8 無愛想な男

 楓は問題ごとを後回しにする癖がある。

 だから、楓の住むアパート、『斎藤』の表札がある玄関の前でスーツの男が腕を組んでいるのを見て、楓は一旦見なかったことにしようと踵を返すつもりだった。


「斎藤楓」


 不機嫌そうな、低く重苦しい声が楓の名を呼んだ。

 思わず足を止める。聞かなかったことにしたい。聞こえなかったことにしたい。

 かといってすぐさま立ち去る度胸もない楓は、地面を見ながらその場に立ちすくんで、躊躇なく歩み寄る男の足を見ていた。

 裾までキッチリ折り目のついたスーツと、それとはあまりにも不釣り合いな、履き潰されたぺちゃんこのサンダル。

 ザリ、と擦れる音がして足が目の前で止まると、楓は真っ青な顔でこわごわ視線をあげた。


 男の黒髪はボサボサで、長い前髪が顔の大半を隠していた。

 いくつもつけられたシルバーピアスが蛍光灯に反射して光る。無造作な髪の毛から覗く人間離れした赤眼と目が合った瞬間、楓は頭が真っ白になった。


 ゴキュリ。思わず飲み込んだ唾の音が大きく響いて、楓は自分で肩をビクつかせた。

 合った視線を逸らす方がなんだか恐ろしく感じて、しかしこの瞬き一つしない目つきの悪い男を見続けることも、楓にはまた途方もなく恐ろしかった。


 男が楓の顔を凝視しながら僅かに眉を寄せていくので、反射的に通学鞄の持ち手を強く握り込む。

 やっぱりさっきに逃げるべきだったのだ。楓は心臓が落ちていくようなヒュンとする感覚を耐えながら、声も出せないくせに、ただあぐあぐと小さく口を開閉させていた。


「……あー、陰陽術学校の」


 男が唐突に口を開いて、楓の心臓がバックン! と大きく動く。やっぱりそうか、やっぱりアレか。予想通りといえばそうな言葉が出てきて、楓はこの場で頭を抱えそうになってしまった。

 「はい」となんとか相槌を打った声は、あからさまに固かった。あ、どうしよ。楓の声音にまた黙り込んだ男の反応が、楓を酷く動揺させていた。

 手のひらにギュッと爪が食い込んで痛い。本当に何もかもを考えられなくなってしまって、沈黙が痛いほど耳に浸みこんだ。


 どのくらいだったか、しばらくすると男が焦れたように「ッチ、」と舌打ちする。楓はそれにも死ぬほどビビったが、なにか反応を返すより先に男が話を続けようとしていた。


「あぁー……えぇーっと。なんだっけ、陰陽術学校のさぁ……ザン。俺、ザンね。そんでぇ、後は……んだっけ」


 ガリガリと頭を引っ掻いて、やはり機嫌悪そうにする彼の言葉は要領を得なくて分かりづらかった。

 だがとにかく、このザンというらしい男は楓に向かって、幾分か棘のとれた気まずげな声でこう聞いたのだ。


「お前のさぁ、ホゴシャ。家のヒト。いる?」





 家の前にいた不審者と、カラオケにいる。

 どうしてこうなった。楓はカラオケ機から流れる陽気なインタビューを横目に、膝に置いた鞄を居心地悪く抱えた。

 ドリンクを届けに来た店員は、制服の少年とスーツの男という組み合わせに怪しげな顔をして、しかしそそくさと出ていった。

 楓は飲みたくもないのに頼んだウーロン茶を死にそうな顔で眺める。この状況でグラスに手を伸ばす気にはなれなかった。


 保護者がどうとか言われたので、母は仕事だと答えたのがこの結果だ。

 いや、正確には、母を待つと家にまで上がり込もうとされたのを必死で止めた結果であるかもしれない。彼曰く「ジャお前だけでもいーわぁ」らしいが、楓は心底、良くない! と思った。


