11 裏へと続く場所

 キュッと引き締まったくびれ。胸ほどまであるストレートの黒髪。腰から脚先まで伸びる、すらっとした曲線。

 紺色のセーラー制服をまとった可憐な少女は、白いリボンが似合いそうなその顔で楓に言った。


「おまえも悪いと思う、っぐぇ!」


 ゴチン。疲れた顔の男が少女の頭頂部をそこそこ強そうな音で小突く。


「謝れって言ったの聞いてたか?」

「い、いま殴ったか!? 女を!? ばーちゃんが言ってたぞ、女殴るやつにはロクなのがいないんだ!!」

「良いことを教えてやるクソガキ、今のはゲンコツって言うんだよ。世界で唯一許されてる暴力だ。ひとつ賢くなったな」

「お、おう。かしこくなった。フフン」

「褒めてねんだわ……」


 得意げな顔をする少女に、男は額を押さえてうなだれる。楓は何とも言えない気持ちでそれを見ていた。

 転んだ楓に手を貸してくれた男、いま少女を叱っている彼。名をムーと言うらしい。彼は楓達の担任であるのだと名乗った。


「大体! ザン、なんで俺が便所いくだけでこんなになるんだよ! おまえ見とけって言っただろ!」

「見てたッス」

「マジで見てただけじゃねーか!!」

「ハ? ……だから見てたんじゃん」


 ザンは言われていることの意味が分かっていないらしく、訝しんでムーを見る。そうするとムーはもう駄目だとでもいうふうに大きなため息を吐いて、痛むのか胃の上あたりを手のひらで押さえた。

 楓は一連の場面を、ずっと変わらず気まずい顔をして立ち尽くしながら聞いている。視界の端ではチヨがスライムっぽいナニカとキツネっぽいナニカと、にこにこツンツン楽しそうに戯れていた。羨ましい。というかずるい。俺もそっちが良いのに。楓は心底思った。


 だがまあ、それ以上に。そもそも忘れてはいけないが、ここは東京駅なのである。 東京駅の一角で怪しいスーツ姿の男たちに囲まれた制服姿の美少女と、一見なにもないところで指をツンツンしたり虚空を撫でたりする品の良さそうな少年。

 事案だろう。実際、先ほどから気のせいではなく、楓達一団に向けた周りからの不審げな視線がチクチク刺さっていた。

 楓は必死に無関係なフリをしていたが、こんな至近距離で会話をされればそれも無茶というものだ。まさか、東京に来て帰りたいと思う日が来るとは考えてもいなかった。


「はあぁーー、もういい、もういいよ……とにかく。これで、全員揃ったな」


 ムーが発した言葉に、楓はなんとなく姿勢を正す。それを合図にチヨも立ち上がり、彼の側に居た二匹はそれぞれ楓と少女のもとへ音もなく戻っていった。

 足下にピトリとくっついた二本角のスライムを、楓は両手で持ち上げ肩に乗せる。横にいたザンがキュルキュル鳴くそれを見てグッと眉を寄せていたが、楓が気がつくことはなく、ザンも楓に何か伝えることはなかった。

 ムーがその場を見回す。そして確認するよう楓達の顔を順繰りに見て、続けて楓の肩に乗ったそれと、少女の足下でチョコンと座り込むそれも見た。


「今年は三人で……それから三分の二がペット所持と。ったく、」


 まあいいか、と息をついて一言。ムーはスーツから黒い手帳を取り出すと、おもむろに一歩踏み出した。


「来い。忘れ物はするなよ。取りには帰れないからな」


 パラパラと手元のページをめくりながら、ムーは通路の壁に沿ってなにか探るように歩きだした。来いって言われても。楓は困って周りを見たが、同じように困った顔のチヨと視線があって、二人は無言で通じ合わせると恐る恐るムーの背後についた。

 楓とチヨが行くと、続けて少女が。どうやら縦横無尽に歩く周囲の人間を警戒しているらしい。彼女は周りをうかがうと、カルガモの子供みたいな仕草で、二人を盾のようにしながらピッタリ歩く。

