第10話 君ありて幸福
海と空の間に横切る水平線を眺めていると嫌な思い出も消えて、いかない。記憶を取捨選択し整理することができる常人と違って、ありとあらゆる事柄を丸呑みして留めておける詩乃の脳は忘れるという作業を知らないのだ。一瞬でも感傷に浸るような真似をすれば、立ち振る舞いを褒められた日、弟が帰ってこなかった日、全国模試で一位だった日、クラスメイトがこちらを奇特なものとして認識しだした日などの光景が次々に浮かび上がる。だからこそ、新たな知識を詰め込むことで脳に休みを与えないよう努めているのだが、大抵のことは一度見聞きすれば覚えてしまう以上それも限度があった。フラッシュバックの余地はどうしても完全には消し去れない。
それでも梛蕩町の景色は新鮮で、美しいと思えた。果てがない海やハンカチ越しに感じるさらさらの砂の感覚、潮の匂いを運ぶ風。どれもこれも山味町では味わえないもの。緑豊かなあの町も好きだけれど、自分を知らない人間がいない場所というのは息が詰まる。
視線を海から陸に移す。太陽光の下でも目に優しいベージュの砂浜に点々と貝殻が落ちている。手を伸ばせば届く距離にある純白の巻貝が、一際目立っていた。
念のため長い枝でつついて反応がないことを確かめてから、そのまま引き寄せた。端をつまんで持ち上げてみるも、中からは湿った砂がぼたぼた落ちてくるだけ。生きてはいなかった。
そこまで見届けてからようやく手のひらに乗せた。均整のとれた螺旋状の三角形にしばし見惚れる。今日という素晴らしき日を表しているかのようなこの貝殻を海に放り投げるのは忍びなく、詩乃は少し悩んで立ち上がった。途端に飛んでいきかけたハンカチを慌てて掴む。借り物をなくしたら大変だ。
海水浴場の近くには水道があるはず。その読みは外れず、少し海岸から離れたところに手洗い場があった。拾った貝殻は水にさらすだけでその白色を強めていく。水をよく切って服の裾で拭えば、手芸屋で売っていそうな見た目になった。良い土産ができた。ひとりでに笑みが浮かぶ。
海岸に戻ろうと振り向いた先に、看板が立てられていた。貝殻の汚れを落とすことに気を取られ見落としていたらしい。表面は酷く錆び付き「地名の由来について」と記されている箇所といくつかの単語をかろうじて拾えるのみ。
「嘘八百だからねぇ、こんな看板は読めない方がいいんだ」
突如降ってきた声の主を確認しようとして、目が点になる。
白い狩衣と袴を身につけた好々爺がそこにいたのだ。二十一世紀にはあまりにも似合わないはずの装いを着こなしている。ぴんと伸びた背筋や鋭い視線からは遊びを一切感じさせない。単なる趣味で着ているわけではないと、それだけで分かった。
困惑を感じ取ったのか、狩衣姿の老人は詩乃に微笑みかけた。わざとらしくない柔和な笑みに警戒心を解かれた詩乃が話しかける。
「嘘ってどういうことですか?」
「その看板にはね、梛蕩がまるで最初っから穏やかないいところだったみたいに書いてあるんだ。笑っちゃうね。大嘘だよ」
「いいところだと思いますけど」
「そりゃあ、今はね」
少しも楽しくなさそうに老人は笑う。
「ほんとの由来が知りたいかな?」
詩乃は迷わず頷いた。脳に詰め込む知識は多いほどいい。
「薙ぎ払う」
「えっ?」
告げられた物騒な動詞と目の前の凪いだ海は到底結びつかなかった。時折吹く風も水面を撫でて揺らすくらいだと言うのに。
「ここの海は今でこそ海水浴場として整備も終えたけれど、以前は少しの雨で誰も近寄れなくなったんだ。海上で雨に降られればもうおしまいだから、船乗りは常に死装束を船に積んでいた。高潮で住宅が根こそぎ流されたことも、塩害で飢えたこともある。江戸時代とかの話じゃないよ、私が子供の頃の話」
相槌を打とうと開いた口から息だけが漏れた。
