愛しと知るは君だけ
受け持つならサボりたい教え子の方が、何かと楽だと思ってしまう。真面目なはずのこの高校の生徒ですら、毎日のように誰かしらがサボり、時折ボイコットのように誰も来ないなんてことがある。道場ではそんなことは一度たりともなかった。
ああ、どうしてもひとりになるとあの子達を、否、晴樹と健太郎を思い出してしまう。
物思いに耽っていると、格技室の重い引き戸をガラガラと開き、いた、と呟く声がした。
「大智さん」
と、その物音の主は聞き慣れた愛しい声で俺を呼び、律儀に上履きのスニーカーを脱いでダンダン、と格技室の床板の上を踵を鳴らしながら近付いてくる。
「もう顔も見たくないんじゃなかったのか」
「そうだけど、ちゃんと話をしに来た」
この二週間やそこらの間に、なにが晴樹を変えたのだろう。いや、晴樹は昔からこうだ。真っ直ぐで、純粋で、ずるいことや筋の通っていないことが嫌いな、いい奴だった。
「話、って?」
言いにくそうに俺から視線を外し、晴樹は葛藤しながら口を開く。
「大智さんは、あの人達とグルじゃなかった、ってホント?」
「どうだろな」
肯定でも否定でもなく、実際のところ俺がどこにいるのかを分からない、と含みを持たせると、晴樹は顔を歪めた。
「それは、どういう--」
「ただ、俺はいつもお前を送って帰ったあとは店に戻っていないし、お前が先に帰った時も女の子には指一本触れてないよ」
これはホント、と誰も信じなかった言葉を諦めとともに吐き出して、苦しそうな晴樹の顔を見遣る。どこまでも純粋で、優しい晴樹は澄み切った目で俺を見詰めていた。
「けど、俺と一緒にいたから晴樹はあいつらに利用された。その事については、赦さなくていい」
違う、と否定しようと口を開いた晴樹は言葉を飲み込み、グッと押し黙り俯いた。悲しい程に、晴樹のことはこの掌の中にあるように、心の内を見透かしているように分かってしまう。
「なんで、大智さんは……」
「弁明する気も、赦しを乞う気もなかったんだ。晴樹には……俺とのことをそっくり忘れて、幸せになってほしかった」
浅く繰り返していた呼吸を飲み込んだ晴樹は肩を跳ねさせ、パッと顔を上げた。その顔に嫌と言うほど思い知らされる。
「俺は、ちゃんと……お前を好きだったよ」
なにも言わず、その場にいるだけの晴樹の顔がグシャリと崩れ、その目から一筋涙を溢した。
「俺を忘れてくれ。ゆっくり、好きになれる人を探してくれ……ずっと、ごめんな」
ありがとう、と言葉を吐き出し、晴樹の涙に濡れた頬に手を伸ばす。それに擦り寄るように顔が傾き、手が伸びてきた。その高い温度は触れずとも俺の手を温めてくれる。
「大智さん」
「ゆっくり、俺を忘れてくれ。お前を、これ以上苦しめたくない」
もう十分なんだ。お前の中に止まるのも、お前の気持ちも、俺の後悔も。
伸びてきていた、顔のすぐそこにある手に触れ、柔く握ると、俺の手を温めようと握り込まれた。グッと、強く握るのでも、爪を立てるのでもなく、添えられるように優しいそれは、ただ俺の中にある熱く、深い感情を掻き乱すだけだった。
「ありがとう、大智さん」
「気にすんな。ちゃーんと、幸せになれよ」
うん、と頷いた晴樹は、俺よりデカくなった身体を微かに屈めて微笑んだ。その微笑みも、真面目な顔も、悲しげな目も、全部愛していた。
「俺、今日大智さんに会いに来て、気持ちの区切りがついたよ。会いに来て、よかった」
ハッとした。たった一言で、晴樹の言わんとしているところが、濁流--いや、踏み荒らされていない真っ新な雪が雪崩れるように俺の中に入ってきた。
「俺、ちゃんと俺を好いてくれてる奴と、向き合うよ」
唇の間から見える八重歯も、目尻に薄く寄っている皺も、愛おしい温度も、もう俺に向けられることはない。今、ハッキリと分かった。
晴樹には、ちゃんと好きな奴がいる。
「お前、元カレにそういう報告いらねぇから」
まっすぐで、純粋な目の前の男子高校生は、そいつと幸せを掴めばいい。俺は晴樹の運命の相手ではなかったのだ。
--ねぇ、大智さん。
--ん?どうした?
「ハハ、それもそうだね。でも、大智さんには伝えたかったんだ」
--大智さん、俺のこと嫌いですか?
--嫌い?んな訳ないだろ。
「ホント、お前には敵わないよ」
--じゃあ、俺と。
--え?
