第11話 病める時も
二人が初めて梛蕩町を訪れた日から随分と時が流れたが、鐘は輝きを保ったまま恋人たちの再訪を待っていた。一足先に時夜が鐘の下へ駆け寄り、手招く動作をする。夢の続きを見ているような光景だと、詩乃は思った。
「いい景色だね」
海を一瞥した時夜の発言は、二年前のそれと全く同じ。微睡みの中では見られなかった光景が目の前にある。今から始まるのは、あの日のリフレイン。
二年前、神主に教えられた通りに詩乃は時夜を連れてこの鐘を訪れ、そして永遠の仲を誓った。青空と眼下に広がる白い砂浜、青い海、そして輝く鐘。その光景があまりに眩しくロマンに満ち満ちていたものだから、「カリヨンの鐘ってこんな感じなのかな」と詩乃が口走ったのも無理はなかった。カリヨンの鐘、いわゆるウェディングベルは絵や写真ではお馴染みでも、実物を見ることはそうそうない。まして彼女はまだ子供だった。
「そうかもしれないね。こんなところで結婚式なんていうのもロマンがある」
どうってことのない戯言だとは思っても、恋人の発言であれば期待もする。内心のときめきを表に出さないように出来る限りそっけなく、いいねそれ、と返した。
「する?」
でもそれも、余裕そうに問う時夜の前では無意味だった。何度そうしたかは覚えていないが、ほぼ反射的に頷いたのは記憶にある。
「指輪もなければ牧師さまもいないのは、あまりカッコがつかないな」
苦笑しながら詩乃の手をとって、時夜は言う。その目に揶揄いの意図は一切なかった。
「病める時も、健やかなる時も、久世時夜は籠宮詩乃を永遠に愛することを誓います」
「か、籠宮詩乃は久世時夜を永遠に愛することを誓います」
「うん。違えたら駄目だよ?」
「わたしが時夜を嫌うことなんて絶対にないし大丈夫でしょ」
どこまでも朗らかに答えた詩乃に、時夜は言う。
「結婚って大変なことだよ。家族になるってことなんだから」
「……家族ってそんなに
「詩乃は久世家の娘にもなって、俺は籠宮家の息子にもなる。そう考えたら
「そう……あの子は時夜の弟になるのね」
「俺が朔の兄さんに相応しい人間だったらいいな。言っとくけど、一番
その言葉を聞いた途端、詩乃は時夜に抱きついて顔を伏せた。嬉しいのは当然ながら、それ以上にきっと邪悪極まりない今の表情を見せたくなかった。胸中に生じたこれが決して褒められた感情ではないことは分かっている。それでも、朔よりも自分に重きが置かれることへの快感に抗えない。詩乃自身も周囲も、朔を優先することに慣れきっている。彼は弟で、やんちゃ盛りで、ごく普通の人間だから、手が掛かるし目もつけられる。詩乃は姉で、聞き覚えがよくて、特別だから、放置しても平気と見做される。そんなわけないのに。改めて、はっきりと分かってしまった。自分は朔をずっと疎んでいた、世界で一番悪い姉。
この本性が知られたら、もう二度と幸福は訪れない。それが怖くて仕方ない。
「時夜、時夜も、絶対に誓いを破らないでね」
「分かってるよ。次ここに来る時はちゃんと指輪を用意するね。金色と銀色どっちがいい?」
「要らない。また一緒にここに来てくれるなら、それだけで充分」
優しく頭を撫でてくれる手の温かみを、今でも覚えている。
また一緒に。その約束を叶えるためにここを訪れたわけで、となればこれから起こることは手に取るように分かる。期待に満ちた熱っぽい視線を遠慮なく向けると、時夜はいつもそうするように静かに微笑んで、鞄から小箱を取り出した。
「どうか俺と結婚してください、詩乃」
慣れた手つきで開かれたベルベットの蓋の下に鎮座しているのは指輪だった。つるりとしたシンプルな銀色のリングに埋め込まれ、鋭い太陽光に照らされて複雑な輝きを見せるのは、紛れもないダイヤモンド。その道に通じていなくても、価値は何となく察せられる。サイズ違いのそれが二つ、黒に近いネイビーブルーの台座の上で詩乃を見上げていた。何も言わず指輪とこちらの顔を見比べてくる反応がおかしかったのか、時夜は声を立てて笑った。
「なあに、そんなにプロポーズが驚きだった?」
詩乃が何に驚いているかは、無論百も承知である。
「ちが……それ、なんで……?」
「指輪なんていらないって、二年前も言ってくれたけどさ。やっぱり見栄は張りたいじゃん。プロポーズには指輪があるのが普通でしょ?」
「そうかもしれないけど、そんな高い物受け取れな」
「どうして?」
一歩、前に出る。思わず仰け反った詩乃の腕を掴んで引き寄せるのに思っていた以上の力が要って、時夜は小さく、ほんの小さく、舌打ちした。
