俺は気付いたから

「なに、お前腹減ってんの?」

 コンビニ袋をガサガサと鳴らしておにぎりやなんやを出しながら、俺の手元にあるノートを覗き見て柳田は呟いた。

「腹?まぁ、減ったっちゃ減ったけど」

「だと思った。どれ食う?」

 ホレ、と正三角形を四つ並べて俺に見せつける。柳田の顔へと視線を戻すと、なに、と少し口を尖らせた。

「全部ひとりで食うんだと思ってた」

「いや、流石にそれはねぇから」

 並んでいる無難なラインナップを少し見詰めてみるが、どうにも選べない。

「じゃあ、梅くれ」

 結局選んだのはいつもの具だが、他のにすればよかった、なんて早々に後悔する。柳田がそっと胡座を組む俺の膝におにぎりをのせた。ペンからおにきりに持ち替えて、包装をペリペリと剥ぐ。米と海苔の甘い香りが鼻腔を擽った。

「一個しか食わねぇの?」

 ランニングに励む野球部を眺めながら米に海苔を柔く押し付けていると、柳田が不思議そうに聞いてきた。まだ食べてすらいないのに、それだけか、と言っている。

「まだ開けたばっかだし」

「もう一個好きなの選べよ」

「柳田が食わねぇのくれ」

 それ食うから、とおにぎりを食い進めながら呟く。視線はグラウンドを走る彼らに止めたまま、さて次は何を書こうか、と得られる情報を拾い集める。

「……ん」

「ん、サンキュ」

 選び終わった柳田が俺の膝におにぎりをのせ、いつの間に包装を剥がしていたのかパリパリと乾いた海苔の音を響かせた。

--フェンス、高い、囲まれてる…‥箱庭、は違うな。ホームベース、白、五角形、ペンタゴン…‥思い浮かばねぇ。

「なぁ」

 咀嚼していたおにぎりを飲み下し、ペットボトルのキャップを捻りながら柳田が声を上げる。視線は俺の膝の間にあるノートへと注がれていた。

「なに」

「お前にしちゃあ、ずいぶんかわいい詩だよな」

「うるせぇ」

 自分でも、らしくない、と散々思いながら書いたものを改めて言われると、恥ずかしさと苛立ちが混ざり合いなんともぐずぐずとした心地になった。

「何がどうなってこうなったん?」

「……野球ボールって、白球っつーだろ。そこから白玉に行き着いてこうなった」

「ウケる」

「ウケんな」

 こっちは大真面目だ、と柳田を睨むが、本人は悪意が全くないらしく緩く笑っている。格技室で見せた取り乱しようなんて、今は微塵も感じさせない。

「柳田」

「なに?」

 いつもの調子だとひと目で分かるそれは無理をしている訳でもなく、しっかりと切り替えられている証拠だが、まだ足りない。

 どうしたものか、と考えながらおにぎりを食う。米と海苔の香りが鼻を抜けた。一頻り考えてみたものの名案なんて思い付くはずもなく、ええいままよ、と口を開く。

「お前、大智さんのことまだ怖いか?」

 我ながら唐突で、俺の詩を笑った仕返しなのであればあまりにも酷過ぎる言葉に、柳田が表情を固くする。口ごもり、言葉を何度か舌の上で転がし、悩んだ末に溜息を吐いた。

「怖ぇ、よ」

 ボソリと溢れた音は体格に似合わず弱々しい。戻った調子を下げてしまったことに罪悪感を抱くが、こいつのためを思うなら言った方がいいに決まっている。

「柳田は高校入ってから身長どんくらい伸びた?」

 もそもそとおにぎりを食べ進めていた柳田は、頭の中で指でも折っているのか一定のリズムで頭を動かしている。

「六?センチかな」

「結構伸びたのな。体重は?」

「五キロは増えたかな」

 それがなんだよ、と柳田は吐き捨て、小さくなったおにぎりを口へ放り込んだ。

「拗ねんなよ」

「拗ねてねぇよ」

 まだ気が付かないらしいこいつは明らかに拗ねているが、条件反射で否定する。おにぎりの包装をペリペリと剥がしているその顔は大智さんへの嫌悪感と、俺への苛立ちで歪んでいた。

「お前、タッパもガタイも大智さんよりデカくなってたぞ」

 弾かれたように顔を上げ少しの間を置いて、マジか、と呟いた。それに頷いてやると、柳田は曇っていた表情を少しずつ明るくし、目尻の皺を深くする。

「マジ?」

「マジだって」

 何度でも肯定してやろう。お前が自信を持てるなら。真っ赤な目で俺に訴えたお前を、もう見ることがなくなるのなら。

「それを踏まえて、まだ怖いか?」

 お前の恐怖心が薄れ、あの人を前にしてもその身を屈めることがなくなるのなら。

「大丈夫、かも」

「かも、じゃなくて、大丈夫なんだって」

 お前も俺も、成年部の大人もあの日のお前を忘れたりなんかしない。ひとりで恐怖を抑え込みながら、誰にも悟られないように笑っていたお前も、真っ赤な目からボロボロと涙を溢していたお前も、俺達の中に残る。消えることは決してない。

