不満はない

「ただいま」

 清水をまたも一方的に突き放し、家に帰ったはいいが誰もいない。いい家と飼っているコーギー犬のおぐらだけが、いつも俺を出迎える。それを不満に思ったことはない。

 両親は昔から忙しい人だった。仕事第一、家庭は第二。それのお陰でいい家に住めている訳だし、誕生日やクリスマスといったイベントはきちんと三人揃っていたから、それ以外のことは昔から、こんなもんだ、とどこか冷めていた。愛情を感じていなかったわけでもない。

 リビングのドアを引く。

「あ、いたの」

「匡弘、おかえり。仕事も落ち着いたからね」

 いたのって、と対面キッチンの向こう側で苦笑いする母は穏やかで、仕事が忙しくても夫婦喧嘩が起こらないのは、どう考えても母のお陰だろう。

「お腹は?」

「そこそこ」

「難しい返答やめてよね」

「米となんか肉食いたい」

 作り置きと下拵えの済んだ食材が入っている冷蔵庫を開け、お肉、と呟きその中から二つ手に取った。

「手洗って洗濯物出してね。荷物も置いてきちゃいなさい」

「んー」

 エナメルバッグを担いだまま部屋のある二階へと上がる。広さも、陽当たりにも恵まれている部屋だが、この時間になれば広さ以外の取り柄は失われる。陽が沈んでしまえば、昇るのは沈んだはずの陽に照らされる黄色い月と、死ぬまで光り続ける小さな星々があるだけだ。

 部屋着兼ウェアのジャージとTシャツを引っ張り出し、着ているものをバサバサと脱ぎ捨てる。が、帰ったばかりの身体からは汗や泥の臭いがして、風呂に入ろう、とインナーとボクサーパンツのまま着替え一式片手に持って部屋を出た。

「ちょっと、なんて格好で歩ってるの」

「家だしいいじゃん」

 階段下にいた母は小言を溢し、俺を困ったような顔で見る。それを無視して、先に風呂入るわ、とだけ言い残し脱衣所へ籠ると、ドアを小さく叩かれた。

「なに?」

「ご飯もう少しで出来るから、上がったら温めて食べてね」

「ん」

 短く応えると、何やらぶつぶつと言いながらも気配と足音が遠退いていった。着ていたものを全部脱ぎ、カゴへ投げ入れる。洗面台の鏡に映る、どこにでもいそうな平均的な身体が目に入った。

 もっと背が高ければ、筋肉が付きやすければ、肩幅があれば、もっと、アイツ--清水みたいな身体付きだったなら。

 服を脱いだところも、何ならTシャツ姿さえ見たことがない清水のガタイを思い出して、溜息が出る。あれだけ突出して恵まれた体格なんてそうない。鍛え方でどうにかなるものではない。分かっているが、あれを羨ましく思わない男なんているのだろうか。

「あー、腹立つ」

 俺は、どうしようもなく羨ましい。

 誰もいないところで苛立って、それを吐き捨てる程度にはアイツが、清水が羨ましい。だが、それよりも何よりも、人を羨むだけでなく嫌っている自分に一番、腹が立つ。

 鏡から顔を逸らし、浴室の冷たいタイルに足を載せる。段々と足の底から身体全体が冷えていくような感覚を覚えながら、レバーハンドルを捻った。

 足先だけではなく芯まで温まった身体に服を纏い、昔から言われている通り乾かす程でもない髪にドライヤーを向ける。ゴーッと音を立てて髪だけでなく頭皮まで乾燥させ、少し肌がひりついたところで止めた。ジャージの上を着ようか迷ったが、すぐに汗を掻きそうだ、と後回しにする。

「ただいま」

「ああ、おかえり」

 早ぇのな、とちょうど帰って来たらしい父に言うと、渇いた笑いを溢し、たまにはいいだろ、となぜか誤魔化した。

 母も父も、今日は珍しく帰りが早い。何か予定でもあったか、とカレンダーを頭の中で捲ってみるが、特に思い当たるものはなかった。足下におぐらが戯れついた。

「はい、母さん」

「ありがとう!私からも、これ」

 リビングに入ると幸せそうに何やらプレゼントを渡し合う二人がいた。ああ、そうか。

「結婚記念日か」

「そ、今まで苦労かけたからな」

「確かに」

 酷いなぁ、と笑って母を見詰める父を見て、だから続いてんのか、なんて考える。大体の破綻している家庭は、子どもが成人したら、とか、大学を卒業したら、といったタイミングで離婚を計画するらしい。同級生の中でも、偶然その話を聞いてしまった、というヤツがいて少し同情した。

