7.5 知らなくてもいいこと

 少年を見送った直後に、シロは背後から迫る怒気に気がついてやれやれと振り返った。


「シロ様、ご満足いただけましたか」

「ああ満足だよ? もう、それはそれはね!」


 ニマァとした笑みを浮かべたシロを見るのは、予想通り、鬼のように眉を吊り上げる黒スーツの女性である。

 どうやら今度こそ大目玉が落ちそうだと、シロは肩をすくめて自分の従者である彼女から目を逸らした。


「噂が流れてきましたよ。シロがクロを連れていると。タチの悪い噂ですね? シロ様」

「おや、噂ってのはそんなに早いものだったか。嬉しい誤算だ」

「シロ様……いくらあなたでも、やっていいことと悪いことがございますよ」


 シロは宥めるように「ハセ」と目の前の女性を呼んだ。自分はそうとう彼女を怒らせてしまったらしい。自業自得であることは分かっている。シロは深刻さのカケラもない思考で、いつも通りの笑顔を浮かべた。

 普段のハセならば人の目がある場所でこんな話をすることもない。シロは周囲を盗み見る。自分が常に注目の的であることは分かっていた。もちろん、今この瞬間も。

 野次馬は素知らぬ振りをして二人の会話に聞き耳を立てている。とにかく場所を変えた方が良い。シロは何か言いたげにこちらを睨むハセにひらひら手を振って、なるだけ軽々しく言った。


「話は道すがら聞くよ」


 任務の報告とやらが終わってないからね。どの口が、という表情をハセがして、実際シロも、どの口がと思った。彼の、黒瀬の少年を案内するためにシロがすっぽかしたのだ。

 だがまあ、報告が必要なのは事実であり、シロの意見にハセは反論しなかった。彼女にも少し理性が戻ったのか、ここでシロを問い詰めるのは悪手だと気がついたのかもしれない。

 とにかく、鏡へと歩みを向けたシロの後ろを、ハセは黙ってついてきた。

 前に立って、水鏡に手をかざす。それから術式を。公開目録オープンレコードは手間が少ないが、シロには自分で術式を組む方が性に合っていた。

 それにあの目録は、いや。今はいいかと彼女は意識して思考を止めた。


「呼び出し。自己術式マイノート、二十七番。一丁目の本部まで」


 奥から水妖すいようの腕が伸びてくる。黒い、触手みたいな腕だ。こちらの腕を絡め取ろうとするそれを、シロは掴んで水面からこちら側まで引っぱり出した。

 ズルルル! と勢いよく引き出された水妖は、抵抗しながらもシロの思い通りに、まるで犬のリードのように扱われる。シロはそのまま後ろを振り返ると、ハセに掴めと空いた方の手を差し出した。


「……そういうことするから。水妖との相性が悪いままなのではないですか?」

「だってぇ。コイツらすぐにつけ上がるからね! 上下関係、しっかり分かってもらわないと」

「そんなことをしなくとも」

「ほーらぁ! はやく、掴んでハセ!!」


 ハセの言葉をあからさまに遮ったシロに、彼女は「まったく」とため息を一つ吐いた。ハセがその手をシロのものに乗せる。シロはニヤリと口端を持ち上げると、鏡の枠に足をかけ、チャポンと水中へ入っていった。


 霊水路れいすいろは相変わらず黒に塗られたような闇だった。水妖を制御しながら、腕が引かれる方向に歩を進める。踏む感触のないこの道が、シロはあまり好きではなかった。

 いくらシロでも、ここで導きを失えば水路から出るのは一苦労である。水中特有の体が水を掻き分ける感覚に、確かめるよう彼女は水妖を掴む手にグッと力をこめた。


「シロ様」


 ハセに呼ばれて、シロはお説教再開かと気分を落とす。「声を出すとかいがくるよ」だなんて苦し紛れにおちゃらけてみるが、ハセは呆れたような声でもう一度シロの名を呼ぶだけだった。

 まあ、ここで集まってくる怪など二人の足元にも及ばない。今さら何を、というハセの反応も当然であったし、それを理由にお説教が中断されることもないと分かっていた。

 シロは観念して呼びかけに応じることにする。


「悪かったよ。勝手な行動をして」

「違います。分かっているでしょう、シロ様」

「なにが?」

「あなたの勝手な行動は、今に始まったことではありませんが……」

「はは、ひどいなぁ。こんなに従順な私を捕まえて」

「シロ様」


 なぜあの少年をクロと呼んだのですか。


 問われた声は想像より棘を纏っていて、やはりそれか、とシロは瞑目した。その呼び名が特別な意味を持つことは、シロこそよく分かっている。

 故に、彼女は彼をクロと呼び、シロがクロを連れていると周囲に見せつける真似をしたのだ。噂されるように、野次馬がよく聞き取れるように、クロの名を何度も呼んでやったのだ。

