空しい知らんふり

 清水にメールを送ったけれど、まだ返信はない。今日は師範の通院日で道場が休みだし、真っ直ぐ帰ったのだろうと思っていたのだが、いつもなら早く返ってくるメールが滞るということは、どうやらそうではないらしい。

「返信来た?」

「いんや……八古は?」

「マサも」

 スマホをポケットに突っ込んで、隣を歩く侑司に視線を落とすと、感じ取ったのかふと顔が上げられ目が合った。なんてことはないのだけれど、たったそれだけのことがどうしようもなく愛おしい。

「幸せ?」

 イタズラっ子な笑みを浮かべて侑司が小首を傾げる。わかっているくせに、と小突きたくなる衝動を抑え、代わりに侑司の耳元に口を寄せた。

「チューすんぞ」

「うわー、ヤラシーの」

 と、笑っている侑司は顔を真っ赤にして、誤魔化すように俺の胸元をグッと押した。

「マジ、現実ヤバ」

「語彙力どーした」

 興奮気味の侑司が短く言葉を紡ぎ、嬉しさを表現しようとするものの、それはほとんど意味を持たないものとなった。それすらもかわいいと思う俺は、本格的に頭がオカしくなったに違いない。

 侑司が俺の腕を引き、立ち止まらせる。

「なんかあった?」

「公園寄らん?」

 指差しながら言う侑司から目を移して、その指先が向けられる方を見ると、人がほとんどいないアパートの陰にある薄暗い公園があった。提案をしてきた侑司の顔は公園とは逆に明るくて、なにかしらの願望を叶えようとしていると見てとれた。

「いいよ。ブランコ乗る?」

「ベンチでいーよ。ブランコとか、青春し過ぎでしょ」

「いーじゃん、青春しようぜ。アオハル、アオハル!」

 と、二人揃って遊具に駆け寄り、ドサドサと音を立ててエナメルバッグを荒い砂の置くと、迷わずブランコのチェーンへと手を伸ばす。重みが加わり歪んだチェーンが鈍く音を立てた。

「うわぁ、いつぶりだろ」

「俺は春に道場の小学生と乗った」

「イベントでもあったん?」

「バーベキューね」

 いいなぁ、と言いながら侑司はゆるゆると小舟を漕ぐように、小さくブランコを揺らしながら陽が沈み、オレンジから紫になりゆく空を見ていた。

 深くなる夜は少しの肌寒さをもたらした。まだ夏だというのに、じっとりとした風でありつつ肌にある汗を掻っ攫っていくように身体を冷やす。パーカーなんて持ってきていないし、今日は体育もなかった、ぶるりと震えた身体を見て、侑司がブランコから下りた。

「どした?」

「寒ぃの?」

「ちょい冷えた」

 ザッザッと砂を蹴る音が近付いてきて、ふんわりと触れてもいないのに温もりを感じた。

「俺子ども体温だからあったけぇよ」

 ほれ、と両手を広げて俺を待つ侑司がニシシと笑い、言い訳を頭の中に並べながらその腕の中に身体を投げ入れた。

「おお、あったけぇ」

「だろ?人間カイロって言われる」

 俺より小さい身体で俺を温めようと強く抱き着き、頭を俺の胸元に押し付ける。温かくて、身体だけでなく心まで温まり解されていくようだ。

 少しして、筋肉はあるけれど細い腕にグッと力が込められたかと思うと、するりと腰元辺りまで降ろされた。

「チューすんぞって言ったけどさ」

「うん」

「もうしてるくね?」

 ゴソゴソと胸元で侑司の頭が動くと、顎を俺の鎖骨に柔くぶつけて上を向き、俺の顔を見上げた。まるで、逃がさないぞ、と言い出しそうなイタズラっ子がそこにいる。

「あー、したね」

 誤魔化しもせず、確かに講義室でどさくさ紛れにしたことを認めると、侑司は幸せそうに顔を綻ばせて、だよなぁ、と溢した。

「チューすんぞ〜」

「ヘヘ、いいよぉ」

 あやされている子どもみたい無邪気に笑って侑司は唇を尖らせた。

 こいつはホントに、わかってんのかね。

 お望み通りに、と内心呟きゆっくりと顔を近付け目を瞑る。すぐそこにある顔へはあっという間に到達し、柔らかく唇を合わせると身体に回されたままだった腕に力が籠った。

「満足?」

「ん!」

 と、満面の笑みで頷いたのが愛おしくて、再び強く抱き締めた。俺に体重を預けて右へ左へと揺れる侑司を支えながら、こんなにはしゃいで止まらないなんて、とゆるゆると口角が上がっていった。