「……だな。清水もいるし、大丈夫だな」

 穏やかな顔で呟いた柳田は、少しだけ大人びた空気を纏って目を伏せる。

 柳田が考えていることは分からない。ただ、今までこいつが口にしてきた『大丈夫』とこれからの『大丈夫』に大きな違いがあることだけはっきりと分かった。伏せていた目を陽が落ちたときとは別の暗さへと変化した空へ向ける。

「ありがとな、清水」

 柳田がくしゃくしゃの笑顔を俺に向けた。

「どうってことねぇよ」

「つか、なんでわかったんだよ」

 純粋な疑問を俺へとぶつけた柳田は開封したおにぎりを口にする。具は、おかかだ。膝の上にあるもう一つのおにぎりはツナマヨだ。

「お前は大智さんに気付いて身体竦めてたから分かんなかったろうけど、俺は柳田のことずっと見てるし、大智さんのこと正面から見たし、そん時に気付いたんだよ」

 ほーん、と興味なさ気に相槌を打つと、再びグラウンドへと目を戻した。耳を劈くような甲高い音が響く。柳田が、詰まったな、と呟いた。

「柳田は野球好き?」

「別に?まぁ、テレビでやってたら見るけど」

「そんなもんか」

「野球好きだったら剣道やってねぇだろ」

「確かに」

 特に好きでも嫌いでもない梅の酸っぱさを乗り越え、最後の米と海苔を口に放り込んだ。

「清水って、梅干し好きなん?」

 食い終わってから聞くか、と喉まで出かかるが、言ったところでどうにもならない。緩く首を振ってから烏龍茶のペットボトルのキャップを捻る。

「好きじゃねぇよ」

「は?じゃあなんで選んだんだよ」

 好きなの選べっつったろ、と柳田は眉根を寄せながら文句を垂れた。余程腹が減っていたらしい柳田は先程開けたばかりのおにぎりも食い終わっている。

「いや、癖だわ。あいつ、梅食えねぇから」

「あー、弟か。元気?」

「元気元気。学校楽しいみてぇだわ」

 大会に一度だけ顔を出した弟を柳田は覚えているらしく、もう小学生か、と親戚のオッサンのように言っている。スリーアウトとなったらしく、審判の声が響いた。同時にワラワラと部員達がグラウンドの中で交差する。

「あれから様子は?よくなったん?」

「まぁ、前よりは。デカい音はまだ怖いってよ」

「んじゃあ、見学はまだ先だ」

 ああ、と弟のことを知る柳田に静かに頷き、ペットボトルを振った。バシャバシャとミネラルウォーターが音を立てる。

「意外とブラコン?」

「んなわけ。なんつーの?大事だし、かわいいし、心配ではあるけど、そんな“誰にもやらん!”みたいなのは一切ない。……普通に幸せになってほしい」

「親かよ」

「……そんなもんかな」

 兄弟以上親子未満。ぼんやりと浮かんだ弟への想いは嘘偽りのないもので、弟から父親を取り上げた時から今まで、父親代わりをしているのだから当たり前だ。

「で?好きな具なんだったんだよ」

「なんだろ、おかか?」

「早く言えよ。食っちまったじゃん」

「そこまでじゃねぇよ」

 ツナマヨも好き、と呟いて膝の上にあるそれを手に取った。


***


 なに、話してるんだろう。

 俺に関係ないことなのも、部活に集中しなければいけないこともわかっている。けれど、どうしても俺以外に向けられるあの笑顔の理由が気になって仕方がない。空はだんだん暗くなってきているし、空気も少しずつ澱んできたように感じる。全部が重たい、と溜息が出そうだ。

「髙橋」

「……なに」

 いつもの調子よりだいぶ低い声でマサに答えると、彼は彼でバツが悪そうに溜息を吐く。頭を掻いて、下を向いて、空を見上げて。無視してグラウンドへ戻ろうとすると、左腕を掴まれた。

