第16話 未知に夢見る

「位置について……よーい、ドン!」

 音成は合図と同時に、スマートフォンのタイマーを開始した。軽やかにスタートを切り走り去っていく少年の背を目で追う。緩やかでも下り坂になっているコースをものともせず駆け抜ける彼に称賛の念を送りつつ、一対一の勝負を持ちかけようとした判断ミスを恐ろしく思った。年齢を重ね、社会人になる準備も整えた、そうしたイベントごとを経験しただけで大人ぶってはいけないのだとつくづく実感した夜を思い出しては、一人も欠けることのない結末を迎えられたことに改めて感謝する。子供を庇護できる大人というのは、自然経過でそうなったわけではないのだ。

 そんなことを考えているうちに少年の姿は見えなくなっていた。示されたタイムは一分弱。この距離を走ったにしては速いが、瞬間移動と言うには遅すぎる気がして、音成は首を傾げた。

 引っ越し早々道に迷った自分をアパートまで案内してくれて、少し目を離した瞬間に姿を消した少年のことを、音成はずっと気にしていた。海から来た怪異の類だと思い込もうとしていたが、正体を知った後は消失トリックの方が気になって仕方なくなった。よって本人に頼み、当日の状況を再現させているのが現在である。先程から繰り返しているが、少年の姿が見えなくなるまでがどうにも思っていたより遅い。

 ただ、真相を知れば興醒めである。「自分が少年から目を離したのは一瞬」という音成の認識が間違っているだけで、実際には地図アプリで現在地を確認したり、新生活に思いを馳せたりしている時間があった。真夏の炎天下、日差しに弱い少年は、その間に急ぎ足で帰った。たったそれだけなのだから。

「戻ってきたらもう一回測らせて」

 しかし音成は真相に気づかないままメッセージアプリを開き、予測変換の先頭を三回ほどタップするだけのメッセージを送る。いくらなんでも怒らせる気がしてきた。少年とのトーク画面には同じ文面がいくつも並んでいる。

 少年は予想に反して、どこにも怒気を感じさせない表情のまま音成の元へ帰ってきた。休もうともせずスタートラインに立つ少年を、音成の方が引き留める。

「時夜くんは疲れとか知らないタイプ?」

「これくらいで疲れませんよ。日も出てませんし。今日を指定していただけて助かりました」

「ああ、それね……」

 話は詩乃と時夜の心中未遂の翌日まで遡る。

 詩乃を病院に任せ、自宅で一夜を明かした音成に来客があった。インターホンのカメラを確認すると、駅まで見送ったはずの時夜が映っていた。生者であることを疑わせる雰囲気すらあって、音成は次の瞬間に玄関の鍵もドアチェーンも躊躇なく外していた。

「どうしたの時夜くん、家に帰ったと思ってたよ! 親御さんに連絡した? そもそもあの後どこ行ってたの? ごはん食べた?」

「その辺りは心配なさらないでください。……謝りに来ました。この度は、本当に、本当に申し訳ございませんでした。謝っても到底許されることではないと、重々承知しておりますが、本当に……」

 平伏しかねない時夜の迫力に押されて、宥めの言葉も出てこなかった。どうにかして顔を上げさせ見た表情は、昨夜よりかは回復しているようにも思えるが、目に生気は全く足りず、打ちのめされた人間のそれでしかない。こうなったのは全て、自分が時夜から生きる意味を奪ったから。詩乃のことを思えばきっと間違いではなくても、あれほど残酷な手段に出ざるを得なかった己の未熟さを厭う。

「皆が無事だったんだから、それで良いんだよ」

 本心の範疇とはいえ、あまりにも綺麗事でしかない言葉。

 時夜に対して自分が与えるべきなのは糾弾であり罰則だろうと予想は出来るのに、これ以上の言葉を紡ぐ気にはなれなかった。リマインドしていた背中の痛みだって実際には数日も経てば消えていたし、痣も見失う程度に薄まった。それ以降に物理的な傷は負わされていないし、精神面でも、考えうる最善の結末を迎えられた事実が大いにプラスになっている。この状態で、ただでさえ打ちのめした相手を更に責める気にはどうしてもなれない。悪事を働いた子供を見過ごすのは良い大人のすることではなくても仕方がない。音成は、それを嫌がる程度には子供なのだから。