「そんなに好き?」

「好きー」

「甘えんの楽しい?」

「超楽しい」

 見なくてもわかるほど、きっと幸せに満ちた顔でいるに違いない恋人は俺から離れようとせず、抱き着く腕に籠る力も、ワイシャツの布越しに感じる細い骨の硬さも、俺のものだ。

「侑司」

「なに?」

 細い身体に回していた腕を解き、薄い両肩を柔く包む。ふと顔が上げられ、寂しげに俺を見た。

「そろそろ帰んないと。課題もあるし」

「ケチ。もうちょいいーじゃん」

「明日もあるし、日曜はデートすんだろ?」

 そうだけど、と口をへの字にして不貞腐れて見せる愛おしい恋人の頭を撫で、もう一度キスをする。ほんのりと赤く色付いた頬のまま、わかった、と呟いた。

「早く明日の放課後になんねぇかなー」

「朝も一緒に登校できるけど?」

 俺から身体を離した侑司は、千鳥足の真似をしてゆらゆらと身体を揺らしながらエナメルバッグの置かれた柵の方へと歩いていく。

「そうだけどー、朝は清水いんじゃん」

「清水なら別によくね?」

「まぁ、まぁ?」

 エナメルバッグを肩に掛け、慣れた場所を探してずらした。侑司が俺のエナメルバッグのショルダーストラップを掴み、持ち上げようと力を入れると、ギョッとした顔で俺を見た。

「軽すぎん?」

「置き勉してるから」

「にしてもしすぎじゃね?」

 いーのいーの、と緩く答えはぐらかし薄っぺらい手から奪い取ると、侑司は不服そうに俺を見た。

「どした?」

「ハルって意外と秘密主義?」

 と、心当たりのないことを聞かれ、首を振る。

「なら、いーけど」

 けれど、彼は不満があるらしく、先程までとは打って変わってツンケンとした態度を取ってみせる。なにが引っ掛かるのだろう、なんて考えるけれど、心当たりがないものは仕方がない。

「なんで怒ってんの?」

 と、先を歩いていく背中に投げかけ、追いかける。振り返るでも立ち止まるでもなく、侑司は、別に、と溜息混じりに返して頭をグシャグシャと掻き回した。

「ねぇ、気になってんだけど」

「だから、なにが?」

 先を促せど侑司は口籠もり、眉間に深い深い皺を刻んで意を決したように口を開いた。

「マサと清水、なんでメールしてこねぇの?」

 揃いも揃って、と語気強く訴える彼にただ、確かに、と頷くしかできなかった。


***


 少し先を歩くデカい背中は、ワイシャツ越しでも主張する程筋肉が発達し、それは窮屈そうに着られている。この背中が羨ましくて、勝手に嫌い、勝手に--俺はなにを抱いていた?

「やべ、メール返すの忘れてた」

 と、スラックスから携帯を取り出すと、折り畳まれたそれを片手で開き、なにやらテンキーを連続して押している。

「八古、お前の方にもなんか来てねぇの?」

「なんで」

「俺に柳田から三通も来てるから」

 来すぎだろ、とツッコミを入れつつ、同じようにスマホをポケットから取り出し画面を見る。二件、メールが届いていた。

「来てた。髙橋と柳田から」

「あいつ、八古にも送ってんのかよ」

「写メ付いてる……」

 呟き、画面をスクロールすると、現れたのは見たこともない程顔を赤くした柳田と、嬉しそうに笑う髙橋の顔だった。それだけでも、ふたりに何があったのか、なんてことはすぐに合点がいった。

