7 知りたくないこと

 次に楓が立っていたのは古びた木の床材の上であった。足が地につく感覚に、楓は急に重力の存在を思い出す。


「お、っわぁ!!?」


 意識した瞬間ズンと感じた体の重みに、思わずバランスを崩した。

 楓は反射で、近くにあるなにかにガシリと両腕で掴まる。うぶ、と勢いでぶつかった顔がつぶれ、よく見るとそれは自分が抱えていた木箱であることに気がついた。

 なるほど。楓は情けない自分を誤魔化すようにずりずりと立ち上がる。はずみに床板が軋んだ音を立てた。

 この木箱、楓のほぼ全体重をかけているのにビクともしない。本当にどうなっているのかと何となく複雑な面持ちになった。


 それにしても、だ。


「まぁじか…………」


 どうやらシロの言っていたことは、勘違いでも何でもなかったらしい。楓は心の中で疑ったことを謝罪する。たしかにそこは『預け所』と呼ぶに相応しい様相であった。


 目の前に広がっているのは、薄暗く棚の立ち並んだ倉庫のような景色。それらは既に、年季の入った書物や怪しげなガラス瓶で埋め尽くされていた。

 楓は考えることを放棄してただ目の前を見上げる。シロは預け所は家族で使うものだと言っていた。それに、楓は時間差でなるほどと思う。

 ここは家族の、というより一族の。『黒瀬』の場所なのだと直感で理解できたからだ。


 木箱に片手を預けながら、思うままに一歩踏み出してみる。床がまたギィと鳴った。

 脳が情報を拾い上げる。

 防衛術ぼうえいじゅつ心得。薬草学。葉桂はがつら草、下処理済み。本の背表紙や瓶のラベルに。

 読める文字もあれば読めない文字もあった。読めない部分には見覚えがある。あの、守宮の店で見た棚につくタグの字だ。

 どうやらこの場所、この『裏』の世界での文字は違うらしいと、楓はなんとなく察していた。読み方は分からない。が、知らないなりに分かることはあった。


「……家系図?」


 楓は棚の奥に見える、最奥の壁に貼られた大きな紙の一部を遠くから見つけた。

 線と線で繋がれた短い言葉たち、きっと名前。楓の読めない文字で書かれたソレは、しかし全体像を見れば家系図であることは容易に分かった。


 『裏』の常識は分からないが、少なくとも楓の知識においては。家系図なんて、どこにでもあるものじゃない。

 きっと『黒瀬』は平凡な家ではない。薄々気がついていた事実を、いま改めて見せつけられていた。

 シロに『クロ』と呼ばれたとき黒瀬の文字がよぎったのは、気のせいではなかった、と思う。

 シロは自分の字が苗字からくるものだと言っていた。楓には覚えがある。人ごみのざわめきから聞こえた呟き。きっとシロの名前は『シロミズ』だ。

 ならば、シロがシロミズなら、クロは? 


