた息が漏れるばかりだった口から、ようやく意味のある問いかけが出る。
「両親の関心を自分じゃない誰かが独占するなら、自分にだって絶対的に独占できるものがあったって良いと思ったんでしょう。詩乃にとってのそれが俺です。だから俺と朔だけの思い出の存在が許せない。簡単でしょ?」
「助けられなかったらどうするの!? 死んじゃったらどうするの!?」
「それで良かったんですよ。詩乃も俺も」
吐き出す声には酷い疲労の色が滲んでいた。
「だって、傷つかなくなるじゃないですか」
冷たい風が吹きつける。汗はすっかり引いている。そんなものでは説明のつかない薄ら寒さが背筋を撫でていった。
「君はシノちゃんが大事なんでしょ。どんなにつらくても生きててほしいとは思わないの?」
「俺の側でなければ意味がないですから」
首を傾げへらりと笑う時夜が抱くのは、愛する人に自分だけを見てほしいという普遍的な望みではあるのだろう。ただ、今こうして対峙している音成には分かってしまう。彼から迸る感情の片鱗ですら、独占欲の一言には荷が重いのだと。この望みを叶えるためなら、この欲求を満たすためなら、目の前に居る少年は文字通り何でもできてしまうのだと。
とうに完治した背中が再び痛み出した気がする。今すぐ逃げたいとすら思っている自分に気づき、強く首を振る。ここで自分が退けば、展開は最悪の事態へと収束するのみだ。
「シノちゃんはどこ? 一緒にいるんでしょう」
「あなたに関係あります? たかが隣人のくせに」
一歩前に出た時夜につられて一歩下がりかけるも、足に力を入れて踏ん張る。ここからは意地を貫き通さなければならない。理由は単純。詩乃に貰った恩に報いたかったし、朔と交わした約束を守りたかった。友人を、助けたかった。
「あるよ。友達なんだ」
声は震えていないだろうか。虚勢は見抜かれていないだろうか。
「シノちゃんを助ける」
「詩乃を助けられるのは俺だけです」
傲慢でしかない台詞を、時夜は何の澱みもなく言い放った。その声の張りも、真っ直ぐな姿勢も視線も全て、音成が抱いた決意を嘲笑うように強くて、決して綺麗事を言っているわけではないのだと本能で理解する。そう言い切れるだけの実績を確実に積んできたのだろう。口先ばかりの自分とは大違いだと、音成は静かに自嘲した。
詩乃にとって大切なのは時夜だけ。ギフテッドという特性のために生きづらかったであろう彼女の救いだった彼。実家に帰ることを泣きながら拒んででも弟を切り捨て、好ましく語っていたはずの両親からも離れた詩乃に唯一思われているのが時夜なのだ。彼以外の全員が詩乃にとっては取るに足らない存在で、自分もそこに含まれている。知っている。音成は全部知っている。自分がここにいること自体、詩乃にはいい迷惑でしかないことも。
そんなの、あんまりじゃないか。
「そんなことはない。君だけなわけがない!」
人生で大切に思える存在が、自分を大切に思ってくれる存在が、たった一人しかいないなんて。
「シノちゃんのことを助けたい人は君だけじゃない!」
二十年にも満たない人生を、そんな勘違いで締めくくってしまうなんて。
「世の中、そんなに敵ばっかりじゃない。朔くんに会ったよ。どんなに疎まれても、あの子はちゃんとお姉さんの幸せを……」
話の締めを待たず突進してきた時夜の手元がきらりと光って、反射的に避けた音成のすぐ横を掠めた。数秒前までそこには音成の腹があった。ぼんやりしていたら、あの光は音成を貫いていた。
「な、何してんの!」
「元から気に食わなかったけど……」
甘い声は地獄の底に響く轟となり、崩した体勢を整える動作はどろりと緩慢で、まるで別の生物にでもなったような変貌ぶりだった。その手に握られているのがカッターナイフであることに気づいて、音成はとうとう耐えられずに喉を鳴らす。
「本当に、許せない。彼奴のせいで詩乃がどれだけ苦しんだと思ってんだよ」
「朔くんのせいじゃ……」
「自分が欲しいものを当たり前のように貰うやつと暮らしてて、どうして苦しまないと思った? 詩乃はずっと普通でありたがったのに、周りは揃いも揃って特別扱いした。家族も友達も、お前だってそうだろ!」
ぐうの音も出ない。共に過ごす中で、詩乃のことを凄いなあと思わなかったことなど一瞬たりとてないのだから。ギフテッドだということを知ってあからさまに声が上ずったことも、称賛をすげなく拒否されたのも近い記憶だ。
時夜が咳き込む。叫び慣れていないからというよりも、荒げた口調を元に戻すためのようだった。
「傷つけてばかりのくせに、救いたいなんてよく言えますね」
「じゃあ君はどうやってシノちゃんを助けたの」
「追いつきました。詩乃ができることをそれ以上にできるようになりました。詩乃が持つ知識の何倍の知識を得ようとしました。そうして、自分は何も特別じゃないって、夢を見させました」
「そんなの、できるわけ」
「できてましたよ。邪魔さえ入らなければ!」
腕を振りかぶるシルエットが見えて、音成はでたらめに走り回った。騒々しい足音の中でも忌々しげな舌打ちは掻き消えることなく耳に届く。
いつの間にか辺りは闇に包まれており、外灯がバチバチと音を鳴らして点いた。どこにも身を隠す場所はないが、相手の姿を見失わずに済む方がありがたかった。音成と時夜、二人がそれぞれフェンスを背に、改めて顔を合わせる。今まで交わらなかった視線が互いに重なる。
「……あの時の」
呟いたのは時夜だった。
「こんな皮肉があるんですね。詩乃にあなたを引き合わせたのが俺だったなんて」