「記録はほとんど流されちゃって大袈裟な伝承しか残ってないけれど、ほんの数十年前でそれだから昔は目もあてられない惨状だったろうね。生き残った人たちが必死で生活を立て直して、またすぐ海に持ってかれるんだ。命も住処も財産も全部薙ぎ払われる町。それが梛蕩」
それならどうしてここに住み続けたのですか、なんて聞けない。土地を捨て新天地に定住する権利を誰もが保有している現代が特別なのだ。全て失うと分かっていても、この場所に縛りつけられたまま生涯を終えなければならない人たちの絶望は計り知れない。
「この町の名前をつける時に、当時の人たちは凄惨な災害やその犠牲になった人たちを忘れないように、万が一にも何も知らない余所者がやってきて無駄死にしないようにと『薙ぎ払う』の音をもじってナギハラ町と名付けた。梛は凪に通じて縁起がいい」
そこまで言った老人は幾度目かの溜息をついた。
「蕩という字には『すっかりなくなる』という意味があってね。この字はハラとは読まないし、元は薙ぎ払うの払うっていう字を使うつもりだったんだけど、町名で注意喚起をしてるってことがお上に知られたら厄介だからこの字にして、災害がすっかりなくなるようにという意味です、なんて主張したらしいよ。私の祖父によれば」
「機転が効く方なのですね」
「そんなんじゃないよ。当時は政治と信仰が曖昧に混ざりあってたのと、祖父が位の高い神主だったっていう事情があったの」
なるほど老人がやけに狩衣を着こなしているのは、神職の家系だからなのか。そういえば最も高位の神主は狩衣も袴も白色を身につける規定があると本で読んだ。
「あなたも神主さまでしょうか?」
「そうだね。この年でようやく祖父に追いついた。もちろんお上に口出しできるような力はないよ。いい時代になったもんだ」
皮肉でも嫌味でもない凛々しい口調が老人の人生を象徴しているように、詩乃には聞こえた。苦難に見舞われながらもまっすぐに、真っ当に生き抜いたことが分かる。その生き様が羨ましくて、眩しくて、目を背けた。
「本当にいい時代になったよ。嵐が来ても家の中にいれば何の心配もいらないし。人がぽつぽつ引っ越してくるのはちょっと怖いけど、昔を知らなければ綺麗な観光地だもの。……今は季節外れだけど」
老人の視線は詩乃に向けられていた。一瞬どうして見られているのか分からなかったが、すぐに思い当たる。彼はオフシーズンの観光地に一人でいる見慣れない子供を心配して声をかけたのだろう。ただでさえ老人にとっての海は万物が命を散らす場所だ。
「あ、あの、わたしは学校が休みで、それで海が見たくなって遊びに来たんです、二人で」
「二人? 友達と来たのかな」
「違います、恋人とです!」
老人は目を丸くして、それから破顔した。茶化すでもなく説教するでもなく、ただ表情を優しいそれに変えてくれたことがありがたい。
「そうか、それならいいことを教えてあげよう。ここからもう少し上に行ったところに鐘があるから、一緒に鳴らしておいで」
「そうすれば永遠に結ばれるという言い伝えがあるのですか?」
海沿いの地域にありがちなストーリー。そう一笑に付せるほどロマンスに夢を見ていないことはない。むしろ二人っきりで海を見たいなんて我儘を恋人に言った時点で、詩乃は人並み以上にロマンティックを求めていた。
「いや、鐘ができたのはつい最近。君たちが箔をつけてくれたら嬉しいなと思って」
現実に漫画文法が存在していたら思いっきりズッコケていた。素直か、なんてツッコミも入れていた。けれど裏を返せば自分たちが伝説の始まりになれるということで、この上なくロマンティック。とりとめのない夢想がふわふわと広がって、夏でもないのに顔が熱い。
「行ってみます!」
「行ってらっしゃい」
老人はそう言ってから手を振りつつ去っていった。名残惜しい気持ちで見送り、やがて彼を包む白が完全に見えなくなった頃、名前を呼ばれる。
「詩乃! 何でいなくなっちゃうの、心配したよ」
