小さな勇気とラッキースター ~ 創作を愛するすべての人たちへ…… ~

四谷軒

クロード・モネと松方幸次郎、そして私

 1921年。

 パリ郊外、ジヴェルニー。

 私、矢代幸雄やしろゆきおは知己である松方幸次郎氏と共に、クロード・モネの邸を訪ねていた。



 ……知己ちきというには恐れ多く、先輩というのも、何だかはばかられる。

 というのも、松方幸次郎氏――松方さんは、かの元老、元・内閣総理大臣、松方正義の令息であり、かつ、川崎造船所の社長である。そして彼は御年五十五歳であり、押しも押されぬ風格を持つ。

 松方さんは当時、西洋美術の作品を多く蒐集しゅうしゅうし、それはのちに「松方コレクション」として名を馳せ、東京上野の西洋美術館へとつながっていくのだが、それについては別の話なので今は措く。

 一方、私、矢代幸雄は、美術には一家言あると自負するが、いかんせん、まだ三十一歳の若造である。


「矢代君、君も一緒に来るかい?」


 だが、気さくな性格で、こういう風に、まるで同年配の知己であるかのように語りかけてくる。


「行き先? ジヴェルニーだ。かのクロード・モネのやしきだよ」


 そう……こんな風に気さくに、それでいて油断するとを投げてくる。


「え、松方さん。そんな気軽にクロード・モネの邸に行くなんてそんな」


「先の、画商のポール・ローザンベールの画廊がろうでのやり取り、つまり君のと主張、実に良かった。だからこそ、これからのジヴェルニー行、付き合って欲しい」


 そう言って松方さんは、モネを訪れるための景気づけだというのか、私を伴って、まずレストランへ入った。



 説明が必要だと思う。

 私、矢代幸雄は、美術を志し、美術を研究し、そしてこれを書いている時点では大和文華館の館長を務めている。

 それを誇るわけではないが、これから語る、私とクロード・モネとの間での小さな勇気が必要だった話に、真実味を伴わせるには必要かと思って書いた。

 では引き続き、私と松方さんのジヴェルニー行のことを語っていきたいと思う。



「ここのレストランのブランデーは実に旨いんだよ」


 松方さんは実に上機嫌だった。

 彼が言う、「画商、ポール・ローザンベールの画廊でのやり取り」があったというのに、実に上機嫌だった。

 その「やり取り」というのは、松方さんと共にくだんの画廊へ行った時のことである。

 当時、その画廊にはゴッホの「アルルの寝室」とルノワールの「アルジェリア風のパリの女たち」があった。

 私はその二つのを、どうしても買い求めるべきだと主張した。

 この二つは名画だ。掛け値なしの。

 ぜひ、松方さんに買い取ってもらって、彼の目指す「共楽美術館」に飾るべきだ、と主張した。

 「共楽美術館」とは、説明すると長くなるので詳細は割愛するが、松方さんがその盟友であるフランク・ブラングィンというベルギー出身のイギリスの画家と構想した美術館である。

 その意味合いとしては、「共楽」つまり、西洋絵画や彫刻といった美術品を松方さんや一部の人だけで独占することなく、本邦の国民に共に観て楽しんでもらう、そのための美術館である。