「匡弘?なにかあった?」

 ご飯食べないの、と父から俺に視線を移した母に首を振って見せて、キッチンにあるらしい料理を温めようと足を向ける。

「よく続いてるよな」

 誰に向けたわけでもない、ただの感心の言葉だが、父と母は不思議そうに俺を見る。

「なに」

「あんた、私たちのこと心配してたの?」

「いや、不思議なだけ」

「なにがだ?おかしなことはないだろ」

 なぁ、と母に同意を求める父は少し頼りない。こんな人だったろうか、と考えるが、過ごしてきた時間が少ないからか、父のことをあまり知らないと気が付いた。父だけでなく、母もそうだが。

「なんでもない。」

 キッチンに置かれた、俺と父の分と思しきラップがかかった二つの皿を見て、やはり距離感が分からない、と内心呟く。

「それならいいけど、なんかあるならちゃんと言ってね」

 離婚を長引かせる理由に子どもを使わないあたり、うちはまだマシなのか、水面下では話が進んでいるのか。本当のことは分からないが、その片鱗を感じさせないあたり、仕事だけでなくプライベートでもデキる人間なのだ、と思わされる。

 自分の分の皿をレンジに突っ込み、レンジをセットし食器棚から茶碗をひとつ取る。

「父さんも、さっさと食えば」

「そうだな」

 米を茶碗によそい温め終わった皿をレンジから出して、自分の分だけダイニングテーブルへと運ぶ。

「なんだ、父さんの分はやってくれてないのか」

「そのくらい自分でやってよ。俺には--」

 続きそうになった恨み言を飲み込み、首を振る。言ったところでどうにもならない。この人たちが気が付いて、もし何か、“あの時はごめん”というようなことを言われても、“あの時”傷付いた俺は傷付いたまま、慰められない。

「そうだよな。自分でやります!」

 ハハハ、と渇いた笑いを浮かべて父はスーツのジャケットを脱ぎ、キッチンへと向かった。箸を取ろうと立ち上がると、差し出される。

「あれ、違ったか?」

「……サンキュ」

「おお、合ってた。よかった」

 俺が抱いていた印象よりも、父も穏やかなのかもしれない。


***


 街灯がリレーをするように、光っては消え、消えては光って俺の足元を照らし続ける。高校に上がってから引っ越した家は、不運にも徒歩では苦痛な程度に遠かった。横を歩く友人なんかがいればどうってことはないのだろうが、柳田や髙橋と違って人付き合いが得意ではない俺には、そんな奴もいない。どちらかといえば、性格的には八古と似ているのだが、なぜか嫌われている。

「ただいま」

「にーちゃんおかえり!」

 勢いよくリビングから飛び出してきた弟を両手で受け止め、抱き上げる。

「健太郎?ご飯出来てるから、早く食べなね」

「はーい」

「今日ね、今日ね!」

「先に手ぇ洗うから、後で聞かせて」

「食べ終わったら洗っといて」

「あー、うん」

 三人しかいないはずの空間だが、弟の賑やかさがそれを曖昧にさせる。小学生になったばかりの弟は俺に聞かせたい話があるらしく、俺の歩調に合わせてバタバタと足音を鳴らし、玄関から台所へ行く間も、ずっと俺について歩いた。

「にーちゃん着替えないの?」

「あとで風呂入るからその時」

「一緒に入ろ!」

「アンタはさっき入ったでしょ」

「にーちゃんと入りたい!」

「また今度な」

 えー、と落胆の声を上げる弟に苦笑いし、蛇口を捻る。冷たい水が湯に変わるのを待ちながら、ハンドソープをワンプッシュ取り手を揉んだ。

「話聞いてやるから、先座って待ってな」

「うん!」

 蛇口から流れる水の柱に手を差し込み、纏わり付いた泡を流していく。段々と滑りがなくなっていくが、代わりにハンドソープの淡い花のような香料が鼻を擽った。

「にーちゃんまだぁ?」

 待ちくたびれた弟が俺を呼ぶ。振り返って見遣れば、椅子の上で足をぷらぷらと揺らし、指でテーブルをなぞっていた。膝より下に掛かっているタオルで手を拭き、今行くよ、と言ってやるとさらに急かされる。さっと身体を翻し、弟の待つテーブルへ行けば、揺れていた足は止まりニッと笑って見せた。

「あのね、今日ね」

「うん」

 いただきます、と母に聞こえるように言い、箸と茶碗を手に取る。皿に盛られた肉野菜炒めを食いながら弟の話に相槌を打つ。

 かけっこをした、腕相撲をした、折り紙を折った、十までの数を覚えた。弟から出てくる言葉は懐かしく、自分も同じように話していたな、と目を細める。

「あとね、にーちゃんのこと、みんなカッコいいって言ってた!」

「え、俺?なんで」

 会ったこともない子どもたちの間でいつの間にか話題になっているらしい俺の像が気になり、詳しく聞こうと顔を見る。ニコニコと嬉しそうな、誇らしそうな笑顔で弟は話し始めた。