「ごめんなさい……でもいいことを聞いたんだ」
「いいこと?」
ふふっと笑い声が漏れた。
「こっちに来て」
手を引っ張って教えられた通りに歩くと、子供の足でもすぐのところに鐘があった。先程の看板と異なってどこにも錆は浮いていない。本当にごく最近作られたものだということが丸分かりである。
ただ、青い海を背景に立てられた白い柱と、太陽光を反射する金色の鐘は強烈な色彩をもって目に焼き付いた。輝きに目を細め、再び開くと、辺りは薄靄に包まれている。光も音も匂いもどこか遠くぼやけていた。伸ばした手と空間との境界線すら曖昧で、やがて景色の全てが溶けてほどけていくのを、詩乃はその場に立ちすくんだまま見届けるしかなかった。
……顔が冷たい。
不可思議な感触から逃れるように起き上がると、鐘も海も消えていた。そもそも屋外ですらなかった。学校の教室と同じか少し広い部屋に、机と椅子が規則正しく置かれているのが見える。寝ぼけ眼を擦り、詩乃はようやくここが図書館の二階にある自習室であることを思い出した。
懐かしい夢を見た。梛蕩町に初めて訪れた日の思い出。綺麗な貝殻を拾い、神主と会話をした。彼は梛蕩町の残酷性を責めたけれど、詩乃は違った。穏やかに見せかけて、苛烈な本性を隠している町。そのせいで人を傷つけずにはいられないのに、素知らぬ顔で愛されている町。梛蕩へ向けられているはずの糾弾が自分宛のように思えて、湧き上がったのは親近感だった。同じ十字架を背負っている存在が自分以外にも在るという事実は、たった一つしかなかった詩乃の心の礎を増やしてくれた。
それにしても、と思う。せっかくあの日の夢を見るなら、もう少し見ていたかった。今までの人生で最も幸福だった瞬間がすぐ後に待っていたのに。けれど今となっては、そんな追憶に縋る必要もないが。
「詩乃」
甘い声が耳をくすぐる。振り向いた先で微笑む世界で一番愛しい人に抱きつくと、驚かれも引かれもせずに頭を撫でられた。誰からも与えられなかった──与えられていたにしても全く足りていなかったものを、こうも容易く当然のように与えてくれるのが嬉しくて、泣きそうになる。ぐっと堪えてその名を呼んだ。
「時夜」
「なあに、また怖い夢でも見た? これからは俺がずっと一緒にいるから大丈夫だよ」
返答もままならず、ひたすらに頷くのが手一杯だった。
「頑張ったね。もう詩乃は何も辛い思いをしなくていいからね」
「わたしが……頑張った?」
「頑張ったよ」
頑張っていたとは思えない。ただ、有無を言わせぬ口調を浴びれば納得せざるを得なかった。常識が分からない詩乃にとって、時夜はいつだって正しく規範なのだ。
「お腹すいたでしょ? ご飯食べに行こう」
頷いて立ち上がる。スーツケースのハンドルは、いつの間にか時夜が握っていた。
小さな町には贅沢なくらいに、梛蕩図書館は施設として充実している。三階建てで、一階はフロア全体を使った図書館。二階は今詩乃たちがいる自習室とカフェ。三階は音楽ホールで、この町が主催する大抵のイベントの会場となる。地元民はもちろん、どこからかイベント開催を聞きつけた観光客が来ても余裕で収容できるのが売りだ。
休日といえど中途半端な時間帯の昼下がり、カフェは貸切状態だった。四人掛けのソファー席を希望しても、店員は嫌な顔一つせずに通してくれる。詩乃は勧められるがままにハンバーグプレートを注文して、昨夜音成が作ってくれたのもハンバーグだったと思い出す。
運ばれてきた料理は店で出される物としては当然だが、綺麗な楕円形に成形されている。慎重な手つきでナイフを入れると、半透明の肉汁が溢れてきた。フォークはさほど力を入れなくても突き刺さり、それでいて持ち上げても刺した箇所からほろほろと崩れることはない。切り分けるたびにひき肉に戻っていく手作りハンバーグを見ながら、結構難しいもんだねと笑う困り眉の音成が思い浮かび、詩乃は自分の中に流れる血潮の冷たさを感じていた。
