第8話 「生きてていいよ」

 気が抜けたコーラを吸い上げると、溶けた紙の味がした。音成は朔から見えないように横を向き、舌の上に残ったストローの破片を取り除く。口直しといきたいところだが、コップは二つとも空になっている。この状況でドリンクバーに立てるほど空気が読めないわけではない。

 今の話のどこに朔の罪があるのか、音成にはしっくり来なかった。一度きりの誕生日を台無しにされて憤る詩乃の気持ちは分かるけれど、それにしたって大げさだ。否、大げさなのは朔の自罰的な性格の方だろうか。事故が起こってすぐはぎくしゃくしても、気にせず接していれば数日の内に元通りの仲良し姉弟に戻れたのではなかろうか。しかし手紙の扱いも詩乃本人の態度からしても、彼女が朔を今現在まで嫌い続けているのは確かだ。

「……誕生日は」

 朔は俯いたままでまた話し出す。

「姉さんが主役になる唯一の日でした。あんな事故を起こすくらいだから、俺は人並み以上に手のかかる子供だったと自覚しています。両親は俺にかかりきりで姉さんに構う余裕がなかった。姉さんがそれに文句を言ってるところは見たことないですけど、絶対寂しかったと思います。姉弟と言ってもたった一歳しか離れてないから」

 そういうものかと考えを巡らせると、一つの思い出が頭の中に浮かんだ。

 音成が子供の時、年下の親戚がちょくちょく家に遊びに来たことがある。学校から帰ってきた時に小さな靴が増えていると、げんなりした気分でランドセルを置いて外に出たものだった。実の子供である自分よりも親戚を優先する親の姿を見るのが嫌だったのだ。今では幼い嫉妬心だと思えるし、親戚ともそれなりに良好な関係を築けているが、当時の自分にとってはまるで世界を侵害されているかのような一大事だった。

 年上は年下を慮るもの。その法則は幼心にも理解していた。しかし子供にとって親は世界の全てであり、そこに自分を差し置いて優先される存在があれば排他的になる。これは一種の生存本能であって、誰にも責められるいわれはないのだ。

 詩乃は昔の自分よりもずっと理性的だった。両親の視線を独占する朔を「弟だから」の一点で許し続け、期待される理想の姉を演じ続けたのだろう。音成がよく知る甘えたがりな一面を、家族の誰にも悟られないほどの名演技で。そこにどれだけの苦労があるかは想像もつかない。

「それすらも俺が盗ったからもう姉さんには時夜く、じゃなくて兄さんしかいなかったんでしょう。兄さんは見てるこっちが恥ずかしくなるくらい、姉さんに夢中でした」

「どうしてトキヤくんのことを兄さんって呼ぶのかな」

「そう呼べって言われたんです。うち共働きで昼間は両親が居なくてよく姉さんと留守番してたんですけど、俺が中一くらいの時に姉さんが遅くまで帰ってこない日があって。で、帰ってきたらすごい機嫌良くて、時夜くんと遊んできたのって聞いたら『今日から時夜のことは兄さんって呼んで』って」

「へぇ」

「ほんと訳分かんなかったです。お土産だよって貝殻を渡してきたし」

 お土産に貝殻を選ぶなら行先は海だ。もしかしたら詩乃が時夜と梛蕩町に行ったのはその時なのかもしれない。音成は時夜を語る詩乃の夢見心地な表情を思い出していた。

 家に居づらいと思っていた頃に自分をひたすら構ってくれる相手が居たら大好きにもなる。音成はそんな相手に出会えなかったが、詩乃には時夜が居た。詩乃にとっても朔にとっても、これ以上ない救いだ。

「兄さんと居る時の姉さんはすごく幸せそうでした。兄さんが怖いのもありますけど、それ以上にあの二人にずっと一緒に居てほしかった。……そうすれば俺も許されたと思えた」

 最低ですよね、と朔が自嘲した。

「全部俺が悪いのに自分のことしか考えてなくて」

「そんなことは」

「ありますよ。兄さんが引っ越す時、何を言ったと思います? なんてことしてくれるんだって言ったんですよ。なんで姉さんと一緒に居てくれないんだって。皆泣いてたのに、俺だけ勝手な理由で怒ってたんです。ここまで自分勝手だなんて知らなかった」