「分かりました」

 穏やかに聞こえる口調で時夜が言う。二度、三度、深く息を吸い、吐いて、薬指から何かを引き抜き音成に差し出した。

「これは?」

 反射的に受け取った後、音成が聞く。手のひらには銀色の指輪が載せられていた。

「俺の結婚指輪です。今はこれしかないから」

 自身の血の気が引いていくのを音成は感じ取っていたが、時夜の顔からはそれ以上に血色が消えている。ぼたぼたと泣きながら、わなわな震えながら、口角だけは上げて固定し作られた微笑は、ややもすれば壊れてしまいそうだった。罪悪感を増やしたくなかったがための発言だったのに、逆効果もいいところ。慌てて指輪を突き返すも、時夜は首を振るだけだ。

「あなたにすら何もせず許されたら、誰も俺を罰さないでしょう。詩乃を苦しめていた存在が何の咎めもなく彼女に近づくなんて俺には決して許せません。たとえそれが詩乃の望みだとしても、これだけは叶えられません。……我儘です。ごめんなさい」

「駄目だって。君が指輪を外したと知ったら詩乃ちゃんはもっと悲しむよ」

「知ってます。知っているんです」

 分かりきっていたことだが、つくづく難儀な子だと音成は思う。誓いの指輪は目に見える愛の証明であり、受け取ったら今度こそ久世時夜という人間の大部分が抉られる。そんなことは本人が重々承知しているだろうに、差し出してしまえるほど彼は罰を望んでいる。

 それなら、と思った。そこまで言うなら、大人としての責務を全うしてあげよう。

「じゃあ気になってたことがあるから、実験に協力してもらおうかな。一日くらい使う、わりと疲れるやつ。謝礼はなし。詳細は後で連絡するから連絡先を教えて。とりあえず、今日は指輪を持って帰りなさい」

 病院から連絡があったのはその日の夕方だった。電話口での「籠宮詩乃さんの御親戚の方ですか」という問いかけをうっかり否定しそうになったが、なんとか嘘を貫き通し、あたかも親戚面で舞い戻る。詩乃の検査結果はいたって健康で、すぐに帰っていいとのことだった。ボロを出す前にそそくさとアパートに帰り、途中だった夕食の支度を続行し、いつも通りの食卓を作る。ほんの数日前まで在った光景が無性に懐かしく思えた。

「退院おめでとう~! 大事なくて良かった。詩乃ちゃんが無事で良かったよ!」

「迷惑ばかりかけて、本当にごめんなさい」

「良いから良いから。今は食べられるだけ食べて体力を戻して」

「はい。ありがとうございます」

 音成は、黙々と食事する詩乃の横顔を眺めつつ、時夜の来訪を伝えるか考えあぐねていた。ただでさえ疲れているだろうに、不安定にさせそうな情報を教えてもいいものか悩んでいる。他人が時夜の話題に触れただけで不機嫌になる詩乃を、音成は知っていた。

「あの、何かありましたか?」

「へ、え? いや別に? なんで?」

 詩乃はこの日初めて笑って、答えた。

「音成さん、分かりやすいから」

 その通り。本人に自覚がないのが恐ろしくなるくらいには、音成は分かりやすい。先刻、病院に行った時も親戚かどうかを訊ねられてはうろたえて、詩乃の口添えがなければとうに追い出されていた。改めて指摘を受けた音成は、堪忍して全てを伝えた。

「そうですか。時夜は、指輪を……」

「もちろん持って帰らせたよ! それにそれはそれくらい詩乃ちゃんを大切に思っているからで決して蔑ろにしているわけでは絶対になくて」

「知ってますよ。時夜がわたしを大切にしてくれてることは、わたしが一番知ってます。……うん。今度こそ、その気持ちに応えなきゃ」

「詩乃ちゃん、それは」

 音成の心配を察した詩乃が、大丈夫ですよと微笑む。

「実家に帰ります。お父さんとお母さんとちゃんと話をしてきます。本当は家事なんか全然出来ないってことも、火事を起こしかけたことも、朔にしたことも洗いざらい白状して、叱られてきます。わたしの悪事を清算するには、そうするしかありませんから」

「悪事なんて」

「時夜は優しい、善人でした。たとえ音成さんたちにしたことが本性からの行動だったとしても、わたしが居なければ一生表には出なかったはずの一面なんです。わたしが時夜を追い詰めたから、音成さんたちが傷ついた。これは、特性とか環境とかのせいにしちゃいけない、わたしの罪なんです」

