それぞれの恋は
ジリリリリ、と鳴り響く電子音で目が覚めた。枕元の携帯のウィンドウには五時四十分と表示されていて、身体を起こして思い切り両腕を伸ばす。いつもの時間、これから支度をするぞ、という時間だが、いつも通り襖の向こう側は既に慌ただしい。ベッドから抜け出し、襖を引き居間へ通ずるドアを開けた。
「おはよ」
「おはよ。ご飯は?」
「おにぎり五つ」
「はいはい」
顔洗ってきちゃいなさい、と言いながら卵焼き器と箸を動かす母に頷いて、そのまま洗面台のある脱衣所へと向かう。
水を出してもほんのりと温い季節。茹だるほど暑いこの田舎で、俺は熱に浮かされたように男を口説いていた。同級生で、俺のことを少し前まで嫌っていた信じられない程不器用なやつを。
寂しいのだ、と言外に強く訴えるあいつは、それを親に伝えることも、表すことも知らないまま今まで生きてきたのだろう。それを恨みや辛みに変換し、怒りとしてぶつけて初めて発散するような、頭のいい愛すべきアホなのだ、と昨日だけで理解した。
いや、俺は恐らくずいぶん前から八古のことを特別視していた。その自覚が俺にもなかっただけで、頼られることをきっと望み続けていたのだ。
携帯から昨日交換したばかりのメールアドレス宛にメールを認める。迎えに行くとは言ったものの、柳田の家に寄ってから、とは伝えていないのを思い出した。
『おはよ。柳田ん家寄ってから行くから。』
短く要件だけを打ち込み送信するが、時間を思い出し、しまった、と早くも後悔する。こんな時間に起きている訳がない。が、やってしまったことは仕方がない、と諦めてジャージのポケットに携帯を入れ蛇口を捻った。
ザバザバと水を手に掬って濡らし、泡で出てくる安物の洗顔料を手に取り、顔を洗う。皮脂や汗で汚れていた肌の上で転がし、気の済んだところで洗い流す。洗面台の隣にある棚からタオルを取り顔を拭く。ポケットの中で携帯が振動した。すぐに見る必要はないだろう、と決め込んで歯を磨こうと歯ブラシに歯磨き粉をのせて口に突っ込んだ。空いている手で携帯を取り出し、メールを開く。
『おはよ。なんで柳田?』
と、文面だけでも分かる程のぶっきらぼうな言葉があって、思わず笑って歯磨き粉を溢しかけた。
『毎朝ランニングの時寄ってるから。八時前には行くよ』
誤字がないかを確認し、送信ボタンを押す。口の端から少しだけ溢れた歯磨き粉を指で拭い、流水で洗った。またも携帯が振動する。
『それならうち来いよ。親いねぇし。シャワーとかも使うんなら使えば』
『いや、いいよ。来週から貸して』
『いや、来いよ』
押しつよ、と言いそうになるのを飲み込み、口の中にある歯磨き粉だったものを吐き出す。口を数回濯いで、ひと言だけ返信し、柳田へのメールを作り送信した。
廊下へ出ると、母が弟の眠る二人の寝室の戸を開けたところだった。
「おーい、いい子なら早く起きなさい!」
「まだ寝るの」
毎朝繰り広げられる母子の攻防戦に小さく笑うと、俺に気が付いた母は丁度いいものを見付けた、というようにニヤリと口角を上げた。
「今起きたら、兄ちゃんと朝ご飯食べれるよ」
「ホント?」
「ホントだぞ」
おはよ、と母の隣から顔を出すと、眠た気だった顔をパッと明るくして弟は布団から出てきた。そのまま俺の脚に抱き着く。
「にーちゃんおはよ!」
「起きれたな、えらいえらい」
「はい、顔洗いなさいね。健太郎も、早く着替えてきなさい」
「ん、あとでな」
弟の脇を柔く擽り身体を離させ、そのまま自室へと戻り、トレーニングウェアに着替える。春になる前に買ったそれは少し大きいサイズを買ったはずだが、いつの間にか丁度良くなっていたらしい。靴下とインナー、ボクサーパンツの替えをコンビニ袋に纏めたものと、ワイシャツとスラックスを畳んでバックパックに入れる。用意の整ったそれを担いで部屋を出て玄関に置いて居間に戻ると、弟も母が用意した服に着替えているところだった。
「早く食べちゃいなさい。時間になるわよ」
