正しくないと知っている

 ああ、憂鬱だ。

 本音を言えば行きたくない。顔も見たくない、というのは向こうさんも同じだろう。だが、背に腹は変えられない。練習はサボればサボった分身体が鈍る。そんなことではいつまで経っても強くなれない。

「部長……ってどんな人だっけ。名前は?」

「えー、覚えてねぇよ」

 格技室までの道でせめて部長の顔と名前を思い出そうとしたが、無理だった。目の前の扉の向こうでは、準備運動をしているらしい声が響いている。開ければ始まる。それは部活かもしれないし、喧嘩かもしれないし。

 憂鬱だ。

「清水」

 開けるぞ、と柳田が引き戸に手を掛け、俺に確認する。珍しく緊張しているようで、柳田の顔は強張っていた。二人揃って深呼吸をし、目を合わせて頷くと柳田によってガタガタと雑音を立てながら扉は開かれた。

 視線が刺さる。俺と柳田を見た中の数名は眉を顰め、睨むように見ている。さすがの柳田も居心地が悪いのか、得意の笑顔は引き攣っていた。部員がコソコソと話し始める。

「アイツら、誰?」

「ほら、去年見学に来た」

「ああ」

 エリートね、と去年のことを思い出した三年連中は嫌悪感を顕にし、他の奴らと同じように俺達を睨んだ。柳田がまた息を吐く。

「すみません、その……お願いがあって来ました」

「エリートさんが俺ら落ちこぼれに?何の用」

 ひとりが嫌味ったらしく言い、姿勢を正して竹刀に手を伸ばした。やめとけ、と制止する人もいるがそいつは聞かずにこちらへと来る。

「いや、エリートとかではないんすけど……」

「んな謙遜とかいーから。なに」

「……俺と柳田が通っている道場が、師範の都合でしばらく休みになったんです」

 で、と刺々しさを隠さずに続きを促すものの、内容如何に関わらず断ることは目に見えている。だが、俺も柳田も引き下がるわけにはいかない。

「短期間でいいんです。早くて来月には再開する予定なので、それまでの間、入部させてください。邪魔はしませんから」

 柳田が言い切り、頭を下げた。お願いします、と同じように頭を下げるが、頭上からは大きく息を吐く音が聞こえた。

「自分勝手過ぎじゃね?」

「それは、すみません。練習場所をどうしても確保したいんです」

「大会近ぇからか」

「はい」

 素直過ぎんだろ、と笑う声が酷く耳障りだ。どうしたものか、と床を見詰めながら思考を巡らせるが、元々俺と柳田をよく思っていない人達を説得するための言葉は出てこない。

「なにしてる?」

 背後から聞こえた声に、俺も柳田も反射で顔を上げ振り返った。その人を見て、柳田が目を見開く。

「なんで、アンタ」

「健太郎と晴樹か。久しぶりだな」

 あったのは懐かしい顔で、本来なら再会を喜ぶところなのだろうが、そうもいかない。

「大智さん、どうしてうちの高校に……」

「ああ、そうか。お前らここだったか」

 深津大智は元は同じ道場の門下生だった。文字通り師範のお気に入りで大会でも好成績を収める、俺達の自慢の先輩だった。途中から通い始めた柳田もよく懐く程面倒見が良く、小学生の稽古にも顔を出していた大学生だったのだが、成年部によって道場を“辞めさせられた”のだ。

「今年から外部指導者として来てるんだけど、なんかあったか?」

「いや……えっと」

 柳田は顔を引き攣らせ、いつもならよく動く口をただ震わせる。無理もない。それに、この人がいるとなれば話は別だ。

「なんでもありません。先輩方も、お騒がせしてすみませんでした。失礼します」

 先輩達に顔を向け、口先だけの謝罪をして柳田の腕を引く。そのまま立ち去ろうとすると、大智さんが俺の制服を引っ掴んだ。

「あっぶね」

「大丈夫か?」

 上擦った声を上げ、後ろへ傾いた俺の身体を支えようと柳田が腕を伸ばす。が、それは大智さんに阻まれた。

「ちょっ、離せ!」

「そんな拒否んなよ。あんなに懐いてたろ?」

「もう二年も前の話だ」

 苦しそうに歪む柳田の顔が見ていられなくて、柳田の腕を掴んでいる大智さんと柳田の間に身体を滑り込ませる。

「大智さん、頼むから離してやってください」

 表向きはただ道場を去ったに過ぎないが、それは師範が知らないだけで破門に近い。師範と成年部の間に出来た深すぎる溝の原因でもある。

「健太郎まで……みんなに優しい“ケンくん”はどこ行った?」

「それとこれとは別です。それに、外部指導ということは高校の人間で俺らしか、あの話を知らないんですよね」

 言わんとするところを理解した大智さんは目を細め、力は強くないものの部員から隠れているのをいいことに柳田の腕から俺の胸倉へと手を移した。

「あんなに目ぇ掛けてやったのに、脅しか?」

「面倒見てくれたことは感謝してます」

「いい子ぶってっけど、そういうのなんて言うか知ってるか?」

「恩を仇で返す……百も承知です。けど、あなたのした事は許されない」

 憧憬も感謝も、この人に抱いていたものは全て偽りない本心だ。だが、それを上回る嫌悪を抱いてしまっては、どんなに強かった感情でも霞んでなかったことになる。

「大智さん」

 舌打ちをして俺の胸倉から手を離した彼は、柳田に目もくれず踵を返して格技室へと踏み入り、ガン、と強い音を立てて引き戸を閉めた。

 指先で眉間を揉み、溜息を吐く。

「柳田、おい」

 後ろで少し身を屈めて不快感に耐えている柳田に向き直る。普段の柳田を知っている奴ならギョッとする程の違いようは、学校外で会っている俺でも二年前に見たきりの光景だ。

「清水、悪ぃ……」

「お前はなんも悪くねぇだろ。謝んな」

「……ああ」

 すまん、と今さっき言ったばかりにも関わらず、柳田は小さく呟いて下唇を噛んだ。


***


 好きだったはずの声も、あんなに恋しかったはずの温もりも、深く身に刻まれたキズによって、嫌悪の対象でしかなくなった。

 俺の感情が恋ではない、と割り切る前。俺は大智さんを好きだと思い込み、それまでの俺かれは考えられない程、あの子達の時とは比にならない程、大智さんに夢中になった。ただそれだけで終われば、こんな感情は抱かなかったのに。

