後悔と不快

「ありがとうございました!」

「はーい、ちゃんと汗の処理しろよ」

「はい!」

 と、俺の言葉に素直に返事をする生徒達に、自然と口元が緩む。大学の後輩達もそうだったな、と思うのと同時に、いつもそれを塗り潰すように道場の子達が現れるのだ。

 俺を見付けると笑顔で駆け寄ってくる彼らは、本当に可愛くて、弟のように思っていた。みんながみんな懐っこい子達だった訳ではないが、それでも慕ってくれているのだと全てから実感していた。

 ああ、晴樹と健太郎に最後に会ったのはもう二年前もか。

 脳裏で俺に笑顔を向ける晴樹は幼いままで、今日、格技室の前でパッと見てすぐに晴樹だと分かったわけではない。よく見れば背も伸びて、俺なんかよりもデカくなっているし、必死にあの時のことを忘れようとしているのだと、それだけははっきりと分かった。

 晴樹だけではない。健太郎も更にデカくなって、相変わらず仲間思いのいい奴だ。それが誇らしくもあり、悔しくもある。

 着替えをしながらボーッと考えるのは、どうしても格技室の前にいた後輩ふたりのことで、今は自分の教え子もいるのに、なんて軌道修正をしようにも止まらない。

 後悔しても仕方がない。分かってはいるが、しないでいるのも、できそうにない。

「すみませーん、鍵、お願いします」

 事務員に格技室の鍵を預け、正面玄関から出る。

「深津、お疲れ」

「ああ、先生。お疲れ様です」

 俺の母校から転任したらしい元担任に呼び止められ、揃って駐車場まで歩いていると、数人の生徒から挨拶をされる。体育教師らしい快活さを夜まで維持しているのは、この人くらいのものだ。

「深津は今は?うちでの指導以外はなにやってんだ」

「大学の時にバイトしてた塾でそのまま講師やってますよ」

「講師か。時給いいよなぁ。お前ならよく懐かれるだろう」

「ハハハ……まぁ、そうですね」

 事実だが、どうしてもこの人が苦手で、否、晴樹と健太郎の顔がちらつき、表情筋がうまく動かない。

 ピーッピーッ、とロックが解除された音がする。

「じゃあ、頑張れよ」

「はい。ありがとうございます」

 バタン、と勢いよくドアを閉め、元担任の顔が見えなくなった。同じように乗り込み、キーを回す。ダッシュボードからタバコとライターを引っ掴み、一本指に挟んだ。流石に敷地内では吸わないが、早くこの寿命を縮めるだけの煙を肺に入れたくて堪らない。この一本だけでいいのだ。

 エンジンも温まり、先生方や迎えに来ていた保護者の車も少なくなった頃。日もすっかり沈んで辺りは暗くなっていた。いい加減行くか、とゆっくりとアクセルを踏み車を出す。仕事もない夜、自宅に帰る気にもなれずひたすら車を走らせた。

 高校から十分離れた海岸沿い。海開きはしているはずなのに人も車も少ないそこは随分と景色がいい。車から降りると潮の匂いが鼻を刺激する。夏にも関わらず風のせいか幾分肌寒く感じる気温は日中に比べると心地よく、ここで吸おう、とライターを握り直す。

 どれ程の後悔を積み重ねれば赦されるのだろう。

 成年部の人達には、別に赦されなくていい。けれど、晴樹や健太郎や、他の可愛がっていた面々にあれ程までに嫌われたとなると、いよいよ兄弟を失ったような苦しさで息が出来なくなる。

「安いもんか」

 知らなかったとはいえ、晴樹や健太郎を傷付けた。それで済むはずもなく道場に居場所はなくなり、晴樹に謝ることも出来ないまま別れることとなった。

 大学時代に連んでいた奴らの所業について知ったのは、成年部の人から問い正された時だった。もっと早くに知る術はあったのだろうが、そこまでの興味や関心を彼らに抱くことはなく、ただぼんやりと近くにいたに過ぎなかった俺は考えもしなかったのだ。