 すなわち――当今の国立西洋美術館である。

 その後松方さんは、そのブラングィン氏のアドバイスに従い、こうしてパリにでて、私をお供にして西洋美術品を渉猟する日々を送っている。

 そんな日々の中、私と松方さんは「アルルの寝室」と「アルジェリア風のパリの女たち」という、稀代の名画と出会ったわけである。


「……あの時の、昨日の君は、しつこかったね」


 松方さんは、出されたビスクに舌鼓を打ちながら、そう述懐した。

 実際、しつこかったと思う。

 その時松方さんは、何を思ったのか、そんなお金はない、それと、その二枚はそこまで金を払う価値は無い、と返してきた。

 私は憤った。

 買わないのなら、貴方の「共楽美術館」とやらには何の価値も無い、とまで言い切ったような気がする。

 ……とにかく、そうまで憤っていた私は、常なら毎日の画廊めぐりの最後に、松方さんと晩餐を共にするところを、それをせずに帰ってしまった。

 しかし、やっぱり今朝になって気まずくなって、松方さんへ詫びを入れようとして、彼の定宿へ行った。

 すると、モネ邸へ行こうと言われた次第である。

 今は、その前段階の、このレストランにいるわけだが。

 ビスクを終え、口を拭きながら松方さんは「そういえば」と懐中から書類を取り出した。


「矢代君、君の言っていた『アルル』と『アルジェリア風』だがね」


「はあ」


 われながら、気のない返事をしていたと思う。

 だが、次の瞬間、度肝を抜いた。


「その二枚なんだがね、買ったよ。あのあと。これはその時の売買契約書」


「えっ」


 ぱさり、と。

 何気なくテーブル上に放り出されたそれは、確かにポール・ローザンベールの手による契約書だった。

 見ると、「アルルの女たち」と「アルジェリア風のパリの女たち」を譲る、と明記されていた。


「驚いたかい?」


 松方さんはおどけるような仕草をして、そして説明した。

 「アルル」と「アルジェリア風」は確かに名画だと思ったこと。

 お金はある程度あった。ただし、私、矢代幸雄の「興奮」を見たローザンベールのこと、必ずや値を吊り上げてくるだろう、


「そのためには……これは兵法だ、矢代君。敢えて君を突き放したよ」


「…………」


 こうして一度画廊を去った松方さんは、私と喧嘩別れ(私からの一方的な喧嘩別れ)のあと、巧妙にも代理の者を立てて、ローザンベール画廊へと派遣し、見事くだんの二枚を手に入れおおせたという。

 何故だろう。

 そう思った私だが、すぐに答えを思いついた。


「そうか。私に対してしておけば……あの画商、ローザンベールは、松方さんにあの二枚を売るには、安くしなくては、と思わされる……」


「そう。ついでに言うと、画を『本命』と称して、その『抱き合わせ』でその二枚は買った……そう、、ついでだ、と称してね」


 松方さんはこともなげといった感じで言い放ち、そしておもむろに卓上にあったブランデーを手に取って、私の杯に注いだ。

 

一献いっこん、どうだね」


「いただきます」


 ナポレオンと記されたびんから注がれたそれは、私の喉を熱く潤す。

 ぷはあ、と息をつく。

 松方さんはそれを微笑んで見ており、やがて口を開いた。


「矢代君」


「はい」


「……君は、やはり私の見込んだとおりの男だ。その審美眼、その直言……、ぜひ、これからのジヴェルニー行き、モネ邸への訪問、付き合ってもらいたい」


 ……この時私は、松方さんが頭を下げてきたことを、私をにして「アルルの寝室」と「アルジェリア風のパリの女たち」を得たことを詫びてきた、と考えていた。

 そのお詫びのかたちとして、印象派の巨匠、モネと会う機会をセッティングしてくれたのだ、と考えていたのだ。

 だが、それはちがっていた。

 松方さんの考えは、そう、私への詫びを包含していただろうけども、もっとちがう、別のところにウェイトが置かれていた。

 それを知るのは、実際にモネに会って会話してから分かるのだが、とにもかくにも私としては、あのモネに会えるという期待感が浮かびつつ、一方で、最近パリ市中でささやかれる、「モネは老いた」「あの色づかいはもう」という巷説が脳内に浮かんだ。



 そんなわけでジヴェルニーである。

 松方さんは先程のレストランで購入したナポレオンげて、モネ邸の前に立った。


「おーい」


 フランス絵画界の重鎮、クロード・モネに対し、この気安さである。

 そう、松方さんはモネとかなり親しい。

 それはおそらく、松方さんの姪、黒木竹子女史(黒木為楨くろきためもと陸軍大将の息子、黒木三次氏の夫人)が夫の三次氏ともどもモネと親しく、そこからの紹介によるものだと思うが、それにしたって、この気安さは異常だ。


「……どうしてそんなに、モネと親しいんですか?」


 そんな疑問が、つい口を出た。

 松方さんはちょっと驚いたような顔をしたが、すぐに破顔して答えた。


「……そりゃあ同じ地球という幸い星ラッキー・スターに住む仲間だからさ。そう思えばほら、小さな勇気を出せば、親しくなれるだろう?」


「はあ……」


 意味不明な理屈である。聞くと、小さい頃、郷里鹿児島にいた時に、「雨粒が落ちるまでに三回抜刀する」という剣を見せてくれた侍に会い、その侍に聞いた言葉だという。その侍もまた、侍の先生に聞いた言葉だという。


