滲む不快感

 俺は清水の過去が嫌いだ。

 清水は家族思いで、お袋さんも弟も同じくらい大切に思っている。それが見ているだけの俺達にも分かるくらい、清水は家族を特別扱いしている。そんな清水だから、ふたりを守ろうとしての行動だということも、清水自身がそれを後悔していないことも理解している。けれど、どうしても俺はそれを受け止め切れずにいる。

 今だって、本当なら、できるなら聞きたくない。両手で耳を覆い、やめてくれ、と叫ぶことができたなら。と、妄想するけれどそうもいかない。ただ聞くだけの俺と、実際に目の当たりにした清水とでは、苦痛なんて比にならないのだから。けれど、俺が顔を歪めるとその話は終わる。清水は、優しいから。

「で?他に質問は?」

 清水が聞くと、大体は口籠って答えない。いつものことだ。それに安心して息を吐こうとすると、遠くから足音がひとつこちらへ向かってきた。制止する声も聞こえる。

「なに開き直ってんだよ。人殴ってんのに変わりはねぇだろ」

「開き直るっつーか、事実だから認めてるだけだろ。何そんなキレてんの?お前に関係ねぇじゃん」

 めんど、と清水は溜息混じりに呟いて、八古の知り合いらしいそいつを見た。その顔は睨むのでもなく、緩く口角が上がっているようにも見えるのだけれど、ただ軽蔑の色を示している。

「無意味に他人を傷付けたりしない。必要なことだからやった。さっきも言っただろ。家族のためだった。しつけぇんだよ。お前」

 聞いたこともない程冷たい声で、口調で清水は言い切る。それが、俺には辛かった。

 こんな話をさせたくない。こんな顔をさせたくない。聞きたくない。見たくない。清水のことを深く知らないやつに、どうしてこんなことを言われなければならないんだ。

「マザコンかよ。キモ」

「いい加減にしろよ」

 俺が言い終わるのと同じタイミングで、道場のやつがそいつの胸倉を掴んだ。うちの連中と比べても細い身体が大きく揺れるのを見て、清水が慌てて二人の間に身体を差し込む。

「おい、やめろって。初日から問題起こすな」

「知らねぇ奴に勝手言われてんだぞ」

「いいんだって」

 落ち着け、と俺や他の連中を宥めようと声に呆れを滲ませる。

「なにやってんだ。いい加減行くぞ」

 今まで無関心を貫いていた私立のやつが声を掛けると、そいつは舌打ちをして俺達に背中を向けた。その背中に腹が立って、胸の辺りがゾワゾワして落ち着かない。爪が掌に刺さる。

「柳田、大丈夫だから」

「……ん」

 咳払いで誤魔化して、清水に頷く。温かい清水の手が背中を撫でた。俯いて小さく息を吐く。

 俺の中にあるのはあいつへの嫌悪感と、清水への感謝だけ。清水は友達で、仲間で、理解者だ。だからだろうか。清水自身を、清水の過去をなにも知らないやつに貶されるのは許せない。

「先生こんばんは!」

「こんばんは!始められるように用意しておけよー!」

 明るく挨拶する子ども達に、若い先生が答える。目を上げると竹刀袋を持っていて、今日から世話になる人だと一目で分かった。

「あ、あの人か」

「知ってんの?」

「この辺じゃ有名人だろ。俺ら挨拶してくる」

 俺も、と清水達の背中を追おうと足を踏み出す。けれど、誰かに腕を掴まれたようでそれは阻止された。

「へ?」

 掴まれた腕を辿っていくと、そこにあったのは苦しそうに歪められた侑司の顔で、自分でもびっくりする程間抜けな声が出た。

「……便所」

「え、ああ。いてら」

 ぶっきらぼうに言いながら八古が立ち去り、人が大勢いたはずの空間で俺と侑司だけが隔離されたような、そんな感覚になる程他の音が全部遠退く。

 あ、コレ--知ってる。

 歪められている侑司の顔も、先程までより強く掴まれている腕の感覚も、俺は知っている。いや、過去に俺がしたのと同じことだ。

--大智さん、俺のこと……ですか?

「ハル」

 侑司に呼ばれて脳裏に過ったノイズを掻き消して、無理矢理口角を上げる。

「なした?」

 俺は今上手く笑えているだろうか。そればかり不安で、他のことが考えられない。目の前の侑司の瞳が揺れた。

「ハルは、清水のことが好きなん?」

 気管が冷え切った空気を吸ったように痛んで、言葉をつっかえさせる。

 どうしてそう思ったのか、なんて質問は野暮なのだろうか。侑司は確かに知らないし、俺についても言っていないし。どうしたものか。

 じわりと分泌される唾液を数回飲み下し、喉をこじ開ける。

「俺は」

 震えた声が情けなくて、恥ずかしい。それでも言わなければならない。濁したものの輪郭を整えなければならない。

「俺は、誰も好きじゃないよ。」

 そんな顔を、させたいわけじゃないんだ。


***


 いきなりデカい爆弾落としちまったかな。

 なんて後悔する間もなく、勉強はできるであろうバカのせいで隠そうとしていた話をする羽目になった。

 昨日互いを知ったばかり。距離感も微妙に分かりにくい。否、近くないことは明確だ。良いところも悪いところも曖昧。そんな関係性の俺が過去に人を殴って警察の世話になったことがあり、且つ血の繋がった父親は十年前に死んでいる、という情報過多をあいつら--八古と髙橋はどう処理するのだろうか。

