4 おいでませ裏街

 裏街へは霊水路れいすいろによる水場を経由しての転移をお勧めいたします。

 出来るだけ大きな水場をご利用ください。体を超える大きさが望ましいです。

 午前二時すぎ、陰の気が満ちる時間帯がもっとも繋がりやすくなります。灯は最小限に、水面に顔が写ることを確認したら、その上に手をかざし___。


 ピチョン。


「っヒィ……!!??」


 楓の後ろで水滴が落ちた。どうやらシャワーヘッドからしたったらしい。

 楓は激しい動悸を覚えて身をすくませる。それから、暗闇のなか、スマホのライトで照らした手元にそろそろと視線を戻した。


 時刻は午前二時七分。楓は一人、風呂場の浴槽前にしゃがみ込んでいた。


「もうやだマジでやだ……」


 あまり大きい声を出しては母が起きてしまうかもしれない。楓は声を潜めぎちぎちと歯を食いしばりながら、必死に目の前へと意識を向けた。

 風呂場の鏡やその他が目に入るだけで、覗き込まなくとも恐怖を覚える。楓は人並みに怖いことが苦手だった。

 何も好きこのんでこんな夜深くに風呂場にいる訳ではない。楓が手に持っているのは、先日の入学願、正確にはそれの燃えた後に残っていた紙である。


 表面には、楓の揃えるべき『教材リスト』とやらがつらつらと書かれていて、いま楓が読んでいるのはその紙の裏面だった。

 暗くて文字が読みづらい。『裏街うらまちへの移動について』とある部分、楓は僅かな明かりを頼りに、その文字を目で追っていた。


「ちゅうい、てん……声をあげないこと?」


 霊水路などの狭間には『かい』がいます。耳の良い『怪』は声を辿って追ってくる可能性がありますので、十分なご注意をお願いいたします。

 いま現在、水路で確認されているのは主に低級の『怪』ですが、まれに中級以上の『怪』も観測されております。家族や友人の声がしても決して返さないよう。また、瞳がありましたら三秒経つより早く目を逸らしますよう。


「くれぐれも、お気をつけください……って、は、ははっ……」


 読んでから、楓は堪らずに乾いた笑いを浮かべる。

 ピチョン。また背後で水滴が垂れた。


 心なしか寒気がしてきた。いや、気のせいである。気のせいに違いないが。

 今ならやめられる。そんな言葉が楓の脳裏を掠めた。


 やめるのか? ここまできて? どっちみち入学願は受理されてしまった。

 一方的に宣告されたあの教材リストを揃えるためには、少なくとも楓には裏街とやらに行く選択肢しかないのだ。


 元から選ぶ余地などない。それでも、意味のない葛藤を振り払うのには数十秒の時間を要した。

 楓は暗闇で光る画面を確認する。二時十五分。急がなくては。楓はスマホを浴槽の淵に置くと、覚悟を決めてその内側を覗き込んだ。


 水面は波紋の一つもない。スマホの明かりに照らされて、かすかに、まるで鏡のように自分が写るのが見えた。

 楓は深呼吸をすると、ゆっくりと右手を持ち上げた。写り込んだ楓の顔に被せて、手のひらを水面にかざす。そのままそうっと手を下げて、皮膚が水の表面に触れた。


 手のひらから冷んやりとした水の温度が伝わる。手を中心に波紋が広がった。

 楓は左手で紙を握りしめながら、小さく、かすれがかった固い声で唱える。


「術式呼び出し、……公開目録オープンレコード

『はい。術式の呼び出しが確認されました。公開目録オープンレコードを展開します。術式選択を行なってください』


 聞いたことのある中性的な機械音声に、楓は僅かばかり声を詰まらせた。

 それでもなんとか立て直す。紙で、読んだとおりだ。そして次の言葉は。


「術式選択、水路転移。裏街、三丁目。四つ角通りまで」


 耳の奥で、心音が鳴り止まない。


『はい。水路転移が選択されました。術式の読み込みを開始。終了。術式を起動いたします』


 ポン、と軽い電子音の後、楓は異様な雰囲気を感じとった。

 波紋が出来ている。水面の、何もない場所で。音もなく波が増える。発生源が分からないまま、それはどんどんと連鎖して。

 おかしい。そう思った瞬間だった。


 楓の腕が、一瞬にして黒いナニカに絡め取られた。


「ひ、……っ!」


 悲鳴をあげそうになって楓はこらえる。注意点。声をあげないこと。その言葉を頭の中でぐるぐる回し、必死に腕を口元に押しつけて声を抑えた。

 右手が水中へ引っ張られる。不思議と冷たくはなかった。


 ポチャン、と音がひとつ。

 鳴って、水面に僅かな水しぶきがあがった。


 ゆらゆらと水が揺れ、しかしそれも次第に収まる。浴槽には波一つ立っていない。後に残るのは、その淵に置かれたスマートフォン。そして、画面が発する無機質な光だけだった。





