9-2 鉄血山を覆うて(1)

 西からの冷たい風が、未だ強く吹き下ろされる。

 陽光が雲に遮られているせいか。

 昼間だというのに薄暗く、晋祐の手入れしている寒蘭やえびね、水仙花も色味を失っている。

 その庭を臨む冷たい縁側に、キヨは一人ぼんやりと座っていた。

 吐く息は白く空気を濁らせ、同様に、キヨの溌剌はつらつと輝く大きな瞳も焦点が合わずよどんでいる。

 物思いにふけるキヨの肩に、一枚の羽織がかけられた。

「キヨさん、ここは寒いから。中に入ろう」

 冷たい外気にさらされ、凍りついたキヨの肩から手をさすり。晋祐は穏やかに言った。

晋祐様しんすけさぁ……」

 今にも泣き出さんばかりな表情で。キヨは晋祐を見上げる。

先刻さっき無塩売ぶえんうり(※ 魚売り)が来て、キヨさんが好きな石鯛を持ってきたんだ。焼いて食べよう、な」

兄様あにさぁは、大丈夫っじゃろかい」

 キヨは涙を目に浮かべて、晋祐の言葉を遮るように言った。

「大丈夫だ」

「あれから一切、手紙も無かち……。兄様は……」

「大丈夫! 利良殿は大丈夫だ!」

 胸に大きく渦巻く不安。それをようやく口にするキヨに、晋祐は強くそして穏やかに言い放った。ここのところ、キヨはこんな調子だ。

 明るく家事をこなし、何事もなく振る舞っていても。

 ふとした時に、不安に押しつぶされそうになるのか。

 発条ぜんまいの切れた絡繰からくり人形のように、突然、利良の座っていた縁側に座り込んで動かくなる。

 今にも泣き出しそうな表情で、冷たくなった縁側に座るキヨを。晋祐は冷え切ったキヨの肩に羽織をかけ、こうして宥めていた。

 キヨの吐露とろする不安も分かる。晋祐も同様だ。しかし今は何もできない。できないから、余計に不安が大きくなっていく。晋祐はキヨの肩を抱くと、日の光が見えない空を見上げて、思い出しては胸が痛くなるあの日の利良の姿を追いかけていた。


 ✳︎ ✳︎ ✳︎


「キヨさん! お湯と綺麗な手拭いと、谷山の軟膏を準備してくれッ!!」

 利良を背負って帰宅した晋祐は、玄関を開けるなり叫んだ。

 床の間にある神棚の前で手を合わせていたキヨは、飛び上がるほど驚いた。

 怖い顔をして無言で脇差しを掴んで出ていった晋祐。

 それに、姿を見せない兄・利良。

 どうか、ご無事でと。祈ることしかできないキヨは、結局一睡もしないまま朝を迎えていた。その矢先に、屋敷中に響く晋祐の声。いつもと違う晋祐の声音が部屋の奥まで響いて、赤い目をしたキヨは、飛び出しそうな鼓動を無理矢理抑えて部屋から飛び出した。

「んだもしたん(※ どうしましょう)!!」

 キヨは悲鳴に似た声を上げる。

 晋祐に背負われている利良の酷い姿は、キヨの足腰の力を奪ってしまうほど強い動揺を与え、思わずその場にへたり込んだ。

「キヨさん!」

「……何事が、あいもした、と……?」

「……ッ」

 直近まであれほど穏やかに笑っていた自分の兄の、変わり果てた姿を目の当たりにして。キヨがそう思うのも無理はない。

 しかし晋祐は、キヨの真っ直ぐで真っ当な質問に対し、即座に答えることができなかった。

 同郷の者に謂われなき理由を突きつけられて拘束された。理不尽な酷い拷問を受けたのだ。キヨに本当のことを伝える気概を、晋祐は未だ持ち合わせてはいなかった。

「キヨさん。後でちゃんと話すから……。だから、今は。俺の言葉を聞いて欲しい。お願いだから、キヨさん」

「分かい……した」

 晋祐の言葉に小さく頷いたキヨは、壁に寄りかかり立ち上がると、ふらふらと壁つたいに廊下を歩き出した。


 意識の無い利良の体を支えた晋祐が、血の滲んだ着物を脱がす。キヨはぬるま湯に浸した布で、そっと押さえながら利良の体を丁寧に拭きあげた。互いに言葉すら交わさない。黙々と手だけを動かしていく。

