れるられる
自分の下衆さが嫌になる。いや、奢る、と言われてついてこなかったところから考えるに、幾分マシかもしれないが、釣られた話題が話題なだけに、やはり下衆だ。
「なに食う?」
「いや、ドリンクバーだけでいい」
「そ?」
俺は食うぞ、とメニューに目を落とし選んでいる様は、同年代の男子らしい顔だ。
清水の過去について、ザックリとだけ、あのデリカシーのカケラもない馬鹿によって知る羽目になった。それは清水にとっても誤算だっただろうし、不仲とはいえ知り合いということもあり、申し訳ないとも思う。
目の前の清水がテーブルチャイムに手を伸ばし、それを押す。ポーン、と電子音が鳴るとカツカツと靴底がフロアにぶつかる音が響き、店員がテーブル前に立った。
「えーっと、チキンとカットステーキのセットにドリンクバーとスープバー付き一つ」
「それとドリンクバーで」
かしこまりました、と注文を入力した店員はそのままテーブルを離れていった。
「先に取ってきたら?」
「え、ああ。おう」
と、答えそのまま席から離れようとして、部活の奴らと来た時に言われたことを思い出した。振り返り、清水、と呼ぶ。ふと上げられた間抜けヅラと目が合った。
「なに飲む?」
慣れないことをしているからか恥ずかしくなり、思わずその目から逃れようと顔を逸らしてしまう。柔らかい空気を肌に感じた。
「大丈夫だよ、俺スープバーもあるし。自分のだけ取ってこい」
サンキューな、と柔らかい声色が鼓膜を揺らした。が、それは俺の望んだ答えではない。無意識に眉間に皺が寄り、あっそ、と言うしかできず、そのままドリンクバーコーナーへ向かった。
--八古ってひとりっ子?
--そうだけど。
--あー、ぽいわ。
と、部活の奴らに言われたのが気に食わず、なぜそう思うのかすら聞く気になれなかった。それを気にして聞いたにも関わらず、今度は清水に変な気を遣われたようにさえ思える。
ドリンクバーカウンターにある山と積まれたグラスから、一番上のひとつを手に取りマシンに置く。なにを飲もうか、なんて考えもせずいつも通り烏龍茶を選んだ。意識をしなくても溢れない程度の量を注いだところで、マシンのボタンから指を離す。人にぶつからないようにだけ気を付けて席まで戻ると、清水が携帯をいじっていた。
「ん、行ってきたら」
「おう」
手元の携帯をたたみ、テーブルの隅に追いやると、中腰で窮屈そうに席から抜け出し、俺が来たのと同じ通路へと足を向けた。入れ替わるようにテーブルとソファーが作る噛み合わない凸凹に身体を差し込み、中程で深く腰掛ける。硬い背もたれが背中を押し返した。
夕方。子どものいるテーブルよりも、高校の先輩や他校の生徒の姿の方が多い時間帯は、静かなようで絶えず誰彼が話し動き、音が絶えることはない。時折湧き起こる笑い声や、嘆くように上げられる声は耳障りだ。
「結構人いるな」
「……そうだな」
まだ戻らないだろうと寛いでいるところに話しかけられ、驚くことでもないのに身体を跳ねさせてしまった。野球部の奴らなら確実にバカにして笑う場面で、いつものように額に手を当てる。しかし、依然として笑うような声は聞こえず、逆に不安が掻き立てられパッと顔を上げると、呑気にカルピスを啜る清水と目が合った。
「なにから話す?」
なんでもないように話題を探す清水に拍子抜けしながらも、本来の目的へと進み始めた時間に胸の辺りがザラリと紙ヤスリで撫でられたように騒ついた。
「お前の、家族のことと、お前のことを」
聞かせてくれ、と閉じ切っている喉から絞り出す。それを聞いた清水は、柔らかい表情で頷いてひとつ、息を吐いた。
「うちは、俺と母さんと、弟の三人家族。サラッと話したけど、俺の実の父親は俺が小学生の時に死んでる」
「うん」
「消防士だったんだ。デッカくて、優しくて、カッコよくて。……昔、デカい火災事故があったの、覚えてないか?」
ああ、と声とも呼吸とも取れる音が口から溢れ、覚えていることを示す。
よく覚えている。家が遠いものの、絶えず鳴り響く消防車の警鐘とサイレンが怖くて、ひとりで部屋に篭り、布団にくるまっていたのを覚えている。当時はニュースなんて見なかったし、見たとしてもきっとトラウマになるような映像しか流れなかっただろう。確か、
「どっかの工場火災、だよな」
「そう。そこに親父がいたんだ。その時で三十四歳かな。後輩と逃げ遅れた人を助けようと火の中に入った、って。」
理由は後から聞かされたのか、清水自身もどこか他人事のように、その事故の詳細については話している。が、それも束の間だった。
「親父がいなくなってから、確かに生活は大変だった。ひとりの時間も増えたし、母さんは疲れてんの見て分かるし。あ、わがまま言っちゃダメなやつだ、って子どもだったけど思ったんだわ」
ああ、それも知っている。
忙しい両親を煩わせないよう我慢をしなければ、と自分に言い聞かせていた俺と、片親になった母を煩わせまいと理解した清水は、境遇は違えど、同じ苦しさを知っている。
「けど、その時には剣道も始めてたし、行きだけ我慢すれば、帰りは大体母さんが来てくれたから、寂しいとかもなかった。誰かしらがそばにいてくれた」