「やっとかよ」

「なに、八古も知ってたの?」

「まぁ。つか、髙橋のあの感じ見てたら気付くだろ」

「それもそうか」

 携帯をポケットに突っ込み、清水はそのまま片手をしまったまま足を進めていく。夕陽も殆ど沈み、未だ照らさんと粘る光が微かに空を橙に染める中を、清水と歩くのは不思議な心地がした。

「なぁ」

「なに」

「おお、無愛想」

 んだよ、と不機嫌をそのまま現し顔を歪めると、清水は苦笑し俺を見る。

「八古って、超不器用だよな」

「器用だって申告した覚えはねぇぞ」

「ソーデスネ」

 溜息を吐き、視線を清水にふと上げると、同じように溜息を吐いてはいたもののまたあの柔らかい笑みがあった。ひと度、一瞬でもその微笑みを見てしまうと、ぐらぐらと煮立つような、そんな感覚が心臓の辺りで起こって、俺を平常ではいられなくする。

 少し前なら、きっとそれは純粋な怒りや嫉妬だった。清水が笑うと、なぜか馬鹿にされているような気がして、嘲笑に感ぜられて、どうしようもなく腹が立ったのを覚えている。そうではないと分かっているのにも関わらず、だ。

「八古」

 何度目か分からない俺を呼ぶ声は柔らかく、すぐそこにあの笑みがある、と見ずとも分かる程にふんわりと優しく俺を包む。頬をそのデカい掌で包まれたようにゆっくりと顔を上げる。と、すぐそこに、想像していたのとは違う真剣な顔の清水がいた。

「なに」

 絞り出した声の情けない響きに心臓が縮み上がった気がした。

「八古は、きっと俺が好きだよ」

 言い聞かせるような、ファミレスで俺を窘めたのとは違う柔らかいけれど芯のある掠れ声が、鼓膜を震わせた。

 俺が、

「なんて……?」

 理解しようとフル回転させた頭はエラーを起こし、熱暴走でも起こしたのかと思う程正常に機能しない。

 段々と、顔に熱が集まるのを感じた。

 頬に火傷しそうな程熱い掌が添えられ、拒否出来ないでいる自分に気が付いて、身が固くなる。

「分かってるはずなんだけな」

 清水は、何を言っている?

 上げた視線の先にある顔はじっと俺を見詰めたかと思うと、ふと視線が逸らされ、初めて言葉を交わした日を彷彿とさせた。

「お前は、清水はどうなんだよ」

 俺は何を言っている。

 そんな、まるでそうであってほしいと願うような、女々しい言葉が出て来るとは自分自身でも微塵も思っていなかった。こんなことを聞いて何になる。

 口にして早々に後悔が押し寄せている俺を知ってか知らずか、清水は深く息を吐き、チラリと横目に俺を見た。

「俺は、八古が思ってるよりもずっと、八古のことが好きだって自覚したよ」

 静かに背けられた視線の先に何があるのか、以前なら興味もなかったそれを知りたくなった。

 違う、そうじゃない。

 いつからだ。俺は、いつからコイツに惚れていたっていうのだ。わからない。だが、確かにその視線を追って、お前のあの柔らかい笑みを向けられたいと強く思ってしまうのは、つまりそういうことなのか。

「なんで、俺の何が」

「ほっとけない。寂しそうにされると、どうしても構いたくなる。弟に抱くのとは違う、守らないといけない、って義務感じゃなくて、守りたいって、心の底から思った。」

「いつ、そんな」

「確信したのはついさっき。もっとずっと長くお前を思えって言うなら、これからずっと思い続けるよ」

「なに言って……嫌いだったんじゃねぇのかよ」

 それは八古の方だろ、と諭すように優しく俺との間にあった距離を詰めながら、清水は身を屈めて俺と視線を合わせる。

「嫌なら断ればいい。断る理由がないなら、受け入れて。俺がお前の寂しさの全部引き受けるから」

 真っ直ぐで、芯があって、強い意志を宿す目に俺は敵わない。引き摺り込まれるようにズルズルと隠し通そうとしていた感情や、押さえ込んでいた衝動の全てが俺を飲み込んだ。

「真面目過ぎんだろ」

「そうか?……恋愛なんて暫くしてねぇから、必死なのかもな」

 自嘲気味に笑う顔を愛おしいと思ってしまった。

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