 『クロセ』だ。楓は思った。

 楓は鈍感ではなく、だから、ただ事実としてそう思った。

 シロが何を知っているかは知らない、知りたくもない。だが色々な辻褄を考えれば自然とその考えは浮かんでいた。


 楓の人生には知りたくないことが多い。本当は、父がいない理由も、母が泣いていた理由も、知りたくはなかった。

 なぜ楓に手紙が届いたのか。なぜシロは楓に目をかけるのか。なぜクロと呼ばれるのか。なぜ他人はクロの名を聞いてギョッとした表情をするのか。

 知ってしまえば、きっと面倒くさい。知らないことで楓は自分の身を守っていたかった。


 このごろ楓は、自分は特別なのかもしれないと思ってしまう。そしてそんなことを思う自分のことが、楓は心底いやだった。

 不思議な世界。手紙。本当の両親。まるで物語の始まりみたいで、だがそれらを『自分が特別なのだ』とはしゃいでしまう自分だけが、ダサくて情けなくて恥ずかしいと感じた。


 楓はこの期に及んで、分不相応という言葉の意味を知った。

 いつも空気を読んで、視線を気にして、うじうじしている。自分は主人公になんてなり得ない。裏街に、この不思議な世界に足を踏み入れて、楓はひどくそれを痛感していた。

 知らないでいること。考えないでいること。後回しにすること。それだけが、これ以上楓を我にかえさず、ダサくさせない、楓の身を守る唯一の方法だった。


「戻ろう」


 自分の意思を確認するように、ぽつりと呟いた。楓は一歩踏み出していた足をスッと引く。木箱の中身も開けずに、元の場所へ戻るため後ろを振り向いた。

 そこには、ドアノブもない開き戸が二つある。先ほど見まわしたときに、楓はこの扉を見つけていた。

 ここから出られる、多分。それも直感的に分かった。


 早く戻らなくては。シロが待っている。楓は真っ直ぐに歩を進めて、二分の一かと思い、とりあえず扉のうちの片方を手で押した。


「あ……?」


 グッと手のひらに押し返してくる手応えがあって、楓は眉をひそめる。扉は僅かに隙間を開けたが、なにか引っ掛っているような、張り付いているような。

 楓は深く考えもせず、開きそうな扉に対してもう少し強く押す、という手段をとった。


 バリッ。と。破れる音がして。


「うわっ!!?」


 急に手応えをなくした扉が、勢いよく開け放たれる。楓は押した力のまま転げそうになるのを片足を出して踏ん張った。白い埃が舞い上がる。楓は少し吸い込んでゲホと咳き込んだ。

 どうやら出口ではなかった。この部屋は、随分と長いこと開けられていなかったらしい。見下げた足元には赤黒い線が入っていて、楓は「え」と呟きを落とす。この色、絵の具か、もしくは。


 嫌な汗。ドッ、ドッ、と心臓が鼓動している。足は既に部屋に踏み入っていた。

 顔をあげたくない。何度も言うが、楓は人並みに怖いことが苦手である。いま頬を撫でたこの微風がどこから吹いているのかなど、考えたくもなかった。


 楓は決死の覚悟で、下を向いたまま足を後ろにずり下げる。

 楓の人生には知りたくないことが多い。これはその知りたくないことの中でも、本当に、マジで、知りたくないことである。知ってはいけないこととも言う。つまり、そういう類なのだ。

 楓は脳内で自分自身に必死に説くことで平静を保とうとしていた。


「あ」


 かかとが床板の段差につっかかり、体がグラリと傾いた。


「ぅあっ……」


 ドサリ。尻もちをついて、目の前が見えた。

 床に描かれた赤黒い模様と、壁一面、天井にまで貼られたボロボロのおふだに気づいて、喉がキュウゥと締まっていく。

 部屋の中心には、薄汚れた布のようななにか。それを囲うように小さな蝋燭ろうそくが燃えて、その灯りが。


「う、っ……」


 楓の見ている前で、フッと、消えた。


「うわああああぁ!!?!?」


 楓はズザザザ! と体を引きずって勢いよく後退する。それから床を決死の覚悟で這いつくばって、もう一つの扉に体当たりするかの如く飛び込んだ。


 ポチャリと水に入る感覚。出口だ。速度が上がるわけでもないのに、楓は無意味に手で水をかく。

 なんだあれ。なんだ、なんだあれ!? あらゆる体験がごちゃ混ぜになって、頭の中ではそんなことばかりを叫び続けていた。





 あれから楓はどんなふうに戻って、そこで待っていたシロとなんの話をしたのか覚えていない。

 ただ気がついたときには、楓はもときた場所、こちらへやってきた場所に立っていた。


 裏街三丁目の看板が立っている。夕暮れ時、がやがやと騒がしい人ごみの中。

 相変わらず人通りは多かった。楓達はじろじろと視線の雨にさらされているが、そんなものは今に始まったことではない。ようやくまともになってきた頭の中で、楓の意識はもっと別のことを気にしていた。