 退屈な任務を何日もこなした甲斐があった。あの少年に出会ったとき気分が良いと言ったのは、今この瞬間においても、実際紛れもない事実であった。黒瀬の少年にも、恐らくハセにさえ、シロが任務を口実に裏街に彼が現れるのを待っていたとは思われていないだろう。ああ、本当に。


「色を持つあざなは『六色格ろくしきかく』の当主にしか許されていません」

「つまらない慣習だ」

「ええシロ様。慣習でございます。けれど、いくらあなたでもこの慣習を破るべきではなかった。しかも、よりにもよってクロの名を使うなど、」

「あーはいはい、わかってる分かってるよぉ。ハセの言いたいことは分かってる。分かってるから」


 問題ないよ、大丈夫だって。やや投げやりに返せば、ハセは火がついたように「問題があるから言っているのです!!」と叫んだ。

 ハセが怒るのも、シロを心配するからだろうということは理解していた。例の抗争が起きてから、シロの立場はお世辞にも良いとは言えない。それに今回の噂が広まれば、シロがどんな目で見られるかは想像に難くなかった。

 色のあざなを使うなど、その家に対する侮辱と言われてもおかしくないのだ。それを、よりにもよって白水家の当主のシロが、よりにもよって黒瀬家のクロの名を使うだなんて。


 黒瀬を滅ぼした一端を担っているのは、白水であるというのに。

 黒瀬と親交の深かった『アオ』あたりは、そう言ってシロを責め立てることだろう。正論である。言い返すこともない。

 彼らはいつだって他家を貶める材料を探している。予想するとすれば、シロが黒瀬家を興そうとしている、とでも言われるのだろうか。実際なくもない説だが、流石のシロもそこまで命知らずではない。自分たちが滅ぼした家を自分たちで興しなおすなんて、侮辱だなんて言葉では収まらない行為である。

 六色格の均衡は危ういバランスで成り立っている。それを壊すような真似をすれば、今度こそ白水家は本物の制裁を受けることだろう。


「黒瀬家が断絶し、クロの名を受け継ぐ者は確かに消えました。だからといって、その名を使うことが禁忌であるのに変わりはありません!! あの少年が、彼が、どんな目で見られるのかも分かっておいでですか……!?」


 ハセは珍しく感情的になって、シロに訴え続けていた。その大声に、闇の奥からギョロリとした異形の目玉が、それだけの姿で近づいてくるのが見える。

 怪だ。シロは反応した。

 ああほら言わんこっちゃない。シロが自分の『あやかし』を呼び出そうとしたとき。そのときには彼女の横を、長細く、巨大な手が通り過ぎていった。


手長てなが


 ハセの号令で、手がぐしゃりと目玉を握りつぶす。ヒュウとシロが口笛を吹くと、ハセは戻ってくる手を撫でながら、器用に目線だけギロリとこちらに向けた。


「話は、終わっていませんが?」


 こちらに向いたままの矛先に、シロは「おっと」と視線をそらし、さりげなく前に続く水妖の腕を眺めた。

 確かに巻き込むことになったあの少年には、少し悪いことをしたかもしれない。しかしまあ、見るものが見れば、彼の血筋が分かるのは早いか遅いかの問題であると理解できるだろう。見覚えのある顔、彼の父親によく似た少年の顔を思い出し、シロはほくそ笑んだ。

 アオだって、彼を見れば顔色を変えるに違いない。戦友の息子だと。黒瀬の血が、生きていたのだと。あの少年は、それほどまでに父親と瓜二つであった。

 とにかく、彼の血を疑うことはない。決定打は預け所であったが、その事実がなくとも父親の顔を知る六色格の連中は、彼を一目見れば途端に態度を変えることだろう。


「あの子はいずれクロになる。嘘偽りない、本当の意味でクロになるんだ。だから問題がないと。そう言っているんだよ」


 その言葉を聞いてハセは何か言おうとしたが、ふと考え込むように言葉を飲み込んだ。シロは彼女の賢いところが好きだ。まさか、と思ったのだろう。逆に言えば、世間ではそれほどまでに、黒瀬家の断絶は覆らない事実なのだ。

 シロは小さく、自分にしか聞こえない鼻歌を歌った。撒き餌は上々。あとは成果が出るのを待つのみである。

 暗闇の中を、水妖に手を引かれ。二人は静かに歩いていった。

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