跳ねる心臓は嘘
清水に八古が言い放った言葉が、途轍もなく深く心を抉った。
中学の頃に付き合った数名の女子達にした仕打ちを言われているようで、心臓を引きちぎるような衝撃に少しの間動けなくなって、同時に自分の非情さを実感した。
あの子達は、その後幸せになれただろうか。
階段を三人で下る途中。時折英語科の厳しい教師が受け持つクラスの人らが単語帳を見たまま階段を上がるのを避けながら、人の流れに逆らっていると、侑司が少し唸ってから口を開いた。
「なぁ、八古って最近告られたりした?」
ついさっきまで頭の中に浮かんでいた彼女達の顔を頭の中から消し、隣を歩く髙橋と八古に目を遣る。告られたことあるのか、とぼんやり考えるけれど、特にきれいな顔でも整ってもいない俺ですら告白されたことがあるのだから、ふたりならあるだろう。それに、今更だけれど、八古も侑司も整った顔立ちだから納得した。八古はどちらかというときれいな顔をしている。一方の侑司は、弟のような存在と思っているからか、かわいいという以外に言葉が見付からない。整っているのは確かだ。
「いや、四月に後輩から告られたきりだな」
「へー、意外」
そうでもないだろ、と少し不機嫌そうな顔で言って八古は中庭に目を遣った。無意識のうちに八古の視線の先を追うと、見慣れたデカいやつと知らない女子が向かい合って立っていた。今の話題と目の前の光景が合致して、ああ、ついに清水にも彼女が出来るのか、とぼんやり思う。
中学、高校時代に付き合う男女は大概すぐ別れる。そこからずっと、ずっと人生を添い遂げる人もいるにはいるのかもしれないけれど、俺の知る限り、中学から高校に上がる時点で別れていないカップルの方が少なくて、夢物語だ、と想ってしまう。人生の中ではほんの数秒、正に束の間の不幸を覚えて、憶えて一生抱える子は、きっとあの子達の中にはいなかった。
「あれって清水?」
「みてぇだな」
侑司に答える間も清水から目を離さないでいると、清水はゆっくりとその頭を下げた。どちらとも取れる光景に、少しだけ不安が募る。
--清水に彼女が出来たら、ノロケ話も聞かなきゃねぇのかな。いや、清水はひけらかすようなやつじゃないし、そんなことはしないか。清水は、優しいから。
無意識に湧いてくる感情は、恋とは違うと、中学の時に知った。恋に似ていて、でも全く違う感情。そして、俺はそれを色んな人、男女関係なく親しい関係になった人に抱いてしまうのだ、と知っている。
だから、俺はあの子達に悲しい思いをさせてしまった。
俺は恋愛に向いていない。そう思って、理解して、この二年間向けてもらった想いに答えず、ただ感謝を伝えて無理矢理、蓋をさせている。それで吹っ切れる子は仲が良い女友達になるし、吹っ切れない子は自然と関わらなくなる。人なんて、そんなものだ。感情なんて、いつかなくなるのだ。そう信じている。
「なぁ、ハル」
侑司に呼ばれて俺より少し低い位置にある顔を見る。不安そうな、泣き出しそうな子どものような顔だった。
「どした?」
そんな顔をする理由が分からないから、努めて優しく、笑って聞いてやる。侑司は少し口籠もり、視線を泳がせた後意を決したような顔で俺の腕をそっと引いた。耳元に息が掛かる。
「ハルって、清水のことどう思ってんの?」
ドクン、と強く脈打つ心臓は嘘吐きで、トキメキなんてかわいいものではなく、なんと言おうか、という後ろめたさから来るものだ。知っている。嫌と言うほど、今までずっと誰に対しても抱いたものだから。
段々と目頭が熱くなり、言葉がぐるぐると頭の中を巡っては吐けずに沈んでいく。
「普通に……トモダチ、かな」
苦笑いして、澱のように溜まり続ける気持ち悪さを咳払いで誤魔化した。そんな俺を見ている侑司の顔も苦しそうに歪んで、ヘタクソに笑って見せた。
「おい、遅れちまうぞ」
八古がぶっきらぼうに言い、根が張ったみたいに動かない侑司を呼ぶ。弾かれたように八古へ顔を向けた侑司は、走るか、と明るく言った。
「また明日な、ハル!」
「おう、明日な」
振り返ったハルはヘタクソな笑顔ではなく、いつも通りにも見える笑顔で俺に手を振っていたから、大丈夫か、と割り切って同じように手を振り返す。
「まだ行ってなかったのかよ」
背後からいつものように、いつもの声で俺にケチを付けるのはさっきまで中庭にいたはずの清水で、なんでもないような顔でパック牛乳を飲んでいた。ズゴーッと、中身がなくなったと訴えるそれをきれいに畳みながら、清水は片眉を吊り上げる。
「んえ、あ、ちょっと話し込んじまって」
「そ。まぁ、いいけど」
行くぞ、と特に気にする素振りも、ソワソワと落ち着かない様子すら見せない清水は、いつも通り俺を見ずに格技室へと向かった。
今の俺には、それが唯一の救いだった。
***
玄関で靴を履き替えた生徒が、わらわらと目的地へ散らばっていく。それは俺と髙橋も同じで、踵を踏んだままだったスニーカーを
片足ずつ直しながら歩く。
「なぁ、今日はバッティング多めに出来っかな?」