 目に宿る光は強い。

「時夜が自分を罪人だと思うなら、責任を取るべきなのはわたしです。きっと時夜は一連の出来事を隠しませんし、わたしの名前も出さないでしょう。そうしたら、悪いのは全部時夜ってことになってしまう。そんなの許されません。誰が良いと言っても、わたしは嫌です」

「……ホント、お似合いだよね。仕方ないんだからなあ。でも本当に大丈夫?」

「人の厚意に甘え続けてはいけないんだと、やっと目が覚めましたから。もう見ない振りはしません」

 声こそ勇ましいが、目の前の詩乃はやはり吹けば飛ぶような心もとなさで、黙っててもいいんじゃないかとつい口を挟みたくなってしまう。助け舟を出したくなってしまう。彼女を傷つける現実の全てから遠ざけ、幸せな夢を見せ続けようとした時夜の想いが痛いほどに分かった。今ここで庇えば、大切な人はこれ以上傷つかなくて済むのだという誘惑の甘露は、当事者にしか分からない美味をしている。

 だけど、音成は願った。自分は普通なのだという夢を見るのではなく、特性を持っている現実をそのまま好きになってほしい。詩乃が幸せになれる場所は現実の世界に在ってほしい。詩乃が偽らず、時夜が無理をせず、朔が自分を責めずに生きていられる、現実と地続きのどこか。人の夢を否定したくせにと思いながらも音成は、そんな未知に夢を見る。だからどんなに甘くても、誘惑には乗らない。

「頑張ってね」

「はい。そうだ、時夜と会うなら出来れば曇りか雨の日にしてくださいね。彼は日光に弱いので」

「会っても良いんだ。嫌じゃないの?」

「音成さんなら平気です。わたしの友達、ですから」


「とまあこういうことがあって」

「俺のところから回想する意味ありましたか?」

「なかったかな」

 冗談めかして言った音成につられてか、時夜が薄く笑みを浮かべた。悲痛な作り笑いとは明らかに違う、ごく自然な笑み。口元に添えられた左手の薬指には、静かに輝く指輪がひとつ。今の時夜は音成にとっての安心材料で成っている。

「とにかく、もう一回やるよ。位置について」

 号令は、少し間抜けな着信音に遮られた。「萩原さん」から、一枚の画像。

「そういえば名前戻してなかったか。……ねえ時夜くん、見て見て!」

 差し出したスマートフォンには写真が一枚表示されている。映っているのは時夜にも馴染み深い、山味町にある籠宮邸の庭。そしてバーベキューグリルの向こう側に籠宮夫妻、一番手前には撮影役である朔の、その近くには詩乃の、この上なく晴れやかな笑顔。正真正銘の幸せな籠宮一家を収めた写真だった。

 時夜はほぼ無意識に詩乃を拡大していた。この行為の意図を察するのはあまりにも容易い。案の定、紙皿を持つ詩乃の左手に銀色の光が掛かっているのを確認して、ほっと息を吐いた。音成は呆れ半分、面白半分に言う。

「だから言ったでしょ。詩乃ちゃんはずっと君のことが好きなんだって」

 時夜は反論するでもなく顔を赤らめてそっぽを向いた。ここまで来てようやく見れた子供らしい仕草だった。こんな面も彼にはちゃんとあったのだ。

 写真に続けて朔からメッセージが届く。

「自分で言うのもあれですけど、良い写真でしょう。音成さんに真っ先に見てもらいたくて送りました。本当は兄さんにも見てほしいのですが、連絡先が分からなくて」

「連絡先なら知ってるよー。何なら当の本人がここに居るし、電話するね」

「え、ちょっと!」

 全く同じ台詞の、朔からの返事と時夜の反応を受け流し、音成は問答無用で通話開始アイコンをタップした。スマートフォンを時夜に押し付け、五歩ほど離れる。

「ふふふ。頑張れ」

 時夜は愉快犯そのものの音成を少し睨んで、それから会釈をして、端末を耳に当てた。

 過ぎ去ったことは事実として刻まれる。あの夜と、そこに辿り着くまでにそれぞれが犯した間違いは残り続ける。詩乃も時夜も朔も音成も、悔いを抱えたまま、これからも生きていかなければならない。

 それでも、悪いことばかりではない。

 神妙な表情が次第に綻んでいく変遷を見ていると、そんな気がしてならないのだ。



みちにゆめみる〈完〉

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