 電子音が響く。よく聞く最近流行りのアーティストの声で、俺のではない、とだけわかった。清水がポケットから携帯を出して通話ボタンを押す。

「もしもし、なに?……ああ、うん」

 誰からか気になるけれど、なんとなく聞けなくて終わるのをボーッと待つ。静かに話していたはずの清水の声はどこか嬉しそうで、通話を切ると俺に向き直った。

「誰から?」

「母さんから、少年団の練習に混ぜてもらえることになったって。……柳田の家からだと遠いけど、大丈夫か?」

 少年団。懐かしい響きに少し考えてしまう。特に悪いことをしたわけではない。嫌な思い出も、ない。

 確かめるように何度か頷き、心配もなにも必要ないと自分に言い聞かせた。人がまばらになった生徒用玄関で、自分の足音だけがよく響いているように感じる。清水のものもあるはずなのに。

「大丈夫、行く」

 その中に声を混ぜるように清水に伝えると、清水も頷いた。何時から、と時間を確認しながら下駄箱の前で分かれ、靴を履き替える。清水が、七時から、と下駄箱の向こうから声を張って俺に知らせた。靴に足を捻じ込み、潰れてしまった踵紐を指で引っ張り直す。ランニングシューズを入れた巾着を持った清水が下駄箱の影から顔を出した。

「少年団って、練習やってんの確か俺の家の方だよな」

「市民体育館だから、そうだわ」

「お前よく通ってたな」

「あー、中二まで俺市外住みだったから。それでも歩いて二十分くらいだったかな」

 靴底に挟まっている石を指先で引っ掻きながら、清水は下駄箱にもたれた。小さく、取れねぇ、とボヤいて諦めたのかそのデカい体躯を立てる。

「転校したのか」

「そ。中途半端な時期だったし、結構めんどかったわ」

「だよな」

 清水とは、道場が同じだけだったのに、なぜか清水がいれば大丈夫だ、と思って同じ高校を選んだ記憶がある。実際、今日は助けられた。

「お前、家で飯食う時間あんの?」

 隣を歩く清水が携帯で時間を確認し、チラッと俺を横目に見て言う。確かに、もう家まで帰ってゆっくりメシを食う時間でもない。

「行きってバス?」

「こっからならそうだな。確か一本で行けるし。六時くらいのに乗るけど」

「だよな……ムリだな」

「どうすんの?腹減るだろ」

 うん、とぼんやりとした思考を少しずつ自分の方へ引き寄せて輪郭を整えてやるように、目の前に浮き上がってきた問題に目を向ける。

「ああ、俺コンビニ行ってくるわ」

「ん?あ、あそこか。俺グラウンドにいるから」

「ん、あとでな」

 おう、と清水はなんでもないように答えて、さっさとグラウンドへ行ってしまった。

 清水は優しい。俺が道場に通い始めて間もない頃は、多分俺のことが嫌いだった。ほとんど話すことがなかったし、性格も、正直真逆だし。それでも仲良くなって、二人でくだらない話をするようになったのはいつだったろう。道場に入りたての俺に親切に、優しくしてくれた大智さんを好きになり、大智さんもそうだと信じて疑わなかった。けれど、そんな俺を大智さんは陰でずっと笑っていた、と後で知った。俺と清水が仲良くなったのを知ってか知らずか、大智さんはそれまで決して見せなかった素顔を俺の前でだけ顕した。

 ……何があったのか、はあまり詳しく言いたくない。ただ、まだ中学生で、恋愛も何も理解していなかった俺に、大智さんは正しく応えてくれなかった。それが、俺は悲しかったけれどそうされて初めて失恋の辛さを知ったように思う。

「お前、こけた?具合悪ぃんなら言えよ」

 と、俺の変化に誰よりも早く気が付いたのは清水で、これが親友というやつか、と理解したのを憶えている。それが嬉しくて、でもやはりそれまで蓄積していた恐怖の方が大きくて、俺の中から消したくて、俺は大智さんとの間に起きたことを清水に全て打ち明けたのだ。

 安っぽい来客を知らせる電子音が鳴る中、勝手知ったる店内を簡単に壊せそうなカゴ片手に物色する。

--水と、スポーツドリンクと……清水も腹減るかな。おにぎり、何が好きだったっけ。とりあえず1種類ずつ買えばいいか。

 梅、しゃけ、おかか、ツナマヨ、をひとつずつ取り、ペットボトルが横たわるそこに優しく乗せる。

「お願いします」

 レジに出して会計が出るのを待つ。少しして、店員がレジ袋を引っ張り出しながら金額を読み上げた。言われたままの金額をカルトンに載せ、ずっしりとした袋と交換する。

「ありがとうございました」

 間延びした挨拶に背中で聞きながら、すぐ近くのグラウンドへと向かう。クラスメイトに捕まっていたらしい清水が、丁度彼らと分かれグラウンドに入るところだった。

「清水〜!」

 呼び掛けるとまた立ち止まり、早く、と俺を急かした。

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