第9話 恋バナと唐突な別れ

 矢継ぎ早に食べ物を口へ運ぶ詩乃は、心身を蝕む呪縛から解き放たれたかのように晴れやかな表情をしていた。トマトソースを絡めた煮込みハンバーグも、やや薄味の白味噌の味噌汁も、麦茶に浮かぶ氷すらも、笑顔の向こうに消えていく。炊きたてのご飯を頬張った時だけは、その熱さに顔を顰めたけれど。

 音成が昨日買ったアイスキャンディーは一度溶けたせいですっかり風味が落ちていた。アイスがあるよと伝えた後でそのことを思い出すも、詩乃は構わずねだった。そして今、霜だらけのそれを咀嚼している。明日になったらもっと美味しいのを買ってあげると言ったのに。音成は不思議な面持ちで詩乃を眺めていた。

 ふと、詩乃がアイスから口を離す。

「ねぇ、音成さん。好きな人の願い事ってどこまで叶えるのが普通ですか?」

「え? 無理のない範疇で、かな?」

「じゃあ、好きな人の言うことはどこまで聞くものですか?」

「自分が納得できるラインまでかな」

 音成の返答に、詩乃は黙っていた。右手に持つアイスの棒から甘い液が伝い、床に落ちそうになる。音成は慌ててティッシュで詩乃の手を拭った。謝罪を口にしてから詩乃が言う。

「それが普通ですよね」

「うん、まあ誰だって好きな人の言うことは何でも聞くよね。際限なく甘やかすのはよくないけどさ」

 分かりきった口を利いているが、音成とて指南できるほど色恋沙汰に携わってきたわけではない。大人になりたがった同級生たちの内緒話もとい自慢じみた惚気話に相槌を入れるタイミングなら教えられるくらいだ。

 ただ、今言ったことは経験談である。ずっと片思いしていた人と極わずかな期間だけ付き合えた時の話。憧れの存在が隣に立ってくれることが嬉しくて、相手のやることなすこと全て肯定し叶え続けていた日々は「召使いと付き合った覚えはない」というそこそこ強烈な文句で終わった。

 振られたことは当然ショックだった。だがそれ以上に、誰に対しても優しく気遣いのできる相手に、自分の行為のせいで非情な言葉を吐かせてしまったことがずっと辛かった。

「自分のせいで大事な人が悪い方へ変わるのは、辛いよ」

「それは……元からそういう人だった、とかではなくて?」

「違う違う。振られる直前まで優しい人だったから」

「その人のこと恨んでますか? 未練とかは?」

「最後はアレだったけど、出会えたことも付き合えたことも全部幸せだし、今更復縁したいなんて思わないけど、あの時付き合えてなかったらずっと後悔してたよ。いい思い出ってとこかな」

 詩乃は何度も頷いて目を輝かせている。他人の恋話を面白いと思うのは、常人でも天才でも変わらないのか。意外に思いつつ、音成はそれが嬉しかった。

 詩乃がアイスの最後の一口を啜る。後に残された木の棒に「あたり」の文字が刻印されていた。

「あ、おめでとう。近所のスーパーに持っていけばもう一本貰えるよ」

「でも、これは音成さんが買ったものでしょう」

「いいって。むしろ一旦溶けたやつ食べさせちゃったからお詫びってことで……」

 急に歯切れが悪くなった音成を、詩乃が小さく笑った。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 緩やかにも時間は経ち、二人仲良く洗い物を済ませた頃には詩乃が半ば寝落ちしかけていた。休ませてあげたい気持ちは山々だが、あいにくここは音成の部屋である。隙あらばテーブルに突っ伏そうとする詩乃を追い立て、アイスの当たり棒をお土産に持たせ彼女の部屋へと誘導するも、足取りがふらふらと心許ない。仕方なく204号室の前まで手を引っ張り、鍵がかかっていない扉を開けた。手探りでつけた明かりに照らされた部屋は、綺麗だった。

「あれ?」

 普段はどんなに掃除しても二日経てば何らかの資料が床を埋め尽くすのに、今は塵一つ落ちていない。頑張ったんだね、と声をかけても詩乃には聞こえていないようだ。

 しかし弱った。布団がどこにも見当たらない。クローゼットを開ければあると思うが、さすがに気が引ける。手紙を読んだ時みたく切迫感を覚えていれば気にならなくても、日常の一コマの今のテンションでは無理だ。音成は少し考えてから、足元の座椅子の背もたれを倒して詩乃を寝かせた。クーラーをつけて毛布を側に置く。こうすれば凍えることも暑さに命を削ることもないはずだ。