情けねぇ顔してんな。
なんて思いながら、隣を歩く髙橋に目を遣る。ずっと空元気を振り回しているような笑顔で、黙ってなんかやるかとでも言うように髙橋は喋っている。
「昨日は少なかったからな。そうすんじゃね?」
よっしゃ、と薄っぺらい笑顔で言って、まだ部活も始まっていないのにもうテーピングを探すと、見付けたのかエナメルバッグの外ポケットへと入れ直した。顔を上げた髙橋は右へ左へと視線を泳がせる。話題を探している時の癖だ。この癖が出ている時の髙橋は精神的に参っていて、頭が混乱しているのだ。
「そういや、マサって肩トレはどこメインでやってんの?」
「前に教えたろ」
そうだっけ、と笑って見せる髙橋はやはり普段通りではなくて、その笑顔に心が痛む。
「お前、好きな子とはどうなったんだよ」
その空元気が見ていて虚しくて、違う話題を、と敢えて聞いた。その瞬間、それまで上がっていた口角は引き攣り、言葉を吐き出し続けていた口は動きを止める。
そんなことだろうとは思っていた。どうせ好きなヤツ絡みで、自分にとって都合の良くないことが頭いっぱいに広がって落ち着かないのだろう。たまに話だけ聞いていた髙橋の恋バナに出てくる好きな子は、それは本当に女子の話か、と何度か確認したくなる程度には女子らしからぬ行動が多かった。今まで髙橋から浮いた話なんて出てこなかったから、とうとう髙橋にも春が来るのか、程度にしか思っていなかったのだ。高校に上がってから、モテるのになぜか誰とも付き合わない不思議な男、と女子の間で言われているのを少し前に知ったが、そりゃあ好きなヤツがいるならそうだろう。
「進展……はあるよ。メアド交換したし、昼メシも一緒に食ったし」
「へー」
アレ、と今までぼんやりしていた違和感の輪郭がはっきりとしていく。昼飯は、今日以外ずっと俺と食っていた。他、メアド……は、微妙か。けど、
「お前の好きな子ってさ……」
言おうと髙橋を見詰めたのだが、髙橋の視線とはかち合わず、その先を辿ってしまう。知ってか知らずか、髙橋は先にグラウンドについていた同級生や後輩の輪に紛れ込んだ。相変わらずペラペラと、途切れることのない話は一見いつも通りだが、気が付くヤツは気が付くもので数名が心配そうに顔を歪めた。肩を叩かれる。
「はい?」
振り返るとキャッチャーの先輩で、髙橋を見たまま俺の耳元に口を寄せた。
「あいつ、どうした?」
と、部員なら殆どが分かる程、髙橋のその姿は痛々しかった。見ているこっちの心臓が抉れる程に。
「今日、夜から雨予報だったか?」
髙橋が空元気を振り回し続ける中、部員の一人が着替えながら呟いて、揃って空を見上げる。昼頃に比べると確かに増えたようにも思える雲の量に誰かが、マジか、と呟いた。
「よーっす」
「お疲れ様です!」
先輩達も揃い、部活が始まろうとしている。それぞれ着替え、終わったヤツからグラウンドでアキレス腱や肩などのストレッチを始めていた。
「グラウンド一周」
少しして、部員全員がストレッチを十分にしたことを確認した主将が声を掛ける。返事をして一年から順に走り始める中、髙橋を探した。
「おい……髙橋」
見慣れた、デカくも小さくもない背中に手を伸ばし、こちらを向かせる。いつも通りを装おうとするコイツだけは、苦しそうな笑顔でまだ先輩達と話していた。
「え、なに?」
それが、少し癇に障った。すみません、と先輩に断りを入れて高橋を輪から引き離し、フェンスに寄って未だに剥がれない薄っぺらい笑顔を睨み付ける。
「なになになに、こわ」
俺との間に自分の腕を翳して距離を取り、これ以上来るな、と意思表示する。
「お前、しんどいなら少しは言えよ。去年も言われたろ。ストレス発散か何か知らねぇけど、八つ当たりみてぇにガムシャラやってオーバーワークとか、マジでシャレになんねぇからな」
殆ど同じ高さにある、痛々しい笑顔が消えるまで髙橋を睨み付ける。俺の目に応えてか、髙橋はふと表情筋から力を抜き、普段見せないような冷たい目で俺を見た。肩口を掴んでいた俺の手を払う。
「うるせぇな。マサに何がわかんだよ」
震える声で、ギリギリ俺にだけ聞こえるように呟かれた言葉は確かにその通りだ。俺に髙橋の苦しさは分からない。
「ああ、分かんねぇよ。だとしても、先輩方も心配してっからな。言えるヤツが言わねぇと、お前止まらねぇだろ」
俺と髙橋が戻るのを待っていた部員達の方へ一度頭を下げ、ふたりでそこに戻った。頭を上げたすぐ後、バン、と地面に何かが置かれる音がして、振り返ると清水と柳田がいた。
「すみません。文芸部の清水です。しばらくの間たまに出入りさせていただくので、よろしくお願いします。」
「あ、俺は気にしないでください」
と、挨拶をした清水と柳田は俺と髙橋を見付けて、柳田はニッと口角を上げた。
「侑司、さっきぶり」
隣にいる髙橋が、また下手くそに笑った。
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