「ちゃんとバイトして買ったんだよ?」
「だからこそだよ! わたしばっかり何でもしてもらって、わたしは何も返せないのに……」
「そんなことない。詩乃は俺の隣にいてくれさえすればいい。本当にそれだけでいい」
その言葉は嘘偽りも誇張もまるでない、誠実で切実な懇願だった。時夜にとって、詩乃が自分の隣にいることは千金に値する。初めて出会った時からずっとその価値観に即して生きてきたし、彼女に相応しい人間になれるよう努力も重ねてきた。アルバイトで六桁稼ぐ苦労は、彼にとってもはや今更の枠に入っている。物理的な報酬や、目標金額に着実に近づいているという実績が見えるだけ精神面は楽ですらあった。
「詩乃。君を愛してる」
彼女の隣に立てるなら。守れるなら。愛を囁くことが許されるのなら。それ以外なんて時夜には全てがどうだってよかった。
一度詩乃の腕を離して、左手を今度は優しく持ち上げると、時夜は有無を言わせずに指輪を嵌めた。以前測った時より若干大きいサイズで作ったはずなのに、ぴったりと薬指に落ち着く。指摘はデリカシーがないのでしないが、大方あの隣人のせいなのだろう。痩せている方が好みとか、問題点はそんな些事ではない。詩乃が自分の知らない存在に変えられることが忌々しくてならないだけで。
「俺にもつけて」
片方の指輪が残ったリングケースを差し出す。詩乃は恐る恐る指先で指輪をつまみ、永遠かと思われるほどの時間をかけて時夜の左薬指につけた。
満足気に微笑んでみせると、詩乃も緊張が解けたようで少しはにかんだ。
「わたしは、時夜に何が出来るかな?」
重ねた左手に指輪が瞬いている。
「わたしは時夜のためなら何でもやる。どんなことでも絶対に叶える。好きな人の願いは無理のない範疇で叶えるものだって聞いたけど、ここまでしてくれたのに自分だけそんなことは言えないから。……昔からそうだった。時夜はずっとわたしのために無理ばかりしてたよね?」
「そんなこと……!」
口からは咄嗟にそう出たが、否定なんて出来るはずがない。
どんなに努力を重ねても、時夜はただの人間で、神に愛された才能の前には無力だ。本人にその意思がなくても、詩乃の特性は日毎に時夜を置き去りにした。追いつくために勉強も、運動も、自分磨きも、死に物狂いでやってきた。追いつかなければならなかった。詩乃が「普通」を望んだから。
ギフテッドの概念を知らなくても、詩乃の特性はやはり誰の目にも明らかで、周囲が露骨に彼女を特別視するのは無理もなかった。大して勉強していない(実際その通り)のに成績は常にトップで、かと言ってわざと間違えれば余計に白い目で見られ、興味を持つ分野が周りの子どもたちとは異なるために輪には入れず、羨ましがられ妬まれ孤立しても「詩乃は普通じゃないから」と放置される。それがむしろ本人のためと思われ、解消しようとする人間は誰一人いない。彼女が望んでいるのは友達と遊んだり、好きな話で盛り上がったり、努力したことを相応に認められたりしたいといった当たり前のことばかりなのに、それを吐露した時点で嫌味と捉えられる。一度見聞きしたことを忘れられない詩乃は、そうした嫌な記憶も鮮明に残って消えない。人と関わることが傷つくことと同義になって、もうどうしようもなかった。こんな才能要らなかった、普通に産まれてきたかったと泣く幼い詩乃の姿が、時夜の網膜にこびりついて離れない。可哀想でならなかった。救いたいと思った。それが出来たら、世界で一番愛おしい存在は自分から離れていかないだろうと考えた。
時夜がやったことは、詩乃に自分が普通であるという夢を見せること。そのために彼は詩乃と対等にならなければいけなかった。学校の勉強の他に、どこで使うのかも分からないような知識を脳に叩き込んで、ひたすらに彼女の興味を惹く。限界が来ることは初めから分かっていたけれど、進まずにはいられなかった修羅の道。その果てにあるのが詩乃からの今の言葉なら、何一つ後悔はない。
「本当に何でもしてくれるの?」
「もちろんだよ。言って」
詩乃の目は真剣そのものだった。今から何を告げようと、茶化すことも疑うこともしないだろう。色々と横槍を入れてくれた誰かさんには悪いけど、詩乃が受け入れるのはいつだって自分だ。時夜は心の中で、憎い憎い例の隣人を嘲笑う。詩乃の目に映る自分は、これ以上ないほど良い表情をしていた。
「じゃあ、俺と一緒に、死んで?」
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