「おやすみなさい。ドアを閉めるために使ったから鍵は預かってます。取りに来てね。音成より、と」

 ミニテーブル上のメモ帳に伝言を残す。

 起こさないように、静かに部屋の外へ向かった。玄関に置いてある鍵を借りて扉を施錠し、電気を消した暗い室内からぼんやり明るい外廊下に出て、音成はやっと一息つけた。長い長い一日を経て蓄積した疲れを消し去るためにぐ、ぐっと大きく伸びをする。気持ちよさの代償に、背中も腰も悲鳴を上げた。

 詩乃のこと。朔のこと。抱えなくてもよかったはずの人生が重石となって音成を潰しにかかっている。無邪気さと天才性の影に途方もない孤独を隠していた詩乃。姉の不幸の全てに責任を取ろうとして憔悴しきった朔。籠宮姉弟の傷は千尋の谷より深くて、素人の好奇心に解決されるものではない。だから、ここで投げ出したところで、誰も音成を責めないだろう。詩乃は付き合いが悪くなった隣人をいずれ忘れる。朔はそれも仕方のないことと諦めて、自分一人でもがく日々に戻る。全てが、音成の介入以前に戻るだけ。

 痛む箇所をさすりつつ、大きな欠伸をする。それほど非情になれるなら何の苦労もしていない。 

 自室に戻り窓を開けると、クーラーの冷気と一緒にかすかに残っていた料理の匂いが流されていく。代わりに顔に当たる蒸し暑い潮風が梛蕩町の匂いを運んできた。月明かりは漣を照らして、きらきら星を地に連れてきていた。波音は子守唄のように優しく耳を撫でる。この場所を構築する全てが音成の味方だった。

「大丈夫。まだやれる」

 そんな自分の声すらも頼もしい鼓舞に思えた。

 冷気がすっからかんになる前にそっと窓を閉める。お風呂に入らないと、とか、電気を消さなきゃ、という気持ちを忘れてはいないが、今はあらゆる味方に囲まれたまま、この日を終えたい。床に倒れ込んで目を閉じれば、音成は夢すらも見れない深みへと落ちていった。

 

 目覚めは全身に走る痛みを伴って訪れた。汗をかいた身体がつけっぱなしのクーラーに冷やされて凍えそうだった。立ち上がるのもままならず、這って移動するのがやっとである。風呂場に入り、硬直した手で蛇口を捻れば、たちまち冷水が頭上から降り注いだ。飛び上がる気力すらなくじっと耐え、やっと出てきたお湯に命拾いしたのも束の間。今度はびしょ濡れで肌にまとわりつく服の存在を思い出し、音成は頭を抱える。

 どうにかこうにか服を脱ぎ捨て、髪と身体を洗う。立ち上る湯気と石鹸の香りにしばし癒されるも、給湯器用リモコンが示す時間を見て再び固まった。14時47分。ほとんどの人はとうに活動を開始している時間だ。自室に残されている伝言のメモを見た詩乃が、音成の部屋を訪れていても不思議ではない。

 次の瞬間、弾かれたように音成が浴室から飛び出した。乱暴に水分を拭き取り、疲労と空腹でよろめきつつ着替えて、頭には適当にタオルを巻いただけの出で立ちで、長くもない廊下を走る。玄関のキースタンドから204号室の鍵を引っ掴んで部屋を出た。乱暴に閉めた扉の向こうで何かが床に落ちたらしく、不快な金属音が響いた。

 移動距離だけ考えれば十数歩にも満たないはずだが、詩乃の部屋の前に立つ音成は何故か息を切らしていた。

 コン、コンと扉を叩く。反応はない。

 ゴン、ゴンと音が変わる。やはり反応はない。拳が痛くなった。

「シノちゃーん?」

 呼びかけにも反応なし。

 音成はドアノブに手をかけて、溜息をつきながら静かに引いた。扉は音成を招くかのように呆気なく開いた。

「ねぇ、鍵を返しにきたよ。……お邪魔します」

 嫌な予感がする。

 靴を脱いで、昨夜も通った詩乃邸の廊下を進む。人の気配は一切なく、家電のモーター音がその場を支配している。一歩ずつ足を進める度に顔を伝うのは、拭き取れなかった水かそれとも冷や汗だろうか。