「クラスにね、にーちゃんと一緒の道場に通ってるヤツがいてね」

「ヤツって言わない」

「ごめんなさい……」

 茶碗を置き、言葉遣いを母に注意されて落ち込んだ弟の頭を撫でてやる。

「んで?その子がなんて?」

「その子がね、にーちゃんのこと、ケンくんって呼んでてね」

「ああ、小さい子達にはそう呼ばれてるな」

「でね、でね!ケンくんすっごいカッコいいんだよ、って、強いんだよって!」

 そうか、と少し恥ずかしくなり笑うと、目をキラキラと輝かせたまま弟は俺を見詰めた。

「そんなに気になるなら、にーちゃんのこと見に行ったらいいんじゃない?」

 ハイテンションな弟を見兼ねた母が口を挟む。俺はいいのだが、弟はグッと押し黙った。

「どした?」

「……もん」

「なに?」

 もっかい、と咀嚼をやめて隣に座る弟に耳を近付けると、彼はもじもじとしながら、こわいもん、と小さく呟いた。

「怖い?なにが」

「……おっきい、声」

 一度大会を見に来た時のこと、弟の父親のことを思い出し、苦笑いしかできなかった。

 俺と弟は父親が違う。母は最初の夫--俺の父と死別したあと、ある男と出逢い、再婚し、少ししてから弟を授かったのだが、この男が最低だった。

 男は元々父の同僚で消防士だった。父は真面目で、今でも忘れられないほど優しい人だったが、大きな火災現場の崩壊に巻き込まれ殉職した。泣き崩れる大人で溢れた告別式は、当時小学生にもなっていなかった俺にとって衝撃的で、その顔ひとつひとつを鮮明に思い出すことができる。母もその内の一人だったのだが、俺を育てるという母にしかできない仕事が残されたこともあり、確とその足で立ち、涙に濡れた顔のまま前を見詰めていた。

 母は男に頼らなかった。市からある程度の援助を受けていたし、何より看護師として働いていた母は母一人子一人生活するには充分な稼ぎがあった。

--健太郎くん?ホントだ、清水さんにそっくりだ。

 だが、金と子ではどうしようもできない時は、いずれやって来る。

「そうだな。おっきい声、怖いもんな」

 茶碗も箸も置いて、弟を膝の上に乗せる。大きくなったものの、やはり小さいその身体は軽い。高い温度が更に幼さを強調させた。向き合う形でいる弟は、俺に擦り寄りグッと小さな手で俺の服を握る。

--ないしょなの。いっちゃダメって……。

 昔からの癖だ。

「大丈夫だからな」

「ん」

「食べたらお風呂入りなさいよ」

 どこか暗い声で母が言った。

「あ、ホラ。いい子はもう寝る時間だからね」

 お布団行くよ、と、こうなった時は決まって寝付きが悪くなる弟に声を掛け、母が立ち上がる。弟も小さく返事をして俺の膝の上から足を伝って降りた。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 リビングの隣にある寝室へと弟は母に背を押されて入っていく。まだ眠たくないのか、それとも嫌なことを思い出して辛いのか、眉間に皺を寄せながら俺に手を振った。母が指先で壁を叩く。

「ん?」

「あとで」

 ああ、と言って空になった茶碗と皿を手に台所へと向かう。母に言われた通りに茶碗や皿を洗い、水切りカゴへと立て掛ける。

--母さん。あの男、いる?

 弟から父親を取り上げたのは、母ではなく間違いなく俺だ。だが、弟のあの様子を見て、誰がそれを咎めるだろう。大きな声や物音に怯え、腕を上げる仕草だけであの小さな身体を更に縮こまらせる。俺を咎める奴がいるとしたら、それは何も知らない赤の他人だ。

 軽く手を洗い、蛇口を捻る。自分を正当化しているような居心地の悪さを覚えながら、着替えを取りに部屋へと向かう。広い部屋に越したとはいえ、一年程で三センチも身長が伸びてしまった俺には初めて与えられたひとり部屋も狭く思えた。

--二人が幸せじゃないんなら、俺はいらない。

 何かに縋りたかった母を否定したい訳ではなかった。誰だって辛い時は誰かにもたれかかるだろうから、普通のことだ。俺がそれをしないだけで、しなくていいようになっただけで。

 母と弟と、俺との今の生活に不満なんてない。

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