「侍というと、幕末とかその辺ですか」


「……その桐野利秋の先生は、幕末だ」


 そうするとその先生とは……と聞こうとしたところで、邸からクロード・モネがそのぽっちゃりした躰をのぞかせた。


「コウジロウ!」


「クロード!」


 松方さんもさすがに寄る年波でぽっちゃりした体形なので、モネと松方さんが抱き合うと、それはそれは壮観であった。

 ひとしきり久闊を叙したあと、モネは松方さんと私を(松方さんに紹介されたため、ユキオ、と呼んでくれた)邸へ招じ入れてくれた。



〽ナポレオ~ン

 ナポレオ~ン


 このシャンソン歌手シャンソニエのような歌声は誰あろう、クロード・モネのものである。

 モネは、松方さんが「みやげがある」といって、取り出した酒壜さかびんを見て、大はしゃぎだった。

 そう、例のレストランで購入したナポレオンだ。

 モネはこの酒に目がなかった。


「コウジロウは私の好みがわかってる」


 モネは上機嫌だった。

 当時、もう晩年で、八十近い年齢の老人、モネであったが、この時ばかりはまるで若人のように、松方さんと肩を抱き合って、歌い、はしゃいでいた。


「……それで、今日は何しに?」


 モネはそう言って、松方さんの顔を見た。

 松方さんは、画を観に来たと言った。


「画を?」


「そうだ」


 そこで松方さんはモネの肩を抱いてさあ観せてくれと連れ立って歩き出した。

 勝手知ったる何とやら、松方さんは家主であるはずのモネを導くように足を運ぶ。

 そして肩越しにチラと振り返って、意味ありげに私にウインクした。


「この子は」


 松方さんはそう言って私を呼んだ。

 実際、八十歳のモネと五十歳の松方さんを前に、三十歳そこそこの私は子ども同然である。

 でも、子どもは無いだろうと、(モネの前なので比較的穏やかに)苦言を呈した。


「聞いたか」


 松方さんは得意げにモネに言った。

 と言っても英語である。

 松方さんは、英語はできる方だが、フランス語はそこそこである。

 対するやモネは、やはりフランス語オンリーで、英語ができるわけではない。

 何となく、わかるだけだ。

 それでもこの二人のコミュニケーションは意外にも成立し、言葉自体はぽつりぽつりと言われても、二人はそうだそうだとうなずいては笑っていた。



 さて私たちはモネ邸を歩き回って、飾ってある画を観た。堪能した。

 松方さんは一度観たことがあるらしく、ああこれだこれだあったあったと手を叩いて感動を表現した。

 それでひととおり観て回ったあとに、こう言った。


「今、私が手を叩いた画。いくつあったと思う?」


「たしか……十八くらいかと」


「そうか」


 すると松方さんはモネの方を振り向いて、今、手を叩いて讃えた画を、みんなれと言い出した。


「みんな? 十八枚もか?」


 これにはさしものモネも目をいた。

 というのも、モネとしては、自邸に飾る自分の画は、自らの鑑賞用として取っておくつもりの画なのである。

 それを、寄越せ……と、遥か極東からやって来た友人が胸をそらして言うのだ。

 私は、あわあわとした。

 いくら松方さんでも、親友でも、それは無いだろう

 そう思って、この場をどうしようかと、若輩者ながら考えたが、それよりも前にモネが反応した。


「お前は……」


 モネは下を向いてぷるぷると震えている。

 待って、と私が言おうとした時だった。


「お前は……そんなに私の画が好きか」


 モネが顔を上げた。

 そこには、満面の笑みがあった。


「これらは売り物ではない。私の観賞用だ……が、お前がそんなに言うんなら、譲ろうじゃないか」


 それを聞いた松方さんは、私にウインクした。

 ほら見ろ、小さな勇気を出した結果だ、とささやいた。

 それを「小さな」と言えるのは、松方さんのような度胸の持ち主だけだ、と思ったが、私はおごそかにうなずいた。

 なぜなら、モネには松方さんのと友情があり、そしておそらくモネは松方さんの「共楽美術館」の構想を知っている。

 きっと「小さな」勇気を出したのは、松方さんだけでなく、モネもなのだろう。



「まだ日が高い」


 モネはそう言うと、自慢の庭園へと向かった。

 睡蓮の池があるそれは、のちの「睡蓮」の名で知られる、モネ畢生のシリーズを生み出したそれである。

 松方さんは、モネの家族と共に酒盛りの準備をするというので、私がイーゼルを運んだ。

 あとで思えば、松方さんなりの心遣いだったのだろう。

 私と……そして、モネへの。


「じゃあ、描くか」


