黒瀬楓の陰陽道

相川セイ

第1部 新入生

1 はじまり

 電車は一五分にひとつ。バスは三〇分にふたつ。クラスメイトは三〇ちょっとで、同級生は一〇〇あまり。田舎と言うほど田舎じゃなくて、都会と言うほど都会じゃない。

 そこそこ楽しい毎日だけど、一度くらいは東京で遊び回りたいというのが斎藤楓さいとうかえでの小さな野望だった。


 渋谷で服を買ってみたいし、有名なラーメン屋にも行きたいし、それからデカい遊園地で一日中遊び倒したい。出来れば恋人とかと一緒に。

 中学三年生、夏。受験を控えた絶賛思春期。数学の問題集より週刊誌の巻頭グラビアが気になるお年頃。だから自分の通学鞄に人知れず入っていた白封筒を見て、まさか、まさかなのか!? と期待に胸を膨らませてしまうのも当然であった。


「うわ、うわあ……!」


 楓は学校でこの封筒の存在に気がついてからずっと落ち着かなかった。

 だって昨日は無かったのだ。ということは誰かが今日入れたのである。誰が? 分からない。分からないが、楓の中でこれが何なのかということについては、すっかり答えが決まっていた。

 自分の部屋に飛び込んで扉に背をつけ、立ったまま何度も封筒を裏返す。

 外側は名前も何も書いていない手紙封筒。心なしかいい匂いがする。線香をお洒落にしたようなソレを恐る恐る嗅いでみて、にまにまと口角が上がっていくのを止められない。


「ら、ラブレター……」


 間違いない。ラブレターである。そうでなければ、どうしてこんな手の込んだ手紙を密かに渡すのか。


「よ、よし、開ける! 開けるぞ……」


 一体送り主は誰だろうか。いや、この際誰でも良い。この手紙をくれた時点で楓の好感度はマックスなのだ。

 心臓は高鳴って、脳内で流れる音楽はさながら青春映画のオープニング気取りである。

 何の因果か今日は楓の十五歳の誕生日でもあった。知ってて今日なら素晴らしい誕生日プレゼントだし、偶然ならばむしろ運命だ。

 思いながら楓は満面の笑みで中身を取り出し、急いて開いた紙にある文面を見て理解が追いつくはずもなかった。


「…………は?」



 まず目に入った言葉は、縦書きの毛筆で『入学許可証』と。続く文字列は『黒瀬くろせ楓殿』。

 楓はパチパチと瞬きをする。ペラと紙を裏返し、何も書かれていないことを確認して、もう一度表の文章を確かめた。


『貴殿に宿りし陰陽術おんみょうじゅつの素質は、古より伝わる選別の水鏡みずかがみによって正式に認定された。これをもって、本校は貴殿を歓迎する。──本楼ほんろう陰陽術学校』


 先ほどまでの陽気な気分は消え失せて、楓がそれを読み終えたとき何より感じたのは薄気味悪さだった。

 直感的に、あるいは第六感的に。今になって気づく紙の古び具合とか、やけに鼻に残るお香の匂いとか、妙に達筆な毛筆の生々しい掠れ具合とか。

 思い始めればそれら全てになにか言い知れぬ悪寒がして、それから楓はハッと気づいたように声を出した。


「な、なんだよ! ラブレターじゃないし、いたずらかよぉ」


 気持ち悪い。そう感じたが言葉にしてはもっと嫌になると思って言わなかった。 楓はヤな感じだと顔をしかめながら、手に持った手紙を意味もなく何回も折りたたむ。だって、そもそも名前が違う。楓の苗字は斎藤で、黒瀬楓などという名前では決してないのだ。

