8.5 担任教師の胃痛
作業部屋の扉がバキッ! と音を立てて勢いよく開いた。
いや、バキ? 扉が出して良い音ではなくないか? 男は何事かと思い、作業中の机から怪訝な表情で顔を上げる。
「うぅーッス」
すると目に入ったのは、なぜか壊れている扉横の壁をバックに、ドアノブを単体で持ち歩く気怠げな部下の姿だった。
「お、おま…………っザン!!! おまえ、な、ハァ!!?」
「ウッセ。なんすかぁ、わざわざ報告にきたんスけど」
「ドア!! ドアノブ!!!」
「はぁ……?」
ザンは首を傾げると、本当に分からなそうな様子で手に持ったノブをくるくる回す。
事務になんと言えばいいのだ。つい三日前にザンが壊した階段の修理費のことで、今朝だって男はさんざん詰められたばかりだというのに。
胃にキリッとした痛みが走る。ウッと顔をしかめ、腹に当てた手で気休めにさすっておいた。
何故。男の記憶では前回まで、部屋に入るときは扉を開けていたはずである。いや、そりゃそうだろ。なんでこんな当たり前のことで悩んでるんだ。男は唸った。
「ってかムーさん、鍵閉まってたぁ」
「は? そ、そうだったか? すまん……や、ノックしろ。そういう時は。な、な?」
「うぃーッス」
適当な返事をして、机の前にあるソファにザンは寝転がった。男、もといムーはそれを見て、前途多難だと額を手で押さえる。
ムーは陰陽術学校の教師である。そして、今年の『表』からの入学者をまとめたクラスの担任になる予定でもあった。
彼らは内部生とは扱いが違う。当たり前だ。そもそも『裏』の常識を何も知らないのだから。同じカリキュラムでついていけるはずもない。そのための特別クラス、そしてその担任と副担任が、ムーとザンなのであった。
今年の生徒は三人。ただでさえ多くて、しかも。
「そういえばザン。例の彼は」
ムーが聞くと、ザンは何を言うこともなく、ソファに転がったそのままの体勢で指を振った。
スーツの内ポケットからスルリと紙束が抜け出る。紙は宙を浮かぶと、ムーの頭上で回旋してゆったり降りてきた。
相変わらず、技術だけはピカイチである。ムーは疲れたような息を小さく吐くと、目の前の紙に手を伸ばした。
「……ん? なんか湿ってないか、これ」
内容より先に感じた違和感を口にすれば、ザンは「あぁー……」と呟いて寝ながら足を組む。
「こぼした」
「は? なにを。どこに」
「ウーロン茶。スーツに」
「スーツに……?」
ムーは困惑した。スーツに溢したとは。それも、内ポケットに入れた紙が湿るほど。
確かに良く見ると、中のワイシャツが茶色に変色してる気もしなくもない。なんでだよ。また胃がキリッと鳴いた。
「お前、スーツ買ったばっかなのに……ってか靴はどうしたよ。革靴。サンダルじゃねえか」
「そっちはこの前なくしたぁ」
「なくす……? 靴を……?え、じゃまさかそのカッコで行ったんじゃないよな」
「あぁー……」
質問には沈黙で返される。都合が悪くなるとこれだ。マジか。ムーは頭を抱えた。
最近分かったことだが、ザンはガキである。しかもクソガキである。それも、力があるゆえに誰にも注意されてこなかったタイプのクソガキである。
この世界にはそういうところがあった。どいつもこいつも。ムーは思った。
こいつがひと月ほど前に配属されてからというもの、ムーの仕事量は間違いなく増えた。人手がきたはずなのに。ムーだって、学長に頼まれなければこんな事はしていない。
というか学長も学長だ。こんなヤツを自分一人に押し付けるなんて。ムーは自分は常識人であると自負していた。だからムーは、自分の常識と良心に則って、彼を放っておくことが出来ないのである。
コイツ自身は。ガキではあるが、悪いやつではないのだから、余計に。
「まあいい、いいや、うん。靴は買っとけよ。それだけでいいから。とりあえず靴は買え」
「ハ? めんどい」
「ああぁーーーお前さあ…………!!!」
少し感傷に浸って優しくしようとしたムーの気遣いを跳ね除けるのも、またクソガキである。普通にぶん殴りたい。ムーは思わず台パンしそうになる衝動を、必死に理性で抑え込んだ。
いや、いい。落ち着け。紙が湿ってようとスーツがお茶まみれであろうと靴をなくそうと、仕事が出来ていればいいのだ。良くないが。全然良くないが。いいとしておこう。
ムーは自分に言い聞かせて、やっと手元の紙に意識を戻す。それを開き、ザンがしっかり署名を貰ってきたことを確認。して。
「……ザン、署名は
「あ? んで書いてあるッス」
「黒瀬で貰ってこいって言ったよな!?
「ハァ? 入学願は斎藤だったでしょ」
「そうだけど!!
話しながら思い出して、ムーはまた苦い顔をする。
シロ。彼女が斎藤楓の案内を横取りしたので、ムーはそれも外部案内担当の職員に愚痴られた。
せっかく鏡の前で待っていたのにホバーで逃げられただの、案内での入学説明事項がだの、うんたらかんたら。知らん。俺に言うなとムーは思った。
大体、斎藤楓が黒瀬楓であることは学長とムーしか知らないはずだったのだ。それをなぜシロは。
六色格には独自の情報ルートがある。だから考えても仕方ないのだが、あんなに堂々とシロだとかクロだとか喧伝されては、八つ当たりもしたくなるものだ。
クロのことが噂されている。今はどこだって、黒瀬のことで持ちきりだ。こっちにくれば斎藤楓は、嫌でも自分が黒瀬だと意識するだろう。
命名に重要なのは、実際本人の意識である。自分が何者なのか。その認識が命名を決めるのだ。
「彼は……今は斎藤でも、いずれ黒瀬だと自分のことを認識することになる。
ムーが言うと、ザンは聞いているのかいないのか、すっかり黙り込んだ。
まったく。とにかくこれで、学長に申請が通るのか。後で確認しなくては。また作業を始めようとしたとき、ぽつりと、ザンの呟く声が落ちた。
「アイツさぁ。ソックリ。反吐がでるほど、クロサンにソックリ」
クロさん。それは黒瀬家の前当主のことを指していた。ムーは思わず顔を上げてザンを見たが、いまだ寝転がったままの彼の、その顔をうかがうことは出来なかった。
「シロサンがクロって呼ぶのも、分からなくはねぇよ。マジでぇ……生き返ったんかと思ったわ」
そうか。
クロさんとやらの顔も、新しく入る生徒の顔も知らないムーは、かろうじてそれだけ返した。
とにかく今は出来ることをしよう。生徒の安全を守り、生徒の心を守り、生徒を正しく導くことが教師の仕事である。
ムーはマトモな教師として、三人の生徒と一人のクソガキを面倒見なければいけないのだから、その準備を。
チラリとザンを盗み見て、ソファの側に転がった壊れたドアノブが目に入る。
そっと目を背けた。気のせいじゃなければ、また胃が痛みを主張している。差し当たりムーに必要なのは、どうやら胃薬であるらしかった。
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