9 夜の片隅

「書類は持った? 携帯と、定期もある?」

「へいき」


 あれは持ったかこれはあるかと、もう何度されたか分からない質問に楓は投げやりに答える。

 正直いまはそれどころではないのだ。楓は昨日からろくに寝れておらず、心臓はずっとぎゅうと縮こまったように緊張を訴えていた。

 なぜかって、楓はこれから東京に行くのである。


「気をつけてね」


 靴を履く楓に、言いながら母はチラリと窓の外を見た。

 外は夜。月が高くなるころ。リビングから漏れ聞こえる母がつけっぱなしにしたテレビは、二十時からの番組が始まったようだった。


 ザンとの邂逅からしばらくが経つ。あれから不思議なことはいくつかあった。それは例えば学校での進路面談に楓だけ呼ばれなかったり、誰もそのことを不思議に思わなかったり。

 楓が居れば普通に話すが、居なくても不審がられることはない。周囲からの認識が変わっていくのを、いや、どちらかといえば存在が薄れていくのを。楓はこの数ヶ月間、肌で感じてきた。

 きっと楓の両親も同じだったのだろう。母に言おうかとも迷ったが、なんと説明したら良いか分からずにやめた。なんとなく、やめておこうと思った。


 あと、変わったことは。

 キュルキュルと楓の肩の上で鳴くナニカが、心なしか外出を喜ぶように蠢いた。


「外、夜だし寒いからね」

「うん」

「カイロちゃんと使ってね」

「うん」

「乗り換え、分からなかったら駅員さんに聞くのよ。困ったら母さんも電話出れるからね。あと、新幹線の切符は二枚とも改札に入れて、それから、」


 うん、うん、と適当に相槌を打つ楓に、母はまだ心配げな顔をしていた。

 気持ちは分からなくもないが、楓は母が思うほど不安ではなく、また孤独でもないと思っていた。なぜかって、気がついたら楓には新しいペットが出来ていたからである。

 肩に乗ったナニカは、とうとう今日まで母には見えなかったらしい。スライムみたいな粘液状の体を震わせて、顔もないそれは珍しく興奮しているようだった。


 それが現れたのは、ザンから手紙を、もとい入学式の案内を受け取って数日したころだった。

 はじめは本当に手のひらに乗るくらいの、半透明な灰色の球体だった。それが意思を持って動くと知ったとき、楓は恐怖のままに本で潰したりもしたのだが、液体のように薄く広がったそれが本の底から這い出るだけで意味はなかった。

 それは楓の周囲をうろつき、付きまとった。母や友人たちには見えないものだと知ったときから、それならいいかと、楓にも愛着が湧き始めた。

 楓が可愛がれば可愛がるほどそれは成長し、気がつけば体のどこからか、ツノが2本そろって生え始めた。ことあるごと、なんとなしに撫でていれば、それもみるみる大きくなる。

 そうしていま、楓の肩にのる謎のナニカは、キュルキュルと鳴き声をあげるツノ付きスライムに成長したのだ。


「じゃあ、母さん。行ってきます」


 バレないようスッと肩を一撫でして、楓はおもむろに立ち上がった。

 肩掛けのスポーツバッグを持ち上げ母に向き直る。母は一瞬、堪えるようにギュウと眉を寄せて、それからいつも通りの笑顔になった。


「いってらっしゃい」

「うん」


 軽く手を上げ楓は足を踏み出した。この数ヶ月で母とは何度も話をした。十分すぎるほど色んなことを話して、お互いに別れはもう済んでいた。

 玄関の扉が、楓の背後であっけなく閉まる。中からガチャリと鍵を閉めた音が聞こえ、楓はやはり振り返らずにアパートの慣れた階段を降りていった。


「東京か〜、東京だよ……」


 肩の上、耳の側で、キュルゥと鳴く声がする。なんとなしに顔を上げ、すっかり暗い闇夜を見渡した。

 心臓が少しだけ早く動いている。ほんの数ヶ月前まで楓はあの世界に対して、二度と行くかとまで思っていたはずなのに。人間とは現金なものだ。いまの楓にあるのは夜の一人旅行に対する興奮と少しの緊張、そして。


「はああぁー、東京……!!」


 大都会への壮大な憧れくらいであった。





 新幹線の切符が吸い込まれると、楓はドキドキしながら改札を通った。

 来てしまった。後戻り出来ないところまで。予定の新幹線まではまだ三十分も早いのに、楓はホームへ続く階段を上りながら、意味もなく視線だけで周囲をうかがった。


「意外とひと、多いな……」


 ボソッと語りかけるように言うと、キュル、という返事が返ってくる。

 楓が乗る予定の新幹線は東京行きの最終便だ。楓は先ほど改札を通したばかりの切符を見て、そこに書いてある座席番号を確認した。

 切符はザンから貰った手紙に入っていたものだ。楓が新幹線に乗るのは、もう記憶もほとんど無い幼い頃に数度だけ母と乗った以来である。

 なんだかソワソワしてしまって、楓は早いうちから並んでしまおうと切符に書かれた号車の位置に移動した。


 と。そこに近づいて、楓は何やら不審な少年を見る。

 ちょうど楓が並ぼうとしていた場所。その先頭位置にポツリと立つ彼は、周囲から異様に浮き立っていた。

 それは彼が、夜逃げのごとく中身のぎゅうぎゅう詰まった風呂敷を首に巻いて持っていたとか。高そうな着物を着た、なんとも良いとこのお坊っちゃんの雰囲気があるとか。まあそういう出で立ちの問題もあったが、それ以上に。