何の話だと聞こうとして、音成の脳裏にある日の情景が浮かぶ。引越し初日、アパートへの道が分からなくなって死にそうだったところを、天使か何かと見紛うような少年が助けてくれたことを。
どこか人離れしていて、やり過ぎなくらいに気遣いができる大人びた優しい少年。顔も声も忘れてしまったが、いつかちゃんとお礼をしたいと思っていた。
「俺は自分で自分の首を絞めてたのか。そっか……」
「時夜くん」
その少年こそ目の前に居る時夜本人なのだった。事実に気づいた途端、詩乃や朔の話や、今日これまでの出来事から組み立てていた久世時夜の像が崩れていく。あれだけ恐ろしいものと思っていたのに、実害すら加えられているのに、彼もまた普通の人間に見えてくる。我ながら単純だと音成は思う。それでも時夜にだって真っ当な善意があって、故に音成が救われたのは事実だから。時夜が居なければ、音成はMaison de la Merに辿り着けず熱中症で倒れていてもおかしくなかった。
「そうだったんだね。あの時はできなかったけど、お礼がしたいってずっと思っ……!」
直感に引っ張られて体勢を変えると、何かが頭上を掠めた。少しの間の後、ちゃぽんと気の抜ける音がする。水に石を投げ入れたのと同じ響きをしていた。
「ねえ、今ここで引き下がってくれるなら俺はこれ以上あなたを傷つけたりしませんけど、どうします?」
心臓がうるさく拍動する。心を許しかけたところへ攻撃を食らうのは、初めから敵を相手取るより何倍も恐ろしい。カッターナイフを携えた突進も、今やあの日に受けた投石も、容赦なく命を狙う仕草でしかないのだと改めて思う。これほどまでに凄まじい恨みから逃げられる選択肢があるというのに、無視するなんて愚かだ。
「そういうわけにはいかないよ」
本当に愚かだ。
それでも音成は、賭けずにいられなかった。この局面を乗り越えれば、詩乃も朔も、時夜のことも救えるのではないかと考えてしまったのだ。視野狭窄に陥っている子供たちに広い世界を見せるのは大人の役割。……要するに、カッコつけと後の人生を悔やみながら過ごしたくないという自分勝手である。
「人様の事情に首を突っ込んだ責任くらいは取らなきゃね。大人ってそういうものだから」
「大人なんて、何の役にも立たなかった。誰も詩乃を助けなかった。だから俺が助けたのに、良いところだけ持っていくなんて許さない」
「時夜くんだって子供でしょ。子供は自分のことだけ考えてれば良かったの。助けてってちゃんと言えば、助けてくれる人は居るはずなんだよ」
「大人の助けが来るまで苦しんでろと?」
カッターナイフを握り直す手を見て、音成は泣きたくなった。籠宮姉弟といい時夜といい、どうしてこうも何もかもを自分で背負って、不幸になりに行こうとするんだろうか。
橋桁を踏み切る音が聞こえて、音成は慌てて感傷を振り切る。大して恵まれているわけでもない運動神経と、残りわずかな体力とを振り絞って、時夜から逃げ回る。ぴょんぴょん飛び跳ねる様は滑稽でも、捕まらなければ良いのだ。時夜の罪を増やさないためには、とにかく自分が怪我しなければ良い。逆に言うとここで音成が時夜に負ければ、その後いかなる分岐を辿っても、詩乃と時夜が共に心から笑い合う時は来なくなる。かといって相手に怪我をさせるわけにもいかない。故にここで音成が取れる最適解は、ひたすら逃げ回ることのみ。逃げて体力を削って、どうにかして詩乃の居場所を聞き出し、保護して、後は……
思考を回しているうちに、何かに蹴躓いた。足を払われたと気づいた時には強かに全身を打って、痛みに頭が揺れる。
身体が圧迫される。視線だけをどうにか動かすと、馬乗りになっている時夜と目が合った。憎悪、侮蔑、敵を追い詰めた高揚感。確かに存在するはずの感情が伝わってこない。冷ややかに、ただ冷ややかに、時夜は音成を見下ろすだけ。
「やっと捕まえた」
息切れ一つせず感慨もなく事実を述べる姿は、先程までの激情をどこかに落としてしまったようだった。人間とはここまで切り替えが早いものなのかと、音成は自分が置かれている状況も忘れて思った。恐怖も極まると他人事になってしまうらしい。
「ほら、あなただって俺に勝てない。俺以上のことなんてできない。これでどうやって詩乃を助けると?」
「……ごめん、今はまだ分かんないわ。だけど人手は多い方が良いじゃんか。君より優れてなくても、だからこそ君に思いつかなかったことを思いつけたりするじゃん。それすら信じられない?」
「信じられませんね。どんな人間も、詩乃を傷つけてばかりだった」
頸を捕まえる手に力が込められた。
「あなたが詩乃を俺の手が届かないところへ連れて行かなければ、夢から覚まさなければ、詩乃はもう傷つかずにいられたのに。ずっと幸せなままでいられたのに……」
酷い話にも程がある。詩乃が幸せになれるのは夢の中だけで、現実は彼女を傷つけるばかりなのだと、時夜はそう言ったのか。そう思わずにはいられないほど、二人は傷ついてきたのか。
「幸せなままでいてほしかった。その隣に俺を置いてほしかった。俺の願いはそれだけです。どうして、邪魔をしたんですか?」
反論ができないのは、二人が辿ってきた道の苛烈さに触れてしまったからなのか。首を掴まれて、息ができないからなのか。既に音成には判別できなくなっていた。
「だから俺はあなたが憎い。あなたを詩乃に引き合わせた自分が憎い。……あなたさえ、あなたさえ、居なければ……!」
「それ以上、言わせるか__!」
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