 リビングを一瞥した目に空っぽの飾り棚が映って、音成の予感は確証に変わっていった。棚は詩乃がとりわけ大事にしている写真や小物で満たされていたはずなのに、何にもなくなっている。それは何よりも雄弁な意思表示だった。詩乃はもうここには帰ってこない。

 テーブルに視線をやると、音成が残したメモは消えていた。代わりにそれよりも大きな書き置きがある。

 拾い上げて、文字を追う。

「音成さんへ 引っ越すことになりました。お世話になったのに挨拶することができず、大変申し訳ありません。卒論を最後まで手伝えないことが心残りですが、音成さんならきっと大丈夫です。必要そうな資料は置いていくので好きに使ってください。たくさんご馳走してくれて本当にありがとうございました。全部美味しかったです。詩乃」

「シノちゃん……?」

 はーい、と声が返ってくることは当然ない。

 友人との別離が唐突に訪れれば、誰もが悲嘆に駆られる。そして感傷は人から思考力を奪う。音成だってそうだった。寝坊した自分を責めて、もっと親交を深めておかなかったことを悔やんで、手紙一枚で全てを終わらせる詩乃の非情さを少し恨む。涙だけは流すまいと下唇を噛み、項垂れた顔を上げるまで、音成は部屋にいくつも残された違和感と手紙の矛盾に気づかなかったのだから。

 資料はともかく、テーブルをはじめとした家具、カーテン、喧しいくらいにモーター音を響かせる家電。これらを残して消えるのは、引越しではなく夜逃げと言うのだ。部屋は綺麗に整理整頓されているとはいえ、なくなっているのは飾り棚に置かれていた物とスーツケースくらいである。旅行に行ったと言われた方がまだ納得できる。

 ただ手紙の文面からして、詩乃は本当に帰ってくるつもりがないのだろう。里帰りという線もあることはあるが、朔がいる以上実家に寄り付くとは思えない。

 何も理解できない。想像も働かない。ただ、このまま放置していられるほど、詩乃を信じることはできなかった。貯水池の底へ沈もうとしたあの日の姿は、思っていた以上に音成の心に刻み込まれていたらしい。水滴が髪から背中を伝い、未だに薄らと残る痣を撫でる。

 音成は自分が梛蕩町にとって新参者であり、余所者であることを今更ながらに思い出していた。今の今まで忘れていられたのは、詩乃が自分と梛蕩を繋ぎ止めてくれていたから。悩みを抱える人間に手厳しい夜を何度も越えられたのは、そこに詩乃と囲む温かい食事があったからだ。音成は元来、食事にこだわる方ではない。衣も住も最低限のものがあればいいと思っていた。詩乃がいなければ荒れた部屋の中心で真夜中にインスタントを食み、ただでさえ新生活で疲弊した精神を余計にすり減らしていた。詩乃の生活を正すつもりで送っていた規則正しい生活が、回り回って自分を救っていた。

 詩乃が何を考え、何を望んでいるのかは全く分からない。だけど何かどうしようもないことから逃れるために世界からの喪失を願っているのだとしたら、その「どうしようもないこと」が実は誰かに頼れさえすれば解決できるのだとしたら、このまま見過ごすわけにはいかない。自分だけ散々救われておいて、何の見返りもないなんて、アンフェアだ。

 音成は意を決して立ち上がった。今度はしっかりとした足取りで部屋を出て、返しそびれた鍵で施錠する。自室の扉を開けると、キースタンドが落ちて散らばっていた。さっきの音はこれだったのかと思いながらも、拾いもせず部屋に戻る。

 リビングに置いた鞄からスマートフォンを取り出す。充電は残り4%だが、今は充電器に繋ぐ手間すら惜しい。

 メッセージアプリを起動させ、「萩原さん」の画面を開いた。幸せを願ってるだの、こっちは任せてだのと綺麗事を並べたメッセージが映る。大見得を切っておいて情けないが、体裁よりも大事なものがある。

「詩乃ちゃんがいなくなった。これから探しに行く。もし連絡が来たり姿を見かけたりしたら教えてほしい。こんなことになってしまって本当にごめんなさい」

 そこまで打って送ってからようやくモバイルバッテリーを繋ぎ、最低限の服を最低限外に出られる服に着替え、自然乾燥しかかっていた髪にドライヤーの温風を当てる。悲鳴を上げる胃には菓子パンとお茶を詰め込んで、大股で跳ねるように外へ。

 どうか手遅れにならないように。

 炎天下の午後、行く先も何も分からないまま、音成は走り出した。

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