 水の中。目まぐるしいスピードで手が引かれていく。水中にいるのに、呼吸が出来る。呼吸は出来るのに、向かってくる水流による息苦しさがある。

 生ぬるい液体を体が掻き分け、なんとも言えない感触が皮膚を撫であげる。

 辺り一面は塗りつぶしたような黒だった。楓は言語化出来ないなにか恐ろしさを感じ、ぎゅうぎゅうに口を押さえている腕の力をさらに強くする。


 左手に握り込んだ紙がぐしゃりと音を立てた。

 何秒たったのか分からない。数秒かもしれないし、あるいは数十秒かもしれない。時間の感覚を狂わされていることも、楓の漠然とした恐怖を煽っていた。

 はやく。はやく、まだなのか。ここから出たい、はやく、ここから___。


 楓は、不意に落ちるような感覚がした。水中を抜けて、空気へと戻る感覚。そして、体表を覆っていた生ぬるい液体ごと外へ流れ出る感覚が。

 光が戻って、色が視界に飛び込んだ。目に入ったのは宙に浮かぶカラフルな提灯と、重苦しい瓦屋根、それから。


「いっ、……だぁ…………!!!」


 石畳。しかも、でこぼこしてるタイプの。

 打ちつけた背中の痛みと衝撃による内臓の揺れに、楓は悶えながら身を丸くする。

 周りからざわざわとした喧騒が聞こえた。楓のことだろうか。今の楓にはそれを聞き取る気力もない。

 ただ鈍い痛みと、自分の内に入る情けないやら恥ずかしいやらの感情で、視界が歪んでくるような気がして。


「すうっごい! 吹っ飛んだね!!」


 楓に声をかけてくる者がいた。大きくてよく通る声。楓は驚いて、しかし痛みを堪えたのろのろとした動きで顔をあげた。

 体の芯まで震わせそうなその溌剌とした声の主は、膝に手をついて、楓の顔を逆さから覗き込む。そして楓と目が合うと揶揄うような声ぶりで悪戯っぽく笑った。


「大丈夫かい? 少年」


 ショートカットの黒髪と勝ち気な切れ長の瞳。黒いパンツスーツに艶ぼくろの彼女は、その、なんというか。


「は、……はい…………」


 でかい。いろいろと。


 楓は呆気にとられながら、二メートルはありそうなその女性を見上げていた。

 大変な眺めである。非常に健康的な女性らしい体に、楓は視線を逸らすべきか、むしろ気にする方が失礼なのかと心の中で葛藤した。


「そりゃ良かった! いやあ、良い吹っ飛びっぷりだったよ!!」


 そう言って、快活な笑い声。女性の耳にかかった顔横の髪の毛が重力でパサリと落ちた。

 彼女は粗放な動きでそれをすくうと、耳にかけ直しながら、楓の顔を面白げに眺める。それ、と楓が手に握り込んでいるくしゃくしゃの紙を指し、彼女が問いかけた。


「新入生? 陰陽術学校の」

「え、あっ!? は、はい、多分」

「買い出しか、わかんないだろ。案内するよ。なぜなら! いま私はすこぶる気分が良い! あっはっは!」

「はぁ」

「任務もたまにはいいもんだ! なあ少年!」

「いや、あの……」

「おいハセぇ!! 通り寄るから!! さき帰ってて!!」


 彼女は背後を振り返って遠くにいるらしい誰かに声をかける。するとどこからか「いけません!」と、いかめしい女性の声が聞こえた。


「シロ様、報告がまだ終わっていないでしょう」

「後でも間に合うよぉ、へーきへーき」

「平気なわけありますか!!」

「さあ少年、起きて!」

「え、ちょっと、あの……!?」

「名前? シロだよ!」

「あ、どうも……じゃなくて……!!」


 突然に手を取られる。その力が強くて、楓は目を見開いた。

 グイッと上に引っ張り上げられた勢いで、半ば足を浮かせながら立ち上がる。そこで楓は初めて周囲を確認した。

 ちらほらと見える人だかりはこちらを噂していた。楓は一瞬ドキリとして、しかしどうやら彼らの視線は楓の手を取っている女性に向かっているのだと気がついた。


「シロ様、いけませんよ、お戻りください」

「ああほら早くしよう! 少年、行くぞ!!」


 楓たちの向いた方向には行手を遮るように、かっちりと黒スーツを着込んで、黒髪をこれまた几帳面に一つ結びにした女性がいた。

 楓は怯んで足を止める。楓の勘違いでなければ彼女は非常に怒っているのだが、それをまるで気にしないような明るい声は、目の前から発せられたものだった。


「呼び出し! 自己術式マイノート、四十三番。対象指定オーケー! セット!!」


 指をパチンと鳴らす音がして、楓の足にホバーボードのようなものが現れる。

 うわっ!? と楓が崩しかけたバランスをシロが腕を掴んで支えた。どうやら彼女の足元にも同じものがある。楓は何も分からずシロを見て、その悪い笑みに口を引きつらせた。

 シロ様! と諌める声。スゥと息を吸う音がした。嫌な予感がする。


「……滑走!!!」


 瞬間、ブンッ、とものすごいスピードで動いた足元に体が置いていかれそうになる。

 楓の体を引き戻したのは、やはりシロの手だった。

 気をつけろ! なんて高らかに笑いながら、楓を引くシロはそのまま人だかりに突っ込んだ。


「は、ひっ、ぎぁぁああああ!!!」

「はっはっはァ!! 良い悲鳴だ、少年!! ついてこい!!!」


 ホバーボードが器用に人を避け、体は右へ左へとグイグイ引っ張られる。人だかりを抜けながら、楓の耳は「シロミズ」「シロの当主だ」などという呟きを拾った。


 何一つ状況を理解できない。むちゃくちゃだ。景色は瞬く間に移り変わる。長屋のような建物の間を縫い、通りすがりに人間には見えない風体のものがいたり。

 楓は愉しげに自分の手を引く女性を見ながら思った。どうやら、とんでもないところに来てしまったらしい、と。

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