逸らされることのない今にも泣き出しそうに濡れていた瞳は、今は細められ口元は柔らかな笑みを浮かべている。その顔を、晴樹の笑顔をまた見られただけで、俺には十分すぎた。
「気が向いたら、冬にもう一度来い。うちの部も、誰か入らないと廃部だ」
「そうなったら、大智さんは……」
「もう、来ることはないな」
言葉を切り、少し考えた晴樹はゆっくりと頷いて指先で頬を掻く。
「清水にも、一応言ってみるよ」
「無理に説得しなくていいからな」
「うん。清水は、多分俺が大丈夫なら、って言うから」
理解し合っている後輩二人が少しだけ羨ましくもあり、嬉しくもあり、そこに交れなくなってしまった自分を恨んだ。ただ、そうか、と言うしか出来ない。
「じゃあ、俺もう行くね」
「ああ。じゃあな」
「うん……大智さん」
ん、と聞き返すと晴樹は破顔し、胸の辺りで拳を握ってみせた。
「俺、幸せになるね」
「……そうしてくれ」
ガタン、と音を立てて閉じられる引き戸に涙が溢れた。
咄嗟にポケットからスマホを出して、適当に、誰か手の空いてそうな奴を探し、表示された数字をタップする。
「……ああ、もし?俺。うん。飲み行かね。うん。そう。オバチャンとこでいい?うん。じゃあ後で。……は?失恋?してねぇし」
***
早く会いたい。
人がまばらな廊下を走りながら、頭の中はそれだけで埋め尽くされ、待たせたままの侑司の元へと向かう。どんな顔で待っているのか、どんな顔をするのか、楽しみなような怖いような心地に胸が躍る。
学校の一番端にある講義室に着いた頃には、人気なんてなくて、俺の心臓だけがバクバクと廊下にこだましているようだ。うるさい心臓を深呼吸をしてドアに手をかけゆっくりと開けると、先程まで俺といた場所に侑司は膝を抱えて座っていた。
「ゆーうじ」
少しふざけて呼び掛けると、膝の間に埋められていた顔がゆっくりと上げられ、柔らかく微笑んだ。隣に腰を下ろすと侑司の手が伸びてきて、俺の指を絡め取り柔く握られる。
「おかえり」
「ただいま。待たせてごめんな」
んーん、と緩く首を振った侑司はうつらうつらとしていたようで、目尻に薄く涙が溜まっていた。
「眠い?」
「ちょっとだけ、でも大丈夫」
「そか」
潤んだ瞳が俺を映して、ゆっくりと細められる。その様がどうしようもないほど、懐かしい感情を掻き立てる。
触れたくて、愛おしくて、壊したくなくて。
大事に大事に扱おう、とそっと侑司の頬に触れる。柔らかくて、温かい。
「侑司、好きだよ」
臆病な俺の喉が引き絞られて、声帯を震わせるよりもただ息を吐き出すに近い声が発せられた。
ああ、もう。すんげぇだせぇじゃん。
「俺も、ハルが好きだよ」
付き合ってくれる、と小首を傾げる侑司がどうしようもなく愛おしくて、かわいくて、脊髄反射で動いていた。
柔らかくて、あったかくて、少しだけカサカサとしている唇に血液が沸騰するような感覚を覚えた。目の前の侑司の、見開かれた目すら愛おしい。
ゆっくりと顔を、唇を離し愛おしさから綻んだ顔のまま侑司の頬を両掌で包み込む。
「待たせてごめんな」
「んー……大好きだから、許したげる」
ヘラリと、いつも通り笑っているつもりらしい侑司の顔は赤くて、少しだけぎこちなくて、少しだけ泣きそうだった。
「どうしよ」
と、侑司が微笑んだまま言ったかと思うと、次の瞬間、その頬を涙が伝った。それを掬い取る侑司の手は震え、しゃくり上げながら、違う、待って、と繰り返す。
「どした?」
「嬉しすぎた、止まらん」
やばい、と目元を抑えながら繰り返す侑司は子どもみたいで、背中に腕を回してグッと華奢な身体を膝に乗せる。
「うわ、近っ!ヤバ!」
そう言っている顔も嬉しそうで、俺にどんどん幸福を与える。
頭オカしくなりそう。
「え、ねぇ。付き合ってるんで、合ってる?」
「合ってるよ」
「ハルも、俺のこと好き?」
「うん、大好き」
「うわぁ」
恥ず、と両手で顔を覆った侑司が呟いて、頭を俺の肩にもたれた。数回撫でていると、侑司の顔が傾き、首元に熱い息がかかった。
「え、デートとかさ、できるわけ?」
「もちろん」
「え、どこ行く?」
「侑司の行きたいとこ行こ」
「ハルは?行きたいとこねぇの?」
小声で、ずっと叫び出しそうなのを抑えるようにボソボソと話す侑司は、まるでイタズラを企てる子どもだ。少しずつ傾き始めた陽が講義室を飲み込もうと照らした。
「次の土曜、明後日とかどっか行く?」
「明後日か……日曜は?」
「いいよ。部活あるけど、その後なら」
なんかあるん、と俺から少し身体を離して、つか、重くない、と聞いてくる侑司に首を振る。
「うち、ばあちゃんが施設入ってて、土曜は俺が様子見に行く番なんだよね」
「そうなんだ。大変だね」
「まぁ、それなりに」
侑司の優しさに感謝すると同時に、家の事情に巻き込む申し訳なさに心臓が潰れるような心地がした。
「ハルも、気遣わなくていいからな。なんなら一緒にばあちゃんとこ行くよ」
「それもいいな。ばあちゃん、喜ぶかも」
こんな話してごめんな、と苦笑いすると侑司が首を振って、気にしないで、と柔らかく笑った。少しだけ、潰れた心臓が形を取り戻した気がした。
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