 気配に驚いて楓が振り返ると、すぐ近くに少女の顔があって、なおさら驚いてしまった。


「っうお」

「あっ、おいおまえ動くな!」

「え、あ、ウン、ごめん」


 丸い瞳がこちらを覗き込むので、思わず吃りながらパッと前に顔を振り戻す。チヨがこちらを見て「イト?」と心配するので、楓は慌てて何でもないと答えた。

 少しドキドキと早くなる鼓動。そして次の瞬間には、少女は何とも恐ろしいことに、今度はザンにも「おまえは私の背中を守れ!」と指図していた。ドキドキが一瞬で別の意味になる。恐れ知らずすぎるだろ。楓はチヨに笑顔を向けたままで顔を青くして、内心では目一杯の悲鳴をあげていた。

 ザンは無愛想なその顔をピクリとも動かさずに、面倒そうな足取りで彼女の後ろに立つ。少女がようやく満足げに落ち着いて、楓はそれを目線で追いながら、予想が外れザンのことをマジマジ見つめてしまった。

 なんとなく薄々分かってきたことだが、この人って、意外と。そんなことを考えたとき、不意にザンの赤い目がギロリとこちらに向けられて、楓はぴゃっと大きく肩を揺らした。


「えっと、……ハ、ハハ」

「お前さぁ、イト?」

「うぇ!? は、はい!?」

「安直じゃん」

「……はい?」


 本当に、それだけ。言うだけ言ったザンは、また興味なさげに視線を戻す。チヨが楓を呼んだのを聞いていたのか。それは分かるが、いや。理解が追いつかず意味を数秒考えてから、もしかしてシンプルに貶されてないか? と楓は気がついた。

 斎藤サイトウで、イト。別にいいだろう。安直で悪かったな。クロだかなんだかよりはよっぽどマシである。前言を撤回したい。やはりこの人に意外性などなかった気がした。


「あ」

「わ、」


 考え事ばかりしていると、前を行くムーの足が止まって楓達も立ち止まる。楓はムーになにか聞こうかと思ったが、なにやら集中している様子に口をつぐんだ。


「ここだ」


 ムーはボソリと呟いた。

 通りすがりの男性が不審なものを見る目で視線を寄越す。だがそれは、ムーがある一ページを定め片手を壁へ当てた瞬間、フッと興味を失ったような不自然な動作で無くなった。

 男性は何の違和感もなく、元のように歩き去っていく。彼だけではない。チヨは不思議そうにあたりを見回していた。一方で楓も、この静かに起こっている何か不思議な状況に、疑問や、もしくはうっすらとした恐怖を抱えつつあった。

 誰も、楓達のことを気に留めない。先ほどから楓達が集めていた注目や怪訝の視線、他の、東京駅を歩く人の全ての視界から、まるで存在が暗幕で隠されてしまったかのような。


鍵言葉トリガー、『花吹雪』」


 ぶわり。思考を払うような、一際強い風が吹いた。風圧に目を瞬いた瞬間、その一瞬だけで、先ほどまで真っさらだったはずの壁を楓は信じられない気持ちで見上げた。

 扉だ。扉が現れた。それもただの扉ではない。見覚えのある形をとったそれは、言うなれば、巨大なエレベーターの扉であった。


 ムーはそれが現れたことを確認すると、開いていた手帳のページをビリと破き取る。見れば紙には、まだ僅かに光を発する、なにか不思議な形の幾何学図形が書き込まれていた。

 光は段々と弱まって、それと同時に紙の端がジリジリと燃え始める。みるみるうちに小さくなった欠片はムーの掌でついに燃え尽きた。

 すると同じくして、ガコン!! と大きな音が鳴る。楓は驚いて横を見た。両開きの扉が、眼前でゆっくりと開かれる。目を丸くしながら、楓はその非現実さ加減に呆然とその場に立ち尽くしていた。


「おら乗れぇ、お前ら。安心安全、ムー先生特製の転送エレベーターだ」

「うぃす」

「お前が最初に乗るのかよ……別にいいけど……」


 ザンが乗り込むと、追ってチヨが目を輝かせながら飛び乗った。少女に連れ添っていたあのキツネのような生き物も、テクテクと中へ歩いていく。

 ムーがこちらを見ると、早く乗れと言わんばかりに、楓達へ向けて顎をしゃくった。意を決して一歩踏み出せば、楓は背後から服を掴まれ引き留められる。振り返るとそこには、野生の獣が毛を逆立て威嚇するように、グルグル唸ってエレベーターを見つめる少女がいた。