「うん」
テーブルまで行き椅子を引くと、弟がバタバタと足音を鳴らしながらこちらへ来た。
「いただきます」
と、手を合わせてから箸を取る。
***
「晴樹!早く起きなさい!」
「起きてる、起きてるから!」
まだ七時にもなっていないというのに、母は鬼の形相だし、父は呑気だし、なんで朝からチグハグなのだろう。
パジャマのまま廊下へ飛び出すと、母はそれを見て、起きてないじゃない、とまた怒って言うのだった。
「起きたのと同時だったんだって」
「言い訳いいから、早く顔洗って歯磨きしなさい!」
「晴樹、早くしないと健太郎が来るぞ」
「さすがにまだ来ないって」
バタバタと階段を降りて洗面所へ行き、言われた通り顔を洗い歯を磨く。なんなら舌まで磨いて口を濯ぎ顔を上げると、少し伸びた襟足が跳ねていた。掌に水を取って濡らし、グッと握り込んで直れ直れ、と念じながら再び歯を磨く。遠くで母の、半過ぎたわよ、と時間を知らせる声が響いた。口を濯いで歯ブラシも洗いプラスチックのコップに立て掛ける。ドライヤーを手に取って襟足に風を当てて整える。
「晴樹!」
「今行く!」
直ったかを確認してから洗面所を出て、リビングへと入ると、父は呑気に新聞を広げてコーヒーを啜っていた。その格好はまだパジャマだ。
「父ちゃんもまだ着替えてねぇのかよ」
「んー?俺はもう飯食ったからな」
「食後のコーヒーとか優雅かよ」
「アンタは早く食べなさい」
と、言いながら米の盛られた茶碗と味噌汁を運んできた母に、ありがと、とだけ言って箸を取る。さっさと食ってしまおう、と目玉焼きやベーコンに順に箸を付け、掻き込むように茶碗の米を平らげる。
「喉詰まらせないようにね」
「ん」
小さな音を立てて水の注がれたグラスが置かれた。口の中のものを咀嚼して、飲み下してから手に取り口を付ける。
「あ、ヤベ。メールすんの忘れてた」
思い出し、慌ててスマホを探すけれどポケットには入っておらず、部屋に置いてきたと気が付いた。急いでテーブルから立つと、母が眼を光らせる。
「残すんじゃないわよね?」
「ちゃんと食べるから、ちょいタイム」
リビングから飛び出して階段を駆け上がる。聞き慣れたインディーズバンドの重低音が響いていた。部屋に入り、枕元に置かれたままのスマホを見ると、メールが二通届いていた。
『おはよ。今日はお前ん家寄らないわ』
と、丁度連絡しなければと思っていた清水からのメールに短く『オッケー』とだけ返し、もう一通のメールを開く。
『おは 何時くらいに準備できる?』
『おはおは 八時前には迎え行くよ』
『オッケー』
ポンポンと返ってきたレスポンスに安心し、緩む頬を抑えながらリビングへと戻る。ポケットにスマホをしまい、ダイニングテーブルについて、再び箸を取る。
「なんかいいことでもあったのか?」
不意に父に話し掛けられ、なんのことか一瞬分からなかったが、言ってもいいか、とベーコンで摘み上げながら意を決した。
「彼氏できた」
「そうか」
二年振りに聞いた父の気の抜けた返事も、驚くでもなんでもない母の反応も、全く変わっていないそれに安心した。
「あ、あと清水は今日来ないって」
「そうなのか。珍しいな」
「何かあったのかしらね」
「知らん」
と、俺の色恋より余程清水に興味を示すのは、両親なりの優しさで、俺に興味がないわけではないと知っている。
「どんな子だ?」
「え」
唐突に新聞を畳みながら父が問い掛けてきた。なんと答えようか、と咀嚼しながら考えるも、いい答えは見付からなかった。
「かわいいよ。ちっちゃくて」
「……そうか」
相槌を打った父の声が嬉しそうだった。
***
あんまり、眠れなかったかも。
昨日の嬉しさが眠気をどこかに追いやって、いつだったかのように俺を寝させてはくれなかった。
「あれ、早いね」
「おはよ」
おはよ、とのんびりとした口調で言う姉はソファーに寝転がりながらテレビを見ている。キャミソールにハーフパンツ姿の姉は、ただ女の現実を弟の俺に知らしめるだけだった。