やんわりと、同じではない、と言われた気がした。いや、清水は俺の家のことを知らないのだから、そんなことがあるはずがない。だが、塾の行きも帰りもひとりで、帰ってからもひとりだった俺はそれがどうしようもなく羨ましい。
「髙橋から聞いたけど、八古んとこは両親が忙しい人だって。八古からすると、俺は甘やかされてるんだろうな」
ああ、そうだ。
喉まで出かかった言葉はつっかえ、言葉にならずに腹へと戻る。分かっているのだ。清水に恨み言を言っても仕方がない、と。本人に言ってもそうだったのだから。
「いや、いいけど……その、再婚相手って」
「ああ、もうそこ行く?」
と、苦笑いして、一度カルピスの入ったグラスを手に取り傾けた。清水のゴツゴツと目立つ喉仏と連動するようにグラスの中身は減っていく。カラン、と氷が音を立てた。
「母さんが再婚したのは、俺が九歳の時。そいつも、消防士だった。親父の後輩で、ついこないだ知ったけど、そいつだった」
親父と火の中に入ったの、と続けられた言葉に、背中が一気に冷えたような肌寒さを覚える。
「そいつが、まぁクズで。最初のうちは良かったけど、だんだん俺と母さんの中にあった《親父の影》に耐えられなくなったらしいんだ」
意味が分からず、じっと清水の言葉を待つ。清水はただ呆れをその顔に滲ませ、言葉を選んだ。
「……俺は親父に似てるし、母さんの手帳には親父の写真が入ってるし、って。当たり前じゃねぇのって思うけど、耐えられなかったらしい」
清水は目を瞑り、深呼吸をした。数度そうして、次にその目が開かれた時には、呆れではなく強い嫌悪感が溢れて激しい怒りがそこにあった。
「妊娠が分かったのは、まだあいつがまともな時だった。喜んでたよ。いい親になるって、確かにあいつは言った。母さんも、喜んでた」
幸せそうだった、と荒げまいと抑えられている声は震えていた。
先程までの清水には父親との思い出や俺への遠慮を孕んだ純粋な怒りではなく、煤を含む真っ赤な炎であるなら、今はただその男に対する怒りだけが燃えていて、研ぎ澄まされた真っ青な炎のようだ。
「お待たせ致しました、チキンアンドカットステーキのお客様」
空気なんて一切読まない、定型文を読むだけの店員の声に、清水は即座にその炎を消す。柔らかい笑みを浮かべて手を挙げ、ありがとうございます、と告げるとそのまま下がっていった店員を見送り、フォークとナイフを手に取った。
「んで?」
落ち着いた怒りを呼び起こしたい訳ではないが、純粋にその後を話すように促すと、清水は静かに口を開いた。
「弟はそいつに似てなかった。母さんに似てて、そいつより俺に懐いた。まぁ、俺の方が世話してたし。けど、それが気に入らなくて、俺が道場行ってたり、家にいない間に弟をぶったりしてた」
最初は気付かなかったけど、と鞘に納めたものは出てこず、静かに目の前の飯を食い進めている。
「赤ん坊のうちってさ、顔そんなにどっちに似てるとかないじゃん」
「あれだろ、ガッツか朝青龍」
「そ。弟はどっちかっつーと朝青龍だった。母親似か父親似かなんて分からなかった。だからあいつも気にしてなくて、可愛がってたんだ」
カツカツと鉄板を叩くナイフの音と、グツリと肉を割くフォークの様に気を取られるが、清水は真剣な顔のまま話をしている。
「なぁ」
「ん?」
呼び掛けて上げられた目は悲しげに見えた。
「味すんの?」
んな話しながらで、と嫌味ではなく純粋に聞いたのだが、清水は眉間に皺を寄せた。
「するだろ。食ってんだから」
「いや、なんつーの……まぁ、いいわ」
天然なのか、単なるボケなのか。分かりにくい反応をして見せた清水に拍子抜けし、何かを言う気は失せた。氷を鳴らし、烏龍茶を流し込む。背中まで冷えた気がした。
「俺が警察沙汰になったのは、目の前で母さんをぶったクズを殴ったから」
「クズ……」
子どもに手を上げる人間は、確かに総じてクズなのだが、実際に他人がそう言っているのを聞くと、決まって不快感に襲われるのだ。
「前も言ったけど、後悔はしてない。弟と母さんのためだったし、警察沙汰にはなったけどそれで離婚の踏ん切りもついた、って母さんに言われた」
それで充分なんだ、と呟いた清水は、俺の苦手な柔らかい笑みでいた。
「お前は、なんでそんなに」
「なに、質問?なんでも聞いていーよ」
カツカツと付け合わせのコーンにフォークを突き立てながら話の続きを待つ清水に、溜息が出た。
「なんで、他人のためにそんなに怒れる?」
「他人?家族は他人じゃねぇだろ」
「お前は殴られてねぇだろ」
「あー、そういう」
違ぇんだよな、と綺麗に何もなくなった鉄板にフォークを横たえ、清水はテーブルに肘を突いた。深い溜息が聞こえる。
「八古って、家族嫌いなん?」
ブスリと刺された核心は深く、俺を仕留めるには充分だった。が、放置してたまるか、と口を開く。
「俺の家の話、聞くか?」
「……そうしようかな」
市民体育館で見たきりの冷たい目で俺を上目に見て、どーぞ、と他人行儀に清水は促した。
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