「お前、どんだけ打てる球見逃してんだよ」

「調子悪ぃんだって」

「一年にレギュラー取られても知らねぇぞ」

「うるせぇな」

 こんな弱小で、と言いそうになって口を噤む。ここにいる全員を敵に回すのは良くない。それに、強豪へ行くだけの実力がなかったのは事実だから、ここにいる俺も弱い。

「八古、落ち着け」

 髙橋も、と先輩が冷静に窘めマサの肩を何度か叩く。パンパン、と切り替えるように促す音を聞きながら、被っていたキャップを取り去り頭を下げる。

「すみませんでした」

 マサが悪くないのは火を見るより明らかだ。集中出来なくて、コースも見極められなくて、注意されて、臍を曲げているのは俺だから。

「ゲーム再開するぞ」

 顧問の声に揃って応え、それぞれが攻守に分かれて自分のいるべき場所へと走っていく。流石に切り替えなければ、とエナメルバッグに置いていたグローブを手に取った。

 打席も嫌だけど、守備に立つのはもっと嫌だ。あの二人が見えるから。特別な関係ではないのだろうけれど、清水を見詰めていたハルの寂しそうな目が忘れられない。好きではないのならあんな目をするはずがない。俺と同じで、普通と違うということに悩んでいるのか、それとも否定したいのか。ハルのことを実はなにも知らないのだと実感して、身を引き裂かれるほどの痛みに身体が震える。

 カキーン、と芯を捉えた音がグラウンドいっぱいに響く。それとともに、走れ、と檄を飛ばす先輩のガラガラな声がこだました。高く上がったボールはフェンスへ真っ直ぐ飛んでいく。

--間に合わねぇよな。でも走るか。どうせボール拾うし。

 間に合うわけなんてない。わかっているけれど、なにもしないのは違う、と自分に言い聞かせて走る。ガシャン、とフェンスにぶつかったボールは重力に従って落ちてくる。ボールは地面に落ち、大きくバウンドした。中途半端な高さまで上がったそれをグローブの中に招き入れ、ギュッと感触を確かめてから握り直す。ピッチャーが両手を振っていた。青臭いような、湿気を多く含んだ空気が頬を撫でる。

 部活が始まる前より暗くなった空から、ポツポツと冷たい雨粒が落ちてきた。頭だけは濡れることがなく、肩がどんどん冷えていく。

「やべ、早く上がんぞ」

 グラウンドから木陰へと急いで走る部員と、諦めてゆっくりと歩く部員と、いそいそと帰り支度をしているハルと清水。グラデーションのように異なる全部が俺を置いてけぼりにする。

「おい」

 雑に呼ばれて振り返るとマサがいて、俺の頭に自分のタオルを掛けた。

「風邪引くぞ。情けねぇ顔してんなよ」

 行くぞ、とぶっきらぼうながらも心配しているらしく、俺の背中に腕を回して歩くように促す。それに従って歩いていくと、ハルがフェンス越しに手を振っていた。

「侑司、風邪引いちまうぞ!」

 と、同じことを言われたはずなのに、やはりハルに言われると嬉しくてふと笑ってしまった。

「お前が好きなのって、柳田だよな」

「……そうだよ」

 どうせバレている。隠す必要がなくなったと割り切って、向けられた質問とも確認とも取れる言葉に頷く。付き合いが長くなればなるほど、隠し事も誤魔化しも難しくなるものだ。

「いつから」

「クラス替えしてすぐ。自己紹介の時に一目惚れ」

「お前が?珍しいな」

「運命感じちゃったよね」

「アホか」

 溜息を吐いて濡れたタオルをマサの胸元に押し付ける。

「アホかもしんないけど、俺はマジ。けど、勝ち目あるかなぁ」

「勝ち目?」

 誰に、とマサは呟いて首を傾げた。

「本人は無意識かもだけど、アレ、好きでしょ」

 友達にしては近い距離と、他に見せるのとは違う優しさ。ハルはみんなに優しいけれど、清水へのそれと、窓の向こうにいる彼を見ていた目が物語っている。

「……そうか?考え過ぎだろ」

「はー、やめやめ。つか、さっさと帰ろうぜ」

 ハルは先輩と話している清水を待っているらしく、傘を差したまま携帯をいじっている。

「ハル、帰らんの?」

「ん?ああ、おつ。帰るけど、清水がふたりと話したいって」

 清水に目を遣ると、ハルは声を掛けようか少し悩んでやめた。ハルの傘を叩く雨の音がうるさい。

「髙橋、着替えねぇと」

「あ、うん」

 俺のエナメルバッグを少し引き摺りながら持って来たマサに、引き摺んな、と文句を言って受け取る。屈むとハルが傘を傾け、俺とマサを雨から遠去けた。母は雨に降られることをわかっていたらしく、ビニール袋に包まれた着替えが入っていた。

「お疲れ、ふたりともこのあと暇か?」

 清水が戻ったらしく、清水も同じように傘を傾けた。立ち上がっても、それにぶつかることはない。

「暇っつーか、帰るだけだな」

「雨だし」

 マサと答えると、清水はハルと顔を見合わせて、少しだけ口角を上げた。

「じゃあさ、ちょっと遠出しねぇ?」

 イタズラっ子な笑みを浮かべるハルに、無意識で頷いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る