「そんなんじゃ、彼氏できねぇよ」
「ハァ?うるさ」
互いに溜息を吐いて顔を逸らすと、台所から母が呼んだ。
「お父さん起こしてきてくれる?」
「ああ、うん」
いつもより早い時間に起きたからか、まだ父が家にいることを不思議に思いながらも元来た廊下をのそのそと歩く。夫婦の寝室をノックし、起きているかの確認をする。けれど、うんともすんとも音はせず、申し訳なさを覚えながらドアを開ける。
「父さん、朝だよ」
「んー、もう少し」
「……母さんが怒るよ」
「それはダメだ」
じゃあ起きて、とだけ言い残して、顔を洗ってしまおう、と洗面所へと向かう。
誰にも占拠されていない洗面所は俺が思うよりずっと広くて、早起きも悪くない、なんて思えた。顔を洗い、歯を磨く。
寝惚けたまま送ったメールの返信は思いの外早くきて、ハルは意外と早起きなんだな、なんて思ったのだ。七時を過ぎたばかりの時計の針も、後一時間で家を出ろと俺を急かしている。けれど、いつもはあと三十分も長く寝ているのに、今日に限ってどうしてこうも急かされている気がするのだろう。
口の中にあるドロドロとした歯磨き粉を吐き出して、スッキリさせようと口を濯ぐ。寝癖がついていないのを確認して、リビングへと戻った。
「あら、顔洗ってきたの?」
「うん。ご飯は?」
「ちょっと待ってなさい」
「なんだ、眠そうだな」
「父さんに言われたくない」
親子揃って眠気眼を擦りながら朝食が揃うのを待つ。けれど、メールが来ていないかが気になって、どこか落ち着かない。
「ハイ、食べちゃって」
「ん、いただきます」
出されたトーストにバターとジャムを塗って口にする。バターの香りとジャムの甘さが脳に栄養を与えて、眠気を遠去けた。ゆっくりと食べ進めて、ゆっくりと目を覚ましていく。
「パン固くない?」
「固い」
「そうやって言うなら、明日から自分で焼いてね」
こっそりとしていた父との会話を母に聞かれ、ごめんごめん、と父は焦って母に謝っている。いつも通りの父と母のやりとりだ。
「父さん、早く食べないと遅れるよ」
時計の針が七時十五分を指し示す。俺に言われて時計を見た父は、ガツガツとトーストを食べてテーブルから立った。バタバタと慌ただしくリビングから出て行ったのが見える。
「お父さん、転職しないの?」
「する暇ないわよ。歳も歳だしね」
「それもそっか」
と、朝早く、夜遅くまで働く父を心配しての話のはずだけれど、うちの女衆がするとどうも陰口にしか聞こえない。性格が悪い人達ではないし、実際のところは知っているというのに、なぜだろう。
「ホントに心配してる?」
「んー?そりゃね」
「あんな働き方、いつか身体壊すわよ」
「ちょいちょい壊してるしねー」
優しいはずの言葉も、軽ければ意味通りに取られないのだ、と二人から実感した。
再びゆっくりとトーストを食べ進め、今日の一時間目はなんだったか、と思考を遠くへと飛ばした。
「ごちそうさま」
「お皿シンクに置いておいて」
はーい、と緩く返事をして皿とジャムが詰め込まれた瓶を持ち、テーブルから立つ。廊下からバタバタと急ぐ足音と、いってきます、とドアに遮られてくぐもった声が聞こえた。
「いってらっしゃーい」
と、三人揃って言うと、玄関の重いドアが閉められた。
ハルは八時前に来ると言っていた。あと二十分ちょっと余裕があるな。
***
なんか、柄にもないことを言った気がする。それに、なんで柳田に張り合ったんだ?分からない。
相変わらず朝から顔も合わさずに家を出る父と、やっと連日の泊まりがひと段落するらしい母のいない家に、俺はこれから男を招き入れる。言葉だけだと甘美だが、ナニかをする予定もなければ、アイツの準備が終わればすぐに家を出るに違いない。ナニかが起こる訳がない。
吠えるおぐらを不思議に思ってフードボールを探すと、それはキッチンの奥に置かれたままだった。どうやら父は自分のことだけを済ませて家を出たらしい。いや、確かに時間としては与えるに早過ぎる。