「待て……わ、私が先に入る!」

「えっ」

「いやでも、待った、やっぱりおまえが先に入れ。アンゼンをたしかめろ」

「えぇ……」

「おぉい、何でもいーからさっさと入れホラ」


 呆れ目のムーは、少女の背中を押して楓ごと押し込んだ。「ぎゃ!! セクハラ!!」という少女の悲鳴が聞こえて、楓はバッと離れ慌ててエレベーターへと駆け込む。

 背後では少女がムーに吠えている声が聞こえていた。分かっている、セクハラと言ったのは恐らくムーに対してだ。しかし。


「いや、セクハラじゃない不可抗力……たぶん……」

「イト?」

「っハイ!? ななな、なに」

「いや、その子……」

「え? あっ」


 指し示された先を見ると、楓の肘と肩に背負ったスポーツバッグの間に挟まれて、二本角の生えた物体がムニャアと押しつぶされていた。そういえばいつの間にか、耳元のキュルキュルが聞こえなくなっていたような。

 楓が急いで救出すると、いつになく俊敏な動きで手の甲を角に攻撃される。キュルキュルキュルキュと恨み節のごとき鳴き声で楓に訴えかけ、楓はソレの機嫌をなおすべく、いつも以上に丁寧に撫で続けるしかなかった。


「早く、しろ!!」

「ぎゃあ!!!」

「っっはーーー、よし『閉まれ』!!」


 ゴゥン!!  また大きな音が聞こえ、見ると扉が動き閉まるところであった。見えていた駅の風景が狭まり、あっという間に扉に置き換わる。静かに、あまりにもあっけなく、その扉によって楓達は世界から隔絶された。

 エレベーターは下へ向かって動き出す。なんとなしに体が浮くような感覚で、楓はそれに気がついた。


「いいか、転送時間は長くない。手短に説明する。お前も、しっかり聞いておけよ」

「くそ、この、セクハラオヤジ……」

「聞こえてるからな!?」


 少女はエレベーターが出す音に怯えながら、体育座りで体を丸くして、毛を逆立てた猫のように威嚇しムーを睨みつけていた。乗るときによほど抵抗したらしく、心なしか髪もボサついている。

 クソガキ、とムーが呟くと、彼は諦めたふうに楓達に向き直った。


「次、この扉が開いたらそこはもう『裏』だ。つまりお前らが今まで居た場所とは違う。分かるな?」


 隣でチヨが頷く。楓はクッと顎を引くと、手に抱いていたスライムを抱き直す。キュル、と変わらない小さな鳴き声が聞こえた。


「言いたいことは二つ。まずは、絶対に名前を知られないこと。『裏』じゃ常識だ。名前を聞かれたら、あざなで名乗るんだ。俺ならムーで、あいつはザン」

「僕はチヨです!!」

「え、あ……俺は、イトです」


 勢いの良いチヨに続き、楓もしどろもどろに答える。聞いてムーは頷くと、少女を指して「こいつはナデシコだ」と言った。


「私はナコだ!! ナデシコなんて名前じゃ、」

「お前それ向こうで言うなよ!? 絶対言うなよ!!? フリじゃねえからな!!」

「ナコ!!!」

「ッハァーー、お前らいいか、こいつはナデシコだ。もしこいつが口を滑らせたら聞き間違いとか言って誤魔化せ。そのために字も似せた……本当は良くねぇけどよ……」

「は、はい……」


 ゴッ、と。エレベーターが一際大きく揺れた。少女が悲鳴をあげ、同じくして楓はビクッと天井を向いた。到着が近い。ムーはそう呟いて、言葉を続けた。


「二つ目は絶対に言い返さないことだ。この二つを守りゃ、最低限どうにかなる」

「言い返さない? 誰にですか?」


 チヨが聞くと、ムーは諦観を含んだため息混じりの声で「向こうの奴ら全員にだよ」と答える。


「行けば分かる。言い返すな、絶対にだ……ほらもう着くぞ」


 言われて間もなく、地面、すなわちエレベーターがドン!! と揺れた。

 到着音代わりなのか、どこからかアラームのような電子音が鳴る。静かに扉が動き、向こう側にはすっかり様変わりした景色が覗いていた。

 ムーは開いていく扉を見ながらボヤく。


「ったく。入学式に遅れちまう」

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