「あー、内容がさぁ、個室がよくってさぁ。そんだけよ。んなビクビクすんなって」「ぁ、いえ、全然……ハハ……」


 ザンに面倒げな声で説明されるが、別に楓は個室だから怯えている訳ではない。いやまあ、理由の一つにはなるかもしれないが、少なくともそれが原因ではなく、若干ズレた気遣いに楓は適当な相槌を打った。

 無愛想な男、ザンは常に不機嫌そうに見えるが、一応は楓の様子を気にしているようだった。


 彼は粗放な動きでグラスを手に取ると、口元に持っていく。が、それを傾けすぎて、スーツにお茶がびちゃびちゃと溢れた。

 楓がギョッとして、ザンは自分の体を見下ろし「ッチ」と舌打った。


「……まぁいいか」

「あっ、ハイ…………」


 絶対良くない。唯一綺麗だったスーツとシャツまで汚れたら、この男、いよいよ見た目が不審者になるだろうと楓は思った。

 ザンは濡れたままの服を本当に気にも留めず、それよりさぁ、とおもむろにスーツの内ポケットをまさぐる。

 出てきたのは三つ折りの紙で、彼はそれを開きもしないまま楓に押しつけた。


「それ、お前に書かせる……あぁー、これもだ。これと。多分これも」

「え? ちょ、えっと」


 ポイポイと出てくる紙を次から次に全て持たされて、楓はなされるがまま、両手にそれらを受け取った。

 どうしようもなかったが置くのも迷って、結局持ったままそのうち一つをぎこちない動作で開く。

 中には見たことのある体裁で、具体的に言えばあの『入学願』とそっくりな様相で、なにやら契約の同意書をあらわしていた。

 楓が眉を寄せそうになりながらそれを眺めていると、横からヌッと割り込んだ指が、紙の下部をトントンと示した。


「ここ名前書いて。命名みことなで」

「みことな」

「ハァ? あー、そっかお前、ハアァーーそっから、ッチ、くそ面倒いなぁ……」


 理不尽だ。

 そう思いながら楓は体を縮こませた。当然声には出せない。楓は小心者である。

 苛立ちげに頭を引っ掻くザンの隣で「すいぁせん……」とモニョモニョ申し訳程度の謝罪をしておいた。聞いているのかは分からない。ただ、ザンはもう一度ハアァーと大きなため息をついていた。


