幸せ、とは

 パチパチと窓を叩く音が聞こえなくなってから約二十分。辿り着いた先は市外で、ここまで来てしまった、と内心思うものの、反抗期を体現しているようでほんの少し、楽しい。

「あ、ケンくんだ!」

「ハルキくんもいるぞ〜」

 小さな子どもに手を振って応える清水と、俺もいるぞ、と主張しながら子ども達追いかけ回す柳田は正反対で、よく一緒にいるな、と思ってしまう。

 柳田の誘いに無意識で頷いた髙橋が心配でつい来てしまったのだが、どうやらふたりはこれから稽古らしい。

「健太郎、こっち」

「にーちゃん!」

 子ども達と柳田の騒がしさに負けじと声を張った女性へと、四人揃って顔を向ける。華奢だが凛とした佇まいの女性と、その隣には笑顔で手を振る男の子がいた。ふたりを見た清水は表情を和らげさっと駆け寄り、車のドアから覗く袋を担ぐ。

「重かっただろ。ごめん」

 続いて長い布地の袋を取ると柳田を手招き、同じような形のものをもう一つ出す。

「いいのよ。晴樹君のもついでに持って来たから運んじゃって」

「すんません!あざす!」

 柳田の分らしいそれを清水は左肩に掛け、目の前にある市民体育館へ行こうとする。

「にーちゃん、今日はお風呂一緒に入れる?」

 少しだけ寂しそうに、小さな手で清水のワイシャツを掴んだ男の子は清水の弟らしい。上目で清水を見て甘えている。担いでいたものを乾いたアスファルトの上に置き、清水は身を屈めた。

「今日、というかしばらく無理そうだ。ごめんな。休みの日に入ろう」

 な、と今まで聞いたことがない程優しい声色に目を丸くすると、俺と髙橋に気が付いた女性は頭を下げた。

「健太郎のお友達?」

「あ、えっと……」

「そんな感じです!」

「どっちかっつーと俺の友達です!」

 と、柳田が言うとその人は笑った。

「健太郎の母です。デカいし仏頂面で怖いかもしれないけど、仲良くしてあげて」

「酷ぇ言い様」

 拗ねたように清水は呟いて、アスファルトに置いたものを担ぎ直した。空いている手で男の子の頭を撫で、俺達に向き直る。

「じゃあな。ちゃんと母さんの言うこと聞くんだぞ」

「はーい」

 いってらっしゃい、と寂しそうにしながらも清水を見送る彼は、相当清水に懐いているらしい。

「板に付いてんな」

「まぁな」

「お袋さんめっちゃ細ぇ」

「昨日俺も思った」

 柳田と髙橋が弟に言い聞かせていた清水についてやお袋さんについてを話す。お袋さんも背は高いが、体型は細く清水のそれとはかけ離れている。

「俺は父親似だから」

 ポツリと溢れた言葉はどこか誇らしそうで、大層可愛がられて育ったのだろう、なんて嫌味な言葉が出そうになる。

「清水ー、こっち」

「おお、よーっす」

 他校のヤツが清水を呼び、清水と柳田はそちらへ行ってしまう。が、清水はひと言断りを入れ、すぐに戻ってきた。

「いいのか?」

「え?だって、俺が誘ったのに放置してたら意味ねぇだろ」

「まぁ、」

 確かに、と呟き、清水と髙橋の間を歩く。

 市民体育館の中は中高生だけでなく、小さな子どももいて賑わっている。バタバタと走る子どもを呼び止める親の声や、持ち寄った漫画を読んで笑っている中学生達、固まって何やらずっと話している大人と、高校と家しか行き来をしない俺にとっては珍しい光景があった。