 くろせ、と楓は呟いた。視線を伏せてから「いやいや……」と自分の声を振り払うみたいに頭を振る。楓は勢いのままに紙を握りつぶしゴミ箱に封筒ごと投げ捨てていた。


 黒瀬という苗字は楓にとって聞き覚えのあるものだった。

 楓の母は独り身で、それは楓が物心ついた頃からそうだった。それに不自由を覚えたことはない。ただごく普通のありふれた家族として、楓は母と暮らしている。

 父について母は何一つとして話さなかった。聞けば教えてくれるのかもしれないが、特段気になることもなかった。

 楓の知っている事といえば、父はどうやら生きてはいないこと。細かくも覚えていない、いつかの夜半過ぎに母が声を忍ばせて泣いていたことだけだった。

 ただ、聞けはしなくとも、母の泣いていた理由が知りたかった。その頃はまだ小学生だった楓の意地だった。

 母は泣きながら片手に写真を持っていた。後からこっそり部屋に忍び込めば、それは随分昔の母と同年代の男女が三人で写っているのだと分かった。

 名前が入った、今も変わらない地元中学のジャージ。母のものには斎藤、その隣にいる少女は吉田。そしてその隣の少年に、黒瀬という刺繍がしてあった。

 忘れたことなどない。なぜなら、その黒瀬という少年は自分とそっくりだったからだ。


「かえでぇ? 帰ってるの?」

「っ……!」


 部屋の外から聞こえた声で、楓は現実に戻ってきた。

 そういえば何も言わずにドタドタと部屋に駆け込んだから、母は不審に思っているかもしれない。

 廊下を歩く足音が近づいてくるので、楓は慌てて「か、帰ってるよ!!」と無駄に声を張り上げた。


「なんだ居んのね」

「うい」

「お弁当箱は?」

「あ、あー、いま出す」

「あと洗濯もん」

「ちょ待ってて、いま着替えるから」

「ジャージも」

「いま渡すから待ってってば!」


 もう、という母の呆れた笑い声がドアの向こうから聞こえた。楓は無性にムッとして勢いよくドアを開ける。


「わっ、ちょっと、危ない」

「……これ、弁当。あとジャージ」

「はいはい。シャツは?」

「着替えたら出す」

「忘れないでよ」


 忘れねーし。そう言おうと思ったがやめて、「ん!」とだけ吐き捨てドアをぴしゃりと閉め切った。

 向こう側から母がまた何か小言を言った気がしたが、楓は聞こえない振りをしてベッドに倒れ込む。


 まったく、冴えない誕生日だ。そう、今日は誕生日なのに。

 ラブレターは嫌がらせだし。嫌なことを思い出すし。母は自分の気持ちを分かってくれないし。

 八つ当たり混じりの気持ちをため息にして、楓は顔をうずめた枕に吐き出した。


「楓、冷蔵庫にケーキあるからね」


 楓は枕に沈みながら母の優しい声を聞いた。続けて、母さんこれから夜勤で、と申し訳なさそうな言葉。

 知っている。 母の働く介護施設は人が足りていないこと。休みを取ろうとしても出来ないこと。特に夜勤は持ち回りで、代わりを頼みづらいこと。

 いつも疲れていること。給与明細を見て悩んでいること。新聞配達をしたいと言った中一の楓を困った顔で宥めたこと。そんなどうしようもないことで、楓に罪悪感を感じていること。

 毎年、楓の誕生日には小さいホールケーキを買ってくれること。それが幼い頃の楓のわがままから始まったものだということ。

 全部知っている。だって楓は母の息子なのだから。母が楓を見ている間、楓も母を見ていた。楓は母のことならなんでも分かるのだ。


 部屋の前から母の気配が消えて、楓はむくりと起きあがる。

 頭を何度か撫でて髪を落ち着かせ、それからムッとした顔のままドアを開けた。

 部屋を出るとそのままダイニングに繋がる。母が出てきた楓を見やって「あら」と驚いた。

 楓はテーブルが置いてある床に座りテレビをつける。普段は見ない時間帯のテレビは、ワイドショーばかりだった。


「楓、母さんもう行くからね」

「……おー」


 玄関に向かう母に楓が立ち上がってついていけば、母はまた「あらあら」と驚いて動揺したようだった。

 靴を履く母を居心地悪く見つめて、楓はぶっきらぼうに呟いた。


「いってらっしゃい」


 その言葉に母は目を見開いて、すると心底嬉しそうに笑う。目に焼き付くような笑顔だった。


「うん……楓、お誕生日おめでとう」

「あー、うん」

「ごめんね、明日お誕生日会するから」

「いらない。マジで」

「あはは。はいはい、いってきます」

「うい」


 随分と機嫌良さげに出て行く母を見て、楓はなんともむず痒い気持ちになった。 まあ、親孝行。そんな誕生日は悪くない。楓は母のことならなんでも分かるので、母が一番喜ぶことがこんなに小さな事だというのも知っていた。

 楓は一人ダイニングに戻って、隅に置いてある冷蔵庫を中腰で開ける。

 中には二人分には少し多いホールのチョコケーキとラップのかかったハンバーグ。それに「ハッピーバースデー!」と書かれた黄色い付箋がついていた。


「うまそう」


 呟いて、しかしまだ夕飯には早いと楓は冷蔵庫の蓋を閉じた。

 なんだか気分もすっかり戻ってきた。そうだ、今日はせっかくの十五歳の誕生日なのだから、落ち込んでいてはもったいない。

 楓はラブレターもとい嫌がらせの手紙のことなど忘れてしまおうと思った。

 そもそもあれは楓宛てではない。どこかの黒瀬さんとやらに宛てられた手紙なのだからと。


 母から語られないかぎり、楓は自分の父親について探るようなことはしたくなかった。

 泣いている母をもう二度と見たくない。そんな言い方をすれば聞こえは良いかもしれないが、それはどちらかといえば利己的な感情であった。

 母親の泣き顔など、もし正面から向かい合う日があれば、気まずくって堪らないだろうと楓は想像する。

 泣いてほしくないなどと殊勝な言い分ではなかった。楓はただ、自分の知らない母は知らないままでいたいと思っていた。


 歩きながら伸びを一つして、どかりとテレビの前に座り込む。

 画面には相変わらず面白味のないワイドショーが映っていて、楓はそれをぼうっと眺めた。

 どうでも良いことは、どうでも良いことで押し流す。明日にはすっかり忘れているはずだ。

 そうだ、明日は母が誕生日会をすると言っていた。まったく楓をいくつだと思っているのだろうか。

 楓はそんなことをぽつぽつ考えながら夜まで時間をつぶした。


 母の作ったハンバーグを温めて、食べ終わったらケーキを半分。それから風呂に入り、スマホをいじって、いつもより早めに就寝した。

 そこそこ充実した心持ちで、悪くない誕生日だと思った。

 翌朝、目を覚ました楓はそれらすべてが吹き飛ぶくらいの寒心を覚える。


 自室の机の上、見覚えのある封筒がシワ一つないまっさらな状態で鎮座しているのを見て。

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