「いやぁ、お前達も大変だな!ちゃんと面倒は見るからな、頑張ってくれよ!」

「はい、よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

 と、頭の中の絡まって解くのに苦労しそうな話よりも、実際に口から出てくるものは単純で、何も考えずともすんなりと吐くことができる。

「じゃああと二十分でストレッチとかも済ませてくれよ」

 あとでな、と俺と同じくらいの目線にあるその人の目が優しく細められた。道場の奴らと一緒に頭を下げる。

「時間ねぇな」

「小学生とも一緒にやるんだな」

「中高生はその後で更にやるらしいぞ」

「へぇ」

 口々に少年団の稽古について話しながら、荷物を置いたままの元いた場所へ戻ろうと振り返る。柳田と髙橋がじっと動かずにそこにいた。

「おーい、なにしてんだ?」

 柳田に向けてひとりが声を掛けた。すると弾かれたようにこちらへ顔を向け、普段のものとも、格技室で見たのとも違う、歪な笑顔を見せた。その後ろには今にも泣き出しそうな髙橋が隠れていた。

「悪ぃ、清水。俺帰るわ!」

 じゃあな、となんでもないふうを装った髙橋が柳田の陰から手を振る。止める理由もないが、

「八古は?どーすんの」

「あー、一応メールしとく。じゃ!」

 先程まで騒いでいた子ども達のようにバタバタと足音を鳴らして、髙橋は下駄箱へと走って行く。柳田はどこか居心地の悪そうな顔でそれを見送っていた。

「八古は?」

「便所、って」

 少し考えて、柳田に防具と竹刀を押し付ける。反射的に受け取ったらしいが、重さに驚き落としそうになっていた。

「ちょっと行ってくる」

「いや、もう行かねぇと」

「すぐ戻っから」

 先行ってて、と言い残して髙橋を追おうと柳田に背中を向ける。髙橋は丁度外へ出たところだった。靴を履き替え、ドアを押し開ける。出入り口から少し離れた花壇に彼は項垂れて腰掛けていた。

「髙橋」

 呼ぶと顔をこちらに向けず横目に俺を見て両手で顔を覆い、来たのかよ、と呟いた。

「帰るんなら、もうそろそろでバス来るぞ」

「追っ払いに来たのかよ」

「そうじゃなくて、心配で来たんだけど」

 なんか飲むか、と自販機に小銭を入れながら聞くが、オーダーする気はないらしい。好みは知らないが、嫌いな男子高校生がいないであろうコーラのボタンを押す。ガコン、と音がした。

「ほれ」

「……サンキュ」

 缶を受け取った髙橋はプルタブを引くこともせず、冷たいそれを両掌で包み込んだ。スポーツドリンクのペットボトルが鈍い音を立てて落ちてくる。

「なんか言われたのか」

「清水には関係ねぇじゃん」

「まぁ、そうな」

 もともとそこまで興味があるわけではないが、理由も言わずに帰ると言い出した髙橋を放っておけなくて来たに過ぎない。俺の自己満足だ。

 中身が入ったままのペットボトルを右手で握り、ゆっくりと姿勢を崩さずに素振りの動作をする。

「質問を変えよう」

「何キャラ、それ」

「まぁ気にすんな。で、柳田になんて言われた?」

 今日一日、朝と昼と、そして今で分かったことは髙橋は随分と柳田を気に掛けている、ということ。なにを意味するかまでは確定できないが、それでもなにかがあることは分かる。素振りをやめ、ボトルを髙橋の隣へと静かに置く。

 するりと出て来ると思っていた言葉は数回飲み込まれ、それと引き換えに数回の溜息が吐かれた。悪い事をして叱られている時の弟を思い出す。

「誰も好きじゃないって」

 溜息とともに髙橋は呟き、ガシガシと頭を雑に掻いた。

「なるほどな。……ああ、まぁ、言い方が悪いって言っとくわ」

「うん」

「あと、別に誰も好きじゃない訳ではねぇんだよ。あいつがそう思い込みたいだけで」

「いや、そういうのいいよ」

「マジだから、聞け」

 少し声のトーンを落とすと、髙橋は無意識に俺へと顔を向ける。目にいっぱいの涙を溜めたまま溢さずにいる髙橋も、あの時の柳田程ではないが痛々しい。

 どれから話そうか、とアキレス腱を伸ばしながら少し思案する。

「俺から話すことじゃない、とは昼に言ったよな」

「聞いた」

 とりあえず、それを覚えていたことに安堵して小さく息を吐く。進まない気を紛らわせようと脚を替え、またアキレス腱を伸ばす。

「デミセクシュアル、って知ってるか」

 人の柔らかいところを差し出すことに心が痛んで罪悪感を抱くが、あいつが言うに言えないことをそれに悩んでいる奴へ代わりに言ってやるのも俺の務めかもしれない、と苦しい言い訳をする。

「なに、それ」

「だよな。半性愛、ともいうらしい。結構多いとは思うんだけど、それだって自覚してる人は多分少ない。」

「はんせい?愛?」

 耳慣れない言葉を聞き返す髙橋は柳田が自身につい知った時と同じで、懐かしさを覚えた。

「そう。えっと、精神的繋がり、だと言葉が固いな……すんげぇ仲良くなった人を好きになる、って感じ。……なんだけど、柳田の場合はまた違くて」

一度言葉を止めて、どこまでを話そうか、なんて今更なことを考える。全て話してしまえ、と誰かが耳元で囁いた。

「あいつは、異性を好きになれないんだよ」

 じわり、と苦いものが口の中に広がった。

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