「今日はお邪魔する感じだから、俺らはあの辺にいるから」

 と、先程清水と話していたヤツらと柳田がいる辺りを指差した。

「柳田、水道ってどっち?ドライヤーとかある?」

「あっち!真っ直ぐ行きゃプールに繋がってるからそこにある!」

 だってよ、と柳田の言葉と繋げるように言い、どこか優しげな顔で俺を見た。

「まだ髪乾き切ってねぇだろ。風邪引くから乾かして来い。髙橋も」

「おー、さすがにーちゃん!」

「その呼び方は弟限定な。行ってこい」

 髙橋の背中を数度叩いて、清水は柔らかく笑った。

「マサ、借りに行こ」

「おう」

 あとで、と髙橋が明るく言ったのを聞きながら、なぜかその場から動こうとしなかった足を無理矢理動かした。

「清水に弟って納得だわー」

「そうか?」

「えー、思わん?面倒見いい感じするし」

 明るい声から少しだけ影を含んだ声色に変化した髙橋の言葉は、考え過ぎから引き起こされた劣等感に塗れている。

 渡り廊下は驚く程無機質だった。温かみのない天井と壁は無機質な昼白色に照らされ、さらに温度を失っている。日に焼けた髙橋の赤い頬ですらその色が落ち着いて見えた。

「気になるんなら聞きゃいいだろ」

 見ていられなくて言ったのだが、あれ程--良くない癖が出る程思い悩んでいたのを知っている手前、少しの申し訳なさを覚える。髙橋が深く息を吐いた。

「ホントだよな」

 ぐしゃりと潰されたような下手くそな笑顔で天井を見上げて手で隠した。

 一際低い温度が肌を撫でた。閉まりきっていない蛇口からはしたしたと水滴が落ち、鉄の上を徐々に侵食している。

「ドライヤー?ある?」

「……あ、アレじゃね?」

 言われた場所まで辿り着いたものの目当てのものは見当たらず、ふたりで一度首を傾げた。少し辺りを見渡した後、そのさらに奥に更衣室があることに気が付いた髙橋がそこまで走っていった。

「マサ、あった」

 更衣室の方へ歩いていると、ドアを少し押して開けている髙橋に手招かれる。その薄い身体をドアにぴたりと付け、中の様子を伺った。

「誰かいる?」

「いないわ。借りてさっさと戻ろ」

「だな」

 髙橋に続いて中に入り、借ります、と誰にともなく呟いた髙橋がドライヤーを手に取った。

「なぁ、清水と仲良くできそ?」

「は?する意味」

「ひっでぇの。折角見に来たりなんだりすんだし仲良くしろよ」

「どうでもいいわ」

 あんなヤツ、と吐き捨てるものの、なぜか柔らかく笑う清水の顔が思い出された。

「清水って笑うのな」

「そりゃ人間なんだし笑うだろ」

 ケラケラと髙橋が笑い、ドライヤーが鳴らしている申し訳程度の騒音は掻き消された。

「まぁ、イメージねぇよな。お袋さんも言ってたけど基本仏頂面だし」

「そう」

 いや、笑うことはあった。ない訳ではない。俺がちゃんと見ていなかっただけで、あの時だって笑っていた。口角を上げて嫌味な笑い方ではなくて、今日みたいな優しい、柔らかい顔で。

「ん、使っていーよ」

「ん」

 髙橋からドライヤーを受け取り、温かい風を殆ど乾いている短い髪に当てる。乾いているとはいえ冷えていたのか、安っぽい音を響かせるドライヤーの熱でも温められ体温を取り戻していった。なんてことはない、と思っていた指先も温度を取り戻した。

 ドライヤーを止める。

「行くか」

「ん」

 ドライヤーを何も掛かっていないフックへと戻し、ドアから半分身体を出して待っている髙橋を追って更衣室を後にする。無機質な廊下を抜け開けたホールへ出ると、俺と髙橋に気が付いた柳田が手を振った。髙橋は嬉しそうに振り返す。他校の友人と話していた清水もこちらへ視線を移し、右手を軽く上げた。