 音成が持った朔の第一印象は穏やかな子。今までの人生で一度たりとも憤ったことなんかありませんよといった顔をしている彼がここまで言うあたり、相当追い込まれていたに違いない。姉だからの一点張りで周囲の期待する像を演じる詩乃、自分のせいだからの一点張りで自分を責める朔。この姉弟はよく似ている。

「すみません、質問まだありますよね。姉さんが一人暮らししたがったのは兄さんが居なくなって俺と顔を合わせることに耐えられなくなったとかでしょう。貯水池に飛び込もうとしたのは、分かりません」

 苦々しくそう言いきった朔の表情を、音成は少しの間黙って見ていた。彼の目を縁どる隈は痣に似た不吉な紫色をしている。出会ったばかりの頃の詩乃の目にそっくりだった。不幸と苦労と傷を背負った者特有の、生気を失った目。

 産まれたから生きているだけだと言うのに、どうして詩乃も朔もこんな目に遭わなければいけないのだろう。音成は将来の進路に不安を感じても、今日や明日に温かいご飯が食べられないかもしれないという不安を抱いたことはない。家族と喧嘩して自分を責め続けたこともない。しかしこの幼い姉弟は、ずっと先行きの見えない暗夜の中で自分や相手を傷つけながら生きながらえてきたのだ。自分と籠宮姉弟の間にある違いは運が良かったもしくは悪かったという一言で片付けてはならないものだと、音成は考えていた。

 そして次に発する言葉を、豊かとは言えないボキャブラリーの中から必死に導き出そうとしていた。「君は悪くない」では弱い。言い終える前に否定されてそれきりだ。朔が数年の間培ってきた自罰的な性格をある程度までは肯定しつつ、それでいて彼を救える言葉。ありもしない罪の償いのためにしか生きていなかった朔が、自分のために生きていていいと思えるような言葉。

「だけど姉が死ぬつもりで飛び込もうとしたなら、きっと俺のせいです。……俺さえ産まれてこなきゃ……」

 駄目だ。その先は言わせない。

「朔くん」

 思っていたよりも大きな声が出た。いつの間にか隣の席を埋めていた客からの視線を感じつつも、構わず続ける。

「生きてていいよ」

 ようやく朔と目が合った。吸い込まれそうな黒に近い色の瞳を、音成は食い入るように見つめ返す。朔の目に映る自分は、これ以上無いほど真面目な顔をしていた。

「こんなこと、誰かが許可するようなことじゃないけどね。たとえ全人類が駄目だって言っても、自分が生きてたいなら生きてていいんだよ」

 朔は物言わずに首を振るも、音成は言葉を続けた。

「自分が行きたい学校に行っていいし、放課後とか休みの日は遊びに行っていいし、ご両親に頼ったり甘えたりしたい日はそうしていい。法律と公序良俗にさえ反さなければ、どんな風に生きてもそれはその人の自由だよ」

 一拍置いて、なおも続ける。

「朔くんがどう生きようと誰にも咎める権利なんかない。シノちゃんにもトキヤくんにもない。君の人生なんだから」

 道徳の教科書にでも書いてそうな綺麗事に、音成は自分で言って辟易する。そんなの言われなくても分かってるとか、偉そうに何様のつもりだとか罵られても無理はない。

 しかし身構えていても怒号は飛んでこなかった。朔は音成を見たまま、両目から涙を流していた。

「いいの、かなぁ……生きててもいいかなぁ……」

 どうやら思っていたよりも朔は限界だったらしい。音成の発言に縋る彼に反発の様子は見られなかった。

「いいよ。朔くんは自分で自分を許せないみたいだから、代わりに許したげる。生きてていいよ」

 朔はそのまま泣き崩れてしまった。音成が躊躇いながらも手を伸ばし、くしゃくしゃの髪をなでる。もしかしたら詩乃は許さないかもしれないが、五年も頑張ってきたのだから労られる権利くらいあるはずだ。許しの言葉も本当なら詩乃の口から聞きたかっただろう。音成が言ったことは気休めで、現実逃避みたいなもの。それでもよかった。音成は、朔に逃げてほしかったのだ。

 朔は悪くない。詩乃も悪くない。誰も悪くない。

 強いて言うなら、間が悪かったのだ。

 その結論に辿り着くまで、この子たちは酷く傷ついた。あまりにも閉じた世界に置かれていたから、客観的に判断することが出来なかった。そういう意味では、首を突っ込む第三者の存在も全くいらないわけではないのかもしれない。

 ……あれ?