 あいつらのしていたことは赦されない。聞いた時は現実かを疑い、一度頬を強くぶたれたい気持ちにもなった。だが、尋常ではない剣幕で俺に迫ったあの人の表情が全てで、自分に深く失望したのだ。

 確かに、一度晴樹にも聞かれたことがあった。晴樹は自分だけが先に帰されていたと思っていたようで、声を震わせて“なにをしているのか”を聞かれたが、当時は俺も知らなかったから、なんのこと、と返したのをとぼけたと思われたのだと理解した。

--この子大丈夫か?家まで送った方が……

--あー、俺ら送るからダイジョーブダイジョーブ。

--深津は?この後俺らカラオケ行くけど。

--いや、俺はレポートあるし帰るよ。

--あ……そ。じゃあ、また明日な。

--おう、明日。

 全部、俺は見落としていたのだと問い正されて初めて気が付いた。深く考えず声を掛けられたからと連むようになり、さほど興味のない話に耳を傾け、ただそこで笑っているだけだった。それが仇となったのだ。

 ただ飯を食いに行くだけだと思っていた。ただくだらない話をしに行くだけのつもりだった。ただ、そこに晴樹を連れて行っただけだった……はずなのに。

 晴樹は優しい。人懐っこくて、聞き上手で、話すことが好きで。まさか、それをあのクズ共が利用すいるなんて思いもしなかった。

--晴樹は?

--あ?アレ。

--……なにしてんの。

--俺らじゃ警戒されっから、ナンパ待ちさせてる。

--は?中学生になにやらせてんだ。

--いや、アイツ毒気がねぇからさ……ホラ。

--つか、中学生誑かせといてよく言うわ。

 目の前で晴樹が女の子に声を掛けられ、 クズ共と俺がそこまで行く間、ずっとその子と話しているのを俺は三度見た。その度に腹の中で真っ黒でドロドロとした醜い汚泥のような感情が渦巻いたのを、今でも鮮明に覚えている。

 あの時、恥も外聞もかなぐり捨てて喉が千切れるくらい叫べばよかった、とも思う。

--あ、大智さん、今来たん?

--そうだけど……。

--……怒ってる?

--……怒ってねぇよ。

 不安そうに少し低い位置から俺を上目に見る晴樹に、俺は強く言えなかったのだ。

 咥えたままだった煙草を指先で摘み、指で弾いて灰を落とす。肌寒さから無意識に身体が震え、パーカーを着るべきだった、と少しだけ後悔した。ぐしゃぐしゃと雑に頭を掻き、今日のことを思い返す。

 悲しかった。あんな目を向けられたことが。だが、当たり前だ。俺はふたりを裏切ってしまったのだから。晴樹があんなに嫌がるのも、健太郎が俺にああ言ったのも、自業自得だ。

「分かってんのに。馬鹿か、俺」

 わざと嫌な奴を演じる必要なんてなかった。腹が立った訳でもないのに、自ら嫌われようと健太郎の胸倉を掴むなんて、そんなことをして何になる。

 堂々巡りの思考は自己嫌悪と後悔ばかりで、先程までの小さな後悔なんてすぐに失せた。吐き捨てど、募るものを落とし切ることなど出来はしない。

 しかし、ああなっては二度と視線が交わることも、言葉を交わすこともないのだろう、と少し安堵する。

 晴樹にも健太郎にも、今はもう俺は必要ない。安堵したはずなのに、胸の辺りがチクリと痛む。それが腹立たしくて痛んだところを強く殴る。

「優しいのは、変わってねぇよな」

 一発ぐらい殴れよ、と口を突いて出た。

 だか、もしも晴樹と話すことがあったとして、俺は何を言うのだろうか。

 弁明も、謝罪も、きっと晴樹は望まない。まず言葉を交わしてはくれないだろう。俺が独り言のように寂しく、あれこれ一方的に話すに違いない。それで構わない。赦されなくていい。それでいいから、俺は晴樹に伝えなければならないことがある。

「あー、ヤダヤダ。誰か飲み誘ってくんねぇかな」

 咥えた煙草を大きく吸い込み、じんわりと効く毒を肺へ巡らせる。ゆっくりと、俺は率先して俺を殺そう。それがきっと、赦しを得るのに一番早いから。

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