「寒気しねぇか?」

「ダイジョーブ!頭だけでも違ぇのな」

「お前ら汗もかいてたしそのせいだろ」

 俺と髙橋が戻ったことで、柳田だけでなく清水は友人達との会話を切り上げたらしい。僅かばかりの申し訳なさを覚える。

「清水とおんなじ高校なん?」

「え、うん」

「野球部かぁ」

 そう、と俺と髙橋に向けられた質問には興味が滲んでいる。特に嫌な色も含まないそれを無視する理由もない。

「清水も柳田も帰宅部だろ?」

「なんで野球部のヤツ連れて来たんだよ」

「清水は帰宅部じゃないよ」

「マジ?何部?」

 と、清水は友人達に教えていなかったらしく、興味はそちらへ移った。そうとなれば俺と髙橋が無理に話に入る必要はないし、ジャージのポケットからスマホを取り出す。メールが入っていた。開くと母からで、短くひと言『夕飯は?』とだけあった。無意識に溜息を溢しそうになったが、この場の空気を濁してはならないと飲み下す。

「マサ?」

「ん、なんでもねぇよ」

 唯一髙橋だけが気付き俺を横目に見ていたのだが、その目は分かりやすく不安の色を滲ませていた。

 玄関ドアが開き、数名の足音が響く。ソイツらは清水や柳田、ふたりの友人達が持っているのと同じ長い袋を担いでいた。

「アレが相手?」

「そ。けど、あいつらも出稽古なんだけど、私立のちょっと感じ悪い奴らだから--」

「え?お前ってもしかしてだけど八古?」

 気を付けろよ、と言った清水の声に被って、たった今入ってきた集団の一人が俺の名前を呼ぶ。そこにあったのは見慣れた顔だった。名前は、

「誰だ?お前」

 忘れたわけではないが、口に出したくもない程嫌いな中学の時に同じ塾に通っていたヤツだった。互いに眉を顰めながら、思い切り睨みつける。ソイツが、ハッ、と大袈裟に笑って見せた。

「トボけてやんの。何?俺が受かった志望校に落ちたからへそ曲げてんのか」

 アホくさ、とソイツは吐き捨てる。

「八古、相手にすんな」

 清水が俺の右肩に手を添え、耳元に口を寄せる。後が面倒になる、と小さく呟いたのを聞いて頷き顔を背けると、今度はカエルを踏んだような汚い音がホール中に響き渡った。俺たちの中の誰かではない、と目を向けずに無視をする。

「不良いんじゃん」

「え?どれ」

「あの一番デッケェ奴」

「マジ?」

 マジマジ、と不快な声が鼓膜を揺らした。

「なぁ、デッケェの。清水だったか?」

 すぐ近くで大きく息を吐く音が聞こえ、肩にあった熱が離れていく。唸り声がした。

「何」

 昨日今日で聞き慣れた掠れ声がすぐそこで返事をし、デカい身体が少し揺れる。

「お前、補導?逮捕?どっちか知らねえけど、されたことあるよな」

「は?」

 と、無意識に口から息が溢れる。

「そうだけど」

 なに、と何でもないように清水は答えた。柳田と、他の友人達が不快そうに顔を歪める。

「清水」

「ん?」

「マジなん?」

 信じられないと言うように髙橋が清水に訊くと、清水は柔らかく笑った。柳田達は顔を歪めながらも、心配そうに視線を清水へと向ける。清水が宥めるように柳田の肩を叩いた。

「マジだけど、無意味に人を殴ったりはしねぇよ」

 優しい顔のまま、清水は少し遠くへと目を遣った。それは優しさなんていうものは微塵もなく、ただ低い温度を込めた軽蔑の眼差しに見える。

「お前らは母親が殴られて平気か?弟が殴られて平気なのか」

 なぁ、と口角を上げてはいるものの、冷え込む一方の表情のまま清水はソイツへと問い掛けた。が、俺と髙橋は意味が分からず目を見合わせる。

--母親、あの人が殴られた?弟も?なんでそんなこと、てか、誰にだよ。父親か?いや、でも父親は優しいんだろ。じゃあ、

「誰が、」

 顔を引き攣らせながら、髙橋が呟いた。清水の顔が見る間に歪む。

「再婚相手だよ」

--俺の父親は十年前に死んでる。

頭を殴られたような、首を斬り落とされたような、そんな強い衝撃が俺と髙橋を襲った。

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