「食べないの?」
「食べる食べる。ちょっと音成さんのことを思い出しちゃって」
答えてから、詩乃は滑らかなペースでフォークを口に運んだ。瞬く間に料理に夢中になっていく彼女は、目の前の人物の冷ややかな視線に気づけない。
嚥下を見計らい、時夜が口を開く。
「音成さんってどんな人?」
「優しい人だよ。いつも夕食を作ってくれるの。まだ火を使うのが怖くて自分じゃ料理ができないから、すごく助かってた」
自室でボヤを出してからというもの、コンロの前に立つだけですら少しの勇気がいる。ただ恐れているのは火そのものと言うよりも、実家に連れ戻されることだ。あの日以来もMaison de la Merに留まり続けていられたのは大家の慈悲である。町名の由来を教えてくれた時もアパートを出ていく前もお礼を言えなかったことが、今更になって悔やまれた。
大家は二年前に出会った少女のことなど忘れてしまったようだが、詩乃は夢の中でも鮮明にその顔を再現できるほどには覚えている。純白の狩衣姿とくたびれたシャツ姿では与える印象が全く違うが、隠しきれない善人の雰囲気は何も変わっていなかった。
時夜がいない世界では、様々な人が自分を生かしてくれたのだと思う。もう隣にはいないという事実に向き合うたびに自分を形成する土台から崩れていきそうで、幻影に縋りながら生きてきたと思っていたけれど、自らの指針を取り戻せた今では、彼が隣にいなかった日々を見つめる余裕がある。そして詩乃は気づいた。時夜以外にも自分を慮ってくれる存在はいたのだ。
……朔も、そうなのだろうか。
ふと脳裏に差し込んできた思考を、下唇の痛みで誤魔化す。この仮定は存在すら許されない。もしもこれが真ならば、自分は世界で一番悪い姉だと証明されてしまう。薄々勘づいていても、証拠から目を逸らせば認めなくていい。閉じた箱の中から物音がしなくなり体液が流れ出てきても、蓋を開けなければ猫が生きている夢は見れる。だからひたむきに送られてくる手紙の封を開けることすらしなかった。
「音成さんたちに挨拶くらいするべきだったかな。わたし、薄情だよね」
「俺はそうは思わないな。そんなふうに考えてるだけでも、詩乃は優しいよ」
声が染み入る。
「優しいから、色んな人のことを気遣わずにはいられなくて疲れちゃうんだろうね。詩乃はもう自分の幸せだけ考えてればいいよ。詩乃のことを誰よりも大切にしない人たちのことなんて気にしなくていい」
「えっと……?」
「誰々が大切だなんて口先だけならいくらでも言えるけど、大抵の人間はその人がいなくてもそれなりに生きていけるんだよ。そんな人たちのために不幸になろうとしちゃ駄目」
「時夜は違う?」
「当たり前だろ。俺は詩乃がいない世界で生きるなんて願い下げだ」
今度こそ耐えられなかった。目の奥の痛みに瞬きをすると、熱を帯びた涙が頬を伝う。
「泣かないで」
「大丈夫。嬉しいだけだよ」
多くの出会いを経ても、ギフテッドという色眼鏡を通さずに自分自身を見つめてくれる存在は時夜だけだった。欠点をさらけ出しても失望せずにいてくれたのも。本来なら大人が与えてくれるはずの、自分が自分であるだけで生きている価値があるという自信も、何の取り柄もなくたって側にいてくれる人がいるという確信も、培ってくれたのは時夜だ。そんな人が詩乃のいない世界を生きる価値なしと切り捨てた。これが喜ばしいことでなくて、何を喜べるものか。
涙を拭ってくれる指の運びまで慈しみに満ちた時夜の存在を前にすれば、何もかもが些事になる。例えば、すっかり冷めきったハンバーグも美味しく食べられるなど。
「じゃあ、行こうか」
どこに、と聞くと時夜はいたずらっ子みたいな笑みを浮かべた。
「結婚式」
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