 家一軒ほどもある岩の前。壁面にかけられた大きな鏡の枠に、重力を無視して水がはられている。

 来たときは色々あって見ていなかったが、帰るときになりようやく知った全容に、楓は思わず立ち止まってまじまじと眺める。


「帰り方は分かるよね?」

「あ……、はい」


 シロの声で楓は隣を見上げる。彼女は返事をした楓に心なしか安堵した様子で笑った。

 楓が放心していたからだろうか。彼女に気をつかわせてしまった、と楓はようやく気がついた。


 シロはいい人だ。なんかデカいし、めちゃくちゃな力持ちだし、怪しくて、何かを隠してはいるけれど。楓のことを心配してくれる。

 彼女は楓の不審な態度を追求することはない。いっそ不自然なくらいに。

 良くない疑問がもたげて、楓はやんわりと自己嫌悪する。これだから自分はダメなのだ。人を勝手に評価して知った気になる。追求しないことこそが、彼女の優しさかもしれないだろう。楓はそうと思うことにした。

 シロは楓を気にかけて心配してくれた。その事実だけに感謝すれば十分である。楓はそう考え無理矢理に思考を断ち切ると、意を決してシロに、あの、と話しかけた。


「ありがとうございました、色々」

「おお、ふふふっ、いいんだよ!! このくらい安いものさ!!」


 そう言ってからシロは内に入るように「このくらいね」と呟いて、パッとそれをかき消すみたいにもう一度笑った。

 楓はシロの仕草をほんの少し不審に思ったが、特に何も考えないまま、別れの挨拶として軽い会釈をする。彼女は楓にニコニコと手を振って、その後ろ姿を見送っていた。


 水鏡みずかがみを使うような素振りの者は、周りにいなかった。楓は、はじめここに来てすぐシロがペラペラと話していた内容の、その一部を思い出す。

 通行人は多くても、彼らは皆この街に住んでいる。だから水鏡を使った転移者は珍しく、楓も注目を浴びたのだろうと。

 あのときは半信半疑であったが、どうやら事実かもしれないな、と楓は少し認識を改めていた。故にか、いま水鏡の側まで寄っていく楓は、それなりの視線を集めているのだから。

 今日だけで一生分の視線を浴びた気がする。

 早く、帰りたい。心中で嘆いた。なんだかもう、楓はすっかり疲れ切ってしまっていた。


 来た時と同じように。楓は手のひらを突き出し、そっと水面に触れさせる。平らかな水面に僅かな波紋が立って、行きと同じく、事前に読んだ説明書きの通り唱える。


「術式呼び出し、公開目録オープンレコード

『はい。術式の呼び出しが確認されました。公開目録オープンレコードを展開します。術式選択を行なってください』

「術式選択。帰還」


 ためらいは無かった。今はこの不思議な世界との一刻も早い別れしか、望んでいなかった。


『はい。帰還が選択されました。術式履歴の読み込みを開始。該当。帰還いたします』


 波紋が広がって、どこまでも広がっていく。鏡の水は透明で、水の奥からやってくるあの黒いナニカがよく見えた。

 ズッと。やはり手のひらから引き込まれる。腕が黒に絡め取られてもうすぐまで近づいた水面に、楓はギュウと目をつむった。


「じゃあね、クロ!! また会おう!!」


 帰り際に聞こえたそんな声には、正直もう二度と会いたくないと思った。





 生温い液体が体表を覆った。

 息を吸おうとして、鼻奥に激痛が走る。ガボッと口から気泡を吐き出した。

 本能的に体がもがきだし、暴れ回る腕と足がガツガツと壁のようなものに当たるのが分かった。


「……っ、がっ!! げほ、おぇ゛……!!」


 浴槽だ。腕をふちに引っ掛け必死に水面から飛び出たとき、楓はようやく気がついた。危うく溺死するところである。鼻水とお湯とあらゆる体液でぐちょぐちょになりながら、楓は死にかけの犬のごとく呼吸した。

 ガタリ、と何かが落ちる。風呂場の床を滑って楓の目の前にあったのはスマホの液晶だった。楓は目の色を変えてひったくるようにそれを取ると、カチカチと電源ボタンを何度も押して、ロック画面は少し遅れながらついたり消えたりしていた。

 体がいうことを聞かない。やっと見た画面には、三時四十二分と表示されている。それを確認して楓は、今度は魂が抜けたようにダラリと腕を垂らした。


 浴槽のふちに洗濯物みたいに引っ掛かって、荒い呼吸だけが反響してよく響く。そのまましばらく死体になっていたが、楓は唐突に起き上がり、水を含ませた服のままでザバァ! と浴槽から這い出た。