「今用意するからな」
ソファーから立ち上がった途端、理解しているのか、それとも期待からか、嬉しそうに前脚で跳ねて喜びを表現する様は愛くるしくて、コイツがいてくれてよかった、と心底思う。
柔らかめのドライフードとウェットフードを半々で混ぜ、少量の無脂肪牛乳をお湯で割ってそれをかける。立ち昇る独特のニオイに顔を顰めるが、おぐらは嬉しそうにくるくると走っては俺を急かすように吠える。フードボールを定位置に置いて、おぐらにおすわり、待て、お手、と立て続けに言うと、いつもの流れをしっかりとこなして見せた。
「よし」
と、言うのと同時にガツガツと食べ始めるおぐらをそのままに、ソファーへと戻る。
インターホンが鳴った。
立ち上がりモニターを見ると汗だくの男が、おはよ、と言いながら手を振っている。深く息を吐いてから通話ボタンを押した。
「入ってこい。開いてるから」
《あ、そ?》
ボタンから手を離すと、ガチャリと玄関が開く音がする。段々、鼓動が早まっていくのが分かり、アイツが姿を現すまでの数十秒を費やして落ち着けた。
リビングのドアが開かれる。
「あ、おはよ」
「おはよ。……シャワー使うだろ」
「うん。ありがと」
こっち、と出来るだけ顔を見ないようにして風呂場へ案内する。普段、俺とおぐらしかいないと言ってもいいような家に、足音が二つも響いているのが不思議でそれにすら緊張しているらしい。
「ここ、タオル置いとくから。着替えは?」
「持ってきた」
「シャンプーとか、好きに使っていいから」
「なぁ、」
「な--」
顔を見ないまま、なに、と言うつもりだったのに、大きな掌が左頬に添えられて、ゆっくりと誘導される。走ってきたというコイツの体温は高くて、どちらが熱いのか、なんてもう分からない。
「八古、そんなに俺の顔見たくない?」
「違ぇ」
「じゃあ、見てよ」
俺が寂しい、と柔らかい温かい声色で囁くように言ってソイツ--清水は微笑んだ。
「アホ吐かせ。早く支度済ませろよ。あと二十分で出るからな」
「ハイハイ。ツレねぇなぁ」
と、呟く清水を置き去りにしてさっさと自室へと戻り、エナメルバッグの中身を整える。
が、それどころではない。ドッドッ、と激しく脈打つ心臓がうるさくて堪らない。なんなんだ。自覚したからだというのだろうか。だとしたら、だとしたら純粋過ぎやしないか、俺。
--八古は、きっと俺が好きだよ。
言われて自覚した訳ではない。ずっと、そうではない、と思い込もうと、抑え込もうとしていた。その自覚はあった。が、そんなにも分かりやすかっただろうか。分からない。
準備が終わったエナメルバッグの口を閉じ、制服へと着替え階下へ降りる。リビングのドアを開くと、おぐらが待っていた。抱き上げてソファーに寝転がる。
--付き合ってくれる?
真剣で、尋常じゃない程の熱を孕んだ目元に絆された訳ではない。俺もそうなりたいから頷いた。俺は、アイツが--清水が好きなんだ、とやっと認められた。それが俺を楽にした。
おぐらを撫でながら待っていたのだが、あれからどのくらい経ったのかは定かではない。スマホもテレビも時計を見ず、ずっと天井を見上げていたらドアが開いた。
「あ、もう行ける?」
呑気に、先程の熱を引っ込めた清水はウェアから制服に着替えて、髪もさっぱりと乾かして準備万端の様子だ。腹の上にいるおぐらを床へと下ろし、行ける、と答えて立ち上がった。
***
とある地方都市。その端にある、所謂“自称”進学校には、仲が良いのか悪いのか、嫉妬深いのかそうではないのか、分かりにくいカップルと、側から見ていても分かる程に仲の良いカップルが二組、日を同じくして誕生した。家も近く、通学路も同じ二組は、ある日の朝、登校時--
「あ」
バッタリ鉢合わせたのだった。
羨望を嫌う。 ユキハラチウヤ @chu_ya11
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