「音成さん、ありがとうございます……」

「あ、どういたしまして。えっと、一つ聞きたいんだけど、トキヤくんはシノちゃんがギフテッドだって知らなかったの?」

 朔は首を傾げた。

「さあ……姉は町一番の秀才だって評判でしたけど、ギフテッドかどうかは知らないと思います。そうだって分かったのは兄さんが引っ越した後なので」

 そうなのかと思いつつ納得は出来なかった。音成は知り合って数日で詩乃の特性を目の当たりにした。ほぼ四六時中一緒に居たら、ギフテッドの概念を知らずとも彼女が特別な存在だということくらい勘づける。話を聞く限り、時夜もそれなりに頭の回る子だ。

 時夜に対して既に恐怖心を抱いてしまっている音成は、嫌な方向に想像を巡らせていた。すなわち詩乃がギフテッドであることに気づいた上で、口を閉ざしていた可能性。不利益を被っていると知っていながら黙っていたのだとしたら、何のために?

 先入観は推理にとって邪魔でしかない。しかし推理とも言えない妄想は、妙なリアリティを持って形成されていく。愛する彼女が苦しんでいると分かっていながらわざと見過ごして側に居続けたなら、末恐ろしいなんて生半可な言葉では表せない。

「帰らなきゃ……」

 嫌な予感がする。

 テーブルの上に置きっぱなしだったスマートフォンを点けると、時刻は午後一時を大幅に過ぎていた。

 今から梛蕩町に帰れば午後四時近くになる。そこから二人分の買い物をして、夕飯の支度をする。これ以上帰るのが遅くなったら、よっぽど要領よく動かない限り詩乃をまた空腹のまま待たせてしまう。

 朔は泣き腫らした赤い目を音成に向けて尋ねた。

「今日も姉さんと夕食を食べてくれるんですか」

「そのつもりだよ」

 喧嘩のことまで言う必要はない。

「本当にありがとうございます。音成さんのおかげで、俺もそうですけど、多分姉も救われました」

「そうかな?」

「はい」

 朔は服のポケットから自分のスマートフォンを出した。

「俺、これからは自分のことを優先したいと思います。それでも姉には許してほしい。だから音成さんが姉と交流する中で困ったら力になります。俺だけじゃ無理だったけど、音成さんが居れば大丈夫な気がするんです」

 そう言って表示させたのはメッセージアプリの友達登録画面だった。

「迷惑をおかけします。でも、もし良ければ」

「ありがとう。勝手に首を突っ込んだのはこっちだからね……ここまで来たら最後まで行くよ」

 音成もメッセージアプリを起動させ、朔の連絡先を登録した。デフォルトアイコンとフルネームは個性的なアイコンやニックネームの並ぶ一覧の中でかえって目立つ。すぐに朔の名前をタップして、表示名を「萩原さん」に変更した。朔という漢字から連想した詩人の名前。籠宮よりはポピュラーな苗字。ロック画面に表示されているのを見ても、すぐには弟のことだと気づくまい。簡単なカモフラージュのつもりだ。

「どうなるかは分からないけど、状況が良くなるように頑張るね」

 朔はテーブルにめり込まんばかりの勢いで頭を下げた。重めの音が響き、音成が慌てて頭を上げさせる。額の真ん中が丸く赤くなっているのを見て、笑い事ではないが吹いた。

 つられて朔も笑う。今度は自嘲でも弱々しい愛想笑いでもない。愉快だから笑う、そんな笑顔だ。

 ひとしきり笑い、ここは俺がと言い張る朔を宥めすかして音成が伝票を取り上げ、会計を済ませて外に出る。夏の一番暑い時間帯、太陽は容赦なく人々を照りつける。眩しく明るい水色の空の下で、二人はいつか再び会うことを約束し、それぞれの帰路についた。