 風呂場のドアに体を押し当てて、無理矢理に開ける。楓の進んだ跡は水浸しで、しかしそれを気にする素振りもなく楓はずるずると歩み出ていく。

 脱衣所の、洗濯機の前までいってようやく止まり、ガシッと掴むと、音が立つことも気に留めず勢いよく蓋を開けた。


 ビシャリ。中に服を脱ぎ捨てていく。バシャリ。投げ入れるたび水音が弾けた。楓はどんどん服を入れて、全裸になってから洗濯機を閉じ、『脱水』のボタンを押した。


「……、ぁ…………」


 洗濯機の、中身がぐるりと一回転。もう一度、一回転。眺めているうちに早くなって、楓の目では追えなくなる。

 楓は茫然としたまま洗濯機から顔を上げ、上の棚にあるタオルを適当に掴んで引き出した。拍子に積み上げられたタオルのタワーが崩れたが、直す気力もない。

 楓は薄くて大きいバスタオルを体にかぶせて、そのまま洗濯機の前にしゃがみ込み、何も着ていない自分の体をくるみ込むように丸まっていた。



 ピーっ。と。


 音が鳴った。楓は身じろぐ。


 ピーっピーっ。音が続けて鳴った。

 楓は目を開ける。寝ていたのか。薄らぼんやりとした現実を認識して、いきなり、脱衣所の電気がパッとつけられた。


「うわ!!? か、楓!? あんた何やってんの……!?」


 母はギョッとした顔で楓を見下ろしていた。咄嗟に。楓はごく小さな声で、顔を逸らしながら言い訳した。


「ね、……ねぼけてた………………」


 てん、てん、てん、と沈黙。

 流石に苦しすぎる言い分に、楓はマズったと後悔して、すると上から降ってきたのは母の笑い声だった。


「っぷ、はは、あははは!!! そんなワケないでしょお、あんたって昔から言い訳へたねぇ!」

「いや、その」

「あーもう目ぇ覚めちゃった。あんた今日学校休みでしょ。まだ寝んの?」

「あ、うん……」

「そぉ。おやすみ〜」


 言って去っていった母は起きるらしく、台所の方へとペタペタ歩いていった。

 楓は肝を抜かれたような顔で呆ける。体中がじわじわと痺れて、体温が戻ってくる心地がした。生き返ったみたいだ。心臓の鼓動が、いま、急に始まった感覚がしていた。

 楓はゆっくりと立ち上がって手をグーパーする。はずみに、ズルリと肩から落ちかけたバスタオルを引っ掴み、思い出して後ろの洗濯機を振り返った。

 脱水は終わっていた。さっきの音はきっとこれだ。蓋を開ける。中を覗き見て、ウワッと楓は驚き顔をしかめた。


「な、なにこれ……ティッシュ……? 入れてたっけ……」


 服に白い紙クズのようなものがチラホラとくっついていた。楓はうげぇと舌を出しながら洗濯機に手を突っ込む。

 取り出してもやはり分からない。紙クズというか紙であるようだが、ポケットに何か入っていただろうか? 考えて、楓の脳裏を一つ掠めた。


「あっ」


 慌てて楓はズボンのポケットを探り当てる。そういえば、そういえばそういえば。アレかもしれない、というか絶対アレだ!

 目当てのポケットに手を突っ込み、引っ張り出すと中からボロボロと紙がこぼれ落ちた。楓はまだ比較的大きい紙片に目をやって、予想通りの文字に頭を抱えたくなった。


「教材リストぉ……!!」


 使った後で良かったと言うべきか、しかしこれから必要にならないとも限らない。そしてどっちにしろ、楓は早急にこの紙クズにまみれてしまった洗濯機をどうにかする必要があった。


「あぁ……はぁ、ああ゛〜〜……」


 楓は肩を落としながら、洗濯機に手をかけて全裸でしゃがみ込む。絶望と、間違いなく家に帰ってきたのだという安心感で。楓はその後少しだけ泣いた。

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