「あー、とにかくさぁ……普通の。そう、普通の名前な。普通にお前の名前を、ココに書けっつってんの」

「あっ、ッス、ハイ、わかりました書きます」

「ハ? ちゃんと読めや。読んでから書くんだよ。騙されたらどうすんだ」

「あっハイ、わかりました読みます」


 理不尽な正論をぶつけられて、楓はもはや同じ言葉を繰り返すマシンになる。

 なんでこんな目に遭っているんだ。思いながら、楓は言われたとおり書かれている内容に目を通した。


 まとめると、つまり。

 楓の『命名みことな』とやらを陰陽術学校で保管すること。

学長及び担任、副担任に限りそれが開示されること。そして緊急時にはそれを用いる可能性があること。

 そんなようなことが項目ごとに分けられて書かれている、ようであった。


 つまりどういう意味? 楓は思った。

 何が何やら、一から十まで楓にはさっぱりである。しかしそんなことを言える空気ではない。

 念のため隣の男を盗み見てから、楓は質問するという選択肢を即座に消した。

 なんかめっちゃお茶溢してる人いる。さっきもやってたのに。グラスの半分以上スーツに吸われてるだろ、それ。もうびちゃびちゃである。楓は見なかったことにした。

 とにかく分からないけど、しっかり読んでいるフリはしておこう。そう思って、楓はそれっぽい顔をつくることに尽力した。


 本当は。裏街から帰ってきた後、ずっと、楓は今からでも入学を取り消せないか考えていた。

 出来るはずだ。うん、きっとそう。キャンセルがきかないなんて、そんな理不尽はないだろう。

 次にはきっと入学を取り止めてもらおうと、次に会う学校関係者にはハッキリそう言おうと。今の今まで、そう考えていたのである。


 しかし無理である。いざその場になると言える気がミリ程もしない。というかザン相手には絶対に無理だ。裏街も怖かったけど、目先のザンの方が怖い。

 要するに楓はチキったのである。それでこれから先の人生が変わろうと、無理なものは無理。今の楓にはひっくり返っても無理。つまりは無理なのだ。

 楓は問題ごと、もとい嫌なことを後回しにする癖がある。未来の自分がなんとかしてくれることを願い、楓はこの場を穏便に進めることを優先した。


「あの、」

「あ?」

「え、っと、これ、ボールペンで平気ですか」

「あぁー……へぇき……平気だろ。平気だわ」


 ザンはこちらを見向きもせずに言い放つ。彼は、お茶のグラスを逆さにしながら、もう無いのかとでもいうふうに覗いていた。

 なんだよとも思ったが、怖くて何も言えない。意趣返しに、楓はザンが見ていないところで少し不満げな表情をしてみた。


 気を取り直そう。とにかく言質はとったのでと楓は鞄の中からペンを出し、ついでに適当なノートを取って紙の下敷きにする。

 楓が飲まずにいたグラスの結露は随分したって、机はびしょ濡れだった。

 ノートの上で書く文字は歪んでいたが、濡れるよりはマシなはずである。きっと。

 楓はなるべく丁寧な字で、全ての紙に『斎藤楓』の署名をした。


「書けたか?」


 書き終わって声をかけるより先に、紙を横から抜き取られる。楓は面食らって反射的に体を引いた。

 めちゃくちゃ驚いた。楓は胸に手を当てて心音を抑える。隣の男は何食わぬ顔でサインのチェックをしているようで、楓は、コイツ嫌いだ! と思った。


 楓の名前が書かれた紙は問題なかったらしく、ザンは元どおりの三つ折りに折り直す。

 そういえば、コレも名前を書いたら発火するのではないかと身構えていたが、そんなことはなかった。

 心配が無駄に終わって良かったと言うべきか。とにかく楓は、これで家に帰れるのかと少し安堵した。


「んじゃあ、これ預かるわぁ。……っクシ。ここサミィな……」

「あ、ハイ……」


 部屋が寒いのではなく、お前が濡れているから寒いのである。楓は思ったが言わなかった。

 ザンは紙を元あった場所、つまり濡れたスーツの内ポケットに戻す。

 楓が濡らさないようにと気づかったのは何だったのだろうか。なんだかすごく微妙な心持ちである。


「ん。ここの代金」

「あ、ありが、っいや一万円もしないです」

「ッチ」

「えっ、あっいや、その」

「あとコレ渡すんだわ」

「はい?」


 楓が押しつけられた一万円札を手に右往左往していると、ザンは思い出したような仕草で空中を二度ノックした。

 コンコン、と。空中であるはずなのに、なにか固いものが存在する音がする。

 ザンの赤い目が僅かに光って、気がついた次の瞬間には、彼は人差し指と中指で一通の手紙を挟んでいた。


「おらよ」

「うわ!? っと……」


 ザンが手裏剣の要領で手紙を放り投げる。楓は手に万札があることも忘れ、慌てて両手を突き出し、ビタン!! と勢いよく手のひらで挟み込んだ。

 楓が呆然としている間に、ザンは悠々と立ち上がってドアまで歩く。扉を開ける彼が部屋を出ていくのを目で追って、最後の最後に楓は振り返ったザンの顔を見た。


「ジャ次は東京で」


 カラオケルームのドアは音を立てることもなく、ザンの足音が消えるくらいに、ゆっくり閉まっていく。

 カラオケ機だけが陽気に話し続ける室内で、楓は一万円札と突然現れた手紙を手に、一人。叫び声をあげた。


「と、東京!!?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る