 言うが早いが、モネはパレットをかまえ、筆を持つ。

 絵具を混ぜて、色を作る。

 キャンヴァスに塗られるそれは、その色は、どことなく、赤茶けていた。


「…………」


 モネと言えば、青や緑といった鮮やかな色彩が持ち味だ。

 少なくとも、「当時の」私はそう思っていた。

 それが、どうだ。

 この赤茶けた色。

 それは何か……だ。

 そう、感じた。


 ――モネは老いた。


 ――あの色づかいはもう


 そういった声が、胸中を去来する。

 一方で耳には、モネの鼻歌が聞こえる。

 実に上機嫌だ。

 私は不機嫌だ。

 不機嫌だった。

 もやもやする。

 あの天才が。

 印象派の巨匠が。

 何故、こんな色を。

 否。

 何で。

 私は、と……。


「あの」


 気がついたら、私は口を開いていた。

 今思えば、あの時の私は、まさに「小さな勇気」を振り絞ろうとしていた。

 美術を志していたものの、まだ駆け出しで、半人前で。

 そう、たとえば松方さんのような大きさもない。

 だからまさに「小さな」勇気だった。


「あの」


「何だね?」


 モネはといえば、その手を休めず、実に悠々と画を描いていた。

 私の声かけにも、特に機嫌を崩さずに、ちらと目線をくれてくれる。


「……その、色は……なんじゃないんですか」


「色? どこが?」


 字面だと苛々しているように思えるかもしれないが、モネは実に不思議そうに言っていた。

 私はそこで「失礼パルドン」と言って、近くによって、指を差した。

 赤茶色に。


「ここ。ここ、じゃないですか」


「……?」


 さすがに怒られるか。

 そう思って首をすくめた時だった。


驚いたOh là là!」


 印象派の巨匠は、そう言って笑った。

 実際、腹を抱えて、腰を折って、笑った。


「はっはっは……こいつはいい! こいつはいい! そうか……ユキオ、君が……君こそが、コウジロウのだったということか! はっはっは!」


 目から涙を流して哄笑するモネ。

 だが私の視線に気づくと、すまんすまんと言って説明した。


「私はね……ユキオ、君たちが今素晴らしいボンと、絶賛してくれる画を描いていた時、そう、若い頃、そういう画を描いていた時……言われたよ、まさに『変』だとね」


「えっ、そうなんですか?」


そうさウイ。でも今は私が若い頃描いた、そういう画が評価を得ているだろう? こいつは私が間違っていなかったという自慢をしたいんじゃあない、ユキオ。画というのは……そうだな、創作というのは、そういうものなんだ、ということさ」


 モネは「見なさい」と言って、私の肩を抱いて、描いている途中の画の前に立たせた。


「たしかに赤茶けている……が、こいつが完成し、どこぞに飾られてみろ。その時に見てくれ、この赤茶けた色が……どうその目に映るだろうか」


 つまりモネは、若い頃から変わらず、自分にとって良い画を求め描きつづけていた。

 それが他人にとって、と思われても……少なくとも、描いている時は。

 むしろと思われた方が、モネとしては「自分のが変わっていない」と思えてうれしいらしい。


「そうか」


 だから松方さんは、私をモネに会わせたのだ。

 それなりに私を。


「ユキオ。君が私の画を今、と思うのは良い。何かを感じたんだろう? そして、そう思ったとなまの声を出すのも良い。そういうところを大事にしたまえ」


 モネはウインクして、さあもっと描くか、そして今夜は君も交えて大いに飲むぞ、とまた笑った。



 ……後年、もうモネも亡くなった後年、私はモネ美術館に飾られた、あの時モネが描いていた画を見た。


「……おお」


 それは

 赤茶けた色には変わらないが、たしかに睡蓮のある風景であり、それがより……と感じられた。


「実に……実に、素晴らしい」


 それ以上は言葉にできない。

 ただ、私もまた、変と言われようが、自分が良いと思ったものを追い求めてみよう。

 そう――思った。





* 





 矢代幸雄。

 彼が館長を務めた大和文華館は、誰かの嗜好に偏ることなく、ある時代、ある地域を象徴する作品を、あくまでも「美のため」「鑑賞のため」、公平に集められたコレクションを展示する美術館ミュゼとして知られる。






【了】


参考資料:矢代幸雄「藝術のパトロン 松方幸次郎、原三溪、大原二代、福島コレクション」 (中公文庫)

 

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