「ふ、ふふふ……! やった、やったぞ、僕は遂にやったんだ……!! あの腐った家から抜け出して、今日から! 僕の新しい人生が始まるってワケだね……!! きっと色んな楽しいことが、夢にまで見た友達も……ああ、素晴らしい、あああぁ! 僕を新天地へ運んでくれる列車よ、はやく……!!」


 恍惚とした顔で地面に膝をつき、天に祈りでも捧げているような構図は、控えめに言って異常者であった。

 楓はそっと後ずさる。まだ並ばなくても良いかな、うん。ずいぶん時間まであるし。早すぎるのもね。どうせ指定席なんだから、ギリギリに来て並んでもいいんじゃないかな?

 色々言い訳を並べながら、楓は改札口に戻ってもう少し暇をつぶしてようと思った。この世には関わってはいけない人間がいるのである。彼の存在は、楓の浮き立つ気持ちを現実に引き戻すほど強烈だった。


 キュルキュルゥ。耳元からの鳴き声を、楓は同意の声だと都合よく受け取る。そして踵を返そうとそのとき。

 不意に着物の彼が、こちらへ視線を向けた。


「え」


 驚きが漏れてしまい、楓は慌ててキュッと口を引き結ぶ。

 あんなに喋っていた彼は、興味津々というようなキラキラした眼差しで、その眼鏡の奥からこちらをジィと見続けている。今まで彼の存在を黙認していた周囲の人々が、何があったのかうかがうように楓をチラリと見た。

 一体なんだ。なんなんだ。楓は、なんだか嫌な汗を体中から噴き出しながら、肩に背負っていたスポーツバッグをぎこちなく背負い直した。


 そのタイミングで。肩の上で鳴ったキュルという声と、何かが滑り落ちそうな感覚がして、楓は咄嗟に反対の手でソレを受け止める。

 肩から落ちるすんでのところ、手のひらが包んだ感触に楓はホッとする。キュルキュル元気な鳴き声が聞こえたので手を離すと、楓はなにやら近づいてくる人間に気がついた。

 視線を上げてサーッと顔から血の気が引く。なぜか、着物の少年が爛々とした顔つきで、すぐ側まで駆け寄ってきていたのだ。


「君!!!」

「ひえ!!?」


 顔をズイッと寄せられて、避ける間もなく、楓は情けない悲鳴をあげた。

 周囲からまたチラッとこちらをうかがう視線を感じたが、それだけに終わる。周りはみな不自然なまでに手元の携帯画面を眺めて、自分はまったくの無関係ですよというオーラを放ちながら点々とそこらに立ちすくんでいた。

 人間とは無情な生き物である。そちら側にいれば同じことをしただろう自分を棚に上げ、楓はどうしようもない気分になった。


「それ、その子は君の子かい!? すごいね、キュルキュル言ってたろう!!? しかも動いてた! 初めて見たよ、そんな生物は! やっぱり外はすごい!! もっとよく見てもいいかな!!?」


 混じり気のない、真っ直ぐで純粋な子どもが持っている瞳を向けられて、楓はその勢いと眼力に思わずのけ反った。

 なんだコイツは。いきなりやってきて、いきなり話しかけて、いきなり。そこまで考えて、楓はようやく内容に気が回り、えっ、と思った。


「み、えてます……?」


 肩の、これ。楓がそう言うと、目の前の少年はキョトンと眼を瞬かせた。

 そして数秒の沈黙。少年はなにか考える間をとった後、どこか緊張したような、興奮が抑えられないような声音でコソリと聞いた。


「あの、もしかしてその子、妖怪、とかだったり。するのかな……なんて……」


 少年は言葉を紡ぐにつれて、誤魔化すみたいにハハと笑った。まるで馬鹿馬鹿しいことを口にするふうな態度で、しかし期待を隠しきれないふうな態度で。

 楓は唾を飲み込んだ。実際問題、楓の肩に乗ったこのナニカが妖怪かなんて分からない。

 分からないけれど、今までこの不思議なナニカは楓にしか見えていなかったのだ。それが見えるなんて、もしかして。

 楓は少年よりもよっぽど潜めた声で、恐る恐ると口を開いた。


「あの、もしかして、あの。これから、……学校行く予定とか、ありますか」


 彼は楓の言葉を聞き目を見開いた。

 他人が聞いたら意味の分からない質問である。が、楓は半ば確信を持って、しかし心臓をバックンバックン鳴らしながら少年の答えを待った。

 少年が何か言おうとして、バッと顔を下げた。そしてまたすぐに上げ、かと思えばまた下げる。その間になにか言ったような気がして、次の瞬間。彼が勢いよく頭を下げて楓は「ひぃ!?」と叫んだ。


「ぼ、僕と」


 楓の眼前には、手を差し出しながら直角にお辞儀する少年が一人。

 二十一時、新幹線のホーム。奇妙な沈黙が、二人の少年を中心に流れていた。


「僕と親友を前提に友達になってください!!!!」

「はい?」


 一息で叫ばれた内容。

 聞き返した楓は悪くない。多分、悪くない、はずである。

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