 梛蕩駅から出てきた音成を、ぬるい潮風が出迎えた。帰ってきた心地がする。詩乃と時夜に関する推理はまとまらなかったが、今晩のメニューは決まった。いそいそと行きつけのスーパーマーケットに向かい、ひき肉と野菜とトマト缶を買う。頭に浮かんだのは、高校の家庭科の授業で作った煮込みハンバーグ。

 急いで帰ってきたおかげで混雑に巻き込まれずに済んだ。エコバッグを提げて小走りになる。日が落ちれば怖いが、明るいうちならどうってことのない道だ。背後を気にせず通れるのはいいこと。足取り軽く、まっすぐ帰っていく。

 緩やかなスロープを登りながら、音成はキーホルダーを取り出した。部屋の鍵と外階段の鍵がついている。

 Maison de la Merは海に面した高台にいくつか並ぶ建物のうちの一つである。横に長い長方形をした三階建てで、中央に内階段が、両端に扉つきの外階段がある。外階段は常に施錠されており、入居者全員に配られる鍵を使って出入りが可能になる。ほとんどの住民には無用の長物だが、角部屋かそれに近い部屋に住んでいれば近道だ。なるべく早く部屋に帰って仕込みを始めたい音成も、外階段に向かう。

 扉を開け、内側からしっかり鍵をかけて階段を駆け登る。金属製の段差を踏みしめる特有の音はかなり響く。音成は内心で、すみません急いでるんです、と角部屋周辺の住民たちに謝罪した。

「うわっ!?」

 急に足が滑って前のめりに倒れかける。手すりを触っていたのが幸いして転ぶことはなかったが、心臓が痛いほどドキドキしている。体勢を整えて階段に視線を落とすと、水に濡れてつやつやしていた。ここ数日はずっと晴れていたのに、なぜ?

 今度は走らず慎重に足を運ぶ。階段の水は二階で途切れ、廊下に伸びていた。水を辿って歩くと、ある部屋の前に水溜まりができていた。204号室。詩乃の部屋。

 気がつくとインターホンを鳴らしていた。どんなに些細なことでも災厄の兆候になり得ると、音成は知っている。

 たたたたたっ、小動物の走るような音がして、すぐに扉が開いた。

「音成さん!」

 まだ日が高いにもかかわらず、詩乃はパジャマを着ていた。濡れた髪をタオルで拭きながらにこやかに笑っている。喧嘩をした記憶がすっかり抜け落ちているかのような印象を受けた。

「すみません、お風呂上がりで。今日の夕食は何ですか?」

「えっと、煮込みハンバーグを作ろうかと」

「わぁー! 楽しみ! じゃあ、ご飯炊いておきますね!」

「……怒ってないの?」

「え? ああ、昨日のことですか? もういいんです。大丈夫ですよ」

 あまりの変貌ぶりだが、蒸し返して不愉快な思いをさせるのも引き止めて湯冷めさせるのも忍びない。また後でねと言い、音成は部屋に戻った。

 買ってきたものを冷蔵庫に入れ、スマートフォンを手に取る。メモアプリに今日の出来事を書き連ねていると、「萩原さん」から通知が来た。

「今日は本当にありがとうございました。会えて嬉しかったです。音成さんのおかげで、前を向くことが出来そうです」

 健気なメッセージに胸が締めつけられる。暗闇に光を灯すヒーローが現れてくれたと、朔は勘違いしているのだ。朔に隠し事をしないと決めておきながら、自分の行動原理はとうとう明かせなかった。

 返信を書く。

 ごめん、と書いて消した。

「こちらこそありがとう。朔くんが幸せになれるように、心から祈ってる。色々相談するかもしれないけど、こっちのことは任せて」

 好奇心で始まった友情。

 だけど、朔も詩乃も、幸せになれるように。心からそう祈っている、この気持ちは本物だ。

 感傷に浸りかけた気持ちごと水に流すように、念入りに手を洗う。今すべきなのは、美味しい夕食を作ること、それだけ。

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