 時折、利良が小さく呻き声を上げた。その度に、キヨの頬を一条また一条と、溢れた涙がはらはらと落ちる。

「兄様ぁ……兄様ぁ」

 軟膏を塗る手は震え、嗚咽を押し殺すようにキヨは下唇を噛み締めた。憔悴し不安に押しつぶされそうなキヨの姿。そんなキヨを見ていられななった。晋祐は空いた手を、強張り固くなったキヨの肩にそっとのせた。

「大丈夫だ。利良殿は、大丈夫だから」

「兄様は……何の悪い事をしたたぁろかい」

「キヨさん、違うんだ」

「じゃあ、ないごて……こげな折檻ばうけなならんと? ちごうなら、ないごて? ないごてごわんどかい?」

 優しく宥めるように言う晋祐に、キヨは強い口調で問いただす。

 別に晋祐を非難しているわけでも、攻めているわけでもない。重傷の兄の姿と、自分の中で消化し切れない様々な感情が、キヨを余計に不安定にさせた。

 行き場を無くしたキヨの思いは、今まで抱いた事のない仄暗い塊となって放出される。軟膏を全ての傷に塗り終えたキヨは、泣き顔に無理に笑顔を作って晋祐から目を逸らした。

「……こげんこち、晋祐様に言っみてん、どげんもならん事じゃあさいなぁ」

「キヨさん……」

「軟膏が乾かんうっに、傷口に手拭いを当てんなら」

 無理矢理に、感情を押し殺す。吹っ切れたようにな笑顔を貼り付けたキヨは、心配げに見つめる晋祐をよそに、機敏な動きで手拭いを裂き利良の体に巻き付けていった。


「利良殿にもキヨさんにも。結局、何もできなかったな……」

 床の間で静かに眠る利良の傍らで、晋祐はポツリと呟いた。

 床の間に置かれた火鉢。

 その上に乗せた鉄瓶の注ぎ口が、軽やかに湯気を吹き出す。

 キヨと交替で利良の様子を見ていた晋祐は、たらいに張った水に手拭いを潜らせた。冷たい水に指先が一瞬で赤くなる。はぁと息を吐いた晋祐は、固く絞ったそれを未だ熱を帯びている利良の額に乗せた。

 引かぬ熱。うなされるように乱れる呼吸。

 手首には紫色に変色し荒縄で擦れた傷口のあとが、はっきりと残る。未だ目覚めぬ利良の手を、晋祐はそっと握りしめた。

 倒れた利良を背負い、夢中で家に連れ帰ってからもう半日が過ぎようとしていた。

 冬の時期は、夜になるのが早い。

 暗くなるにつれ、昨夜の出来事が晋祐の胸にずしりと沈み込んだ。そして驚くほど、鮮明に思い出させた。

「う……うぅ」

 小さな呻き声と共に、晋祐の手を握る利良の手に驚くほど強い力が入る。晋祐は思わず身を乗り出した。

「と、利良殿ッ!!」

 苦しげに顔をしかめる。

 頭の中のもやを振り払うように、利良はゆっくりと目を開けた。

 熱を帯び微睡んだ利良の視線。期待と不安を含んだ晋祐の眼差しとかち合った。

「し、んすけ……どん」

「良かった……っ!! 目を覚ました!!」

「……ごて、ないごて」

「何か腹に入れたいものはないか!? すぐこしらえるぞ!!」

「ないごて……おいに、触れっしもた?」

「……え?」

 稚児が泣き出す手前のように。

 一瞬、表情を歪ませた利良は、晋祐の手を振り解く。震える掌で顔を覆い、晋祐から顔を背けた。

「利良殿……どうした? どこか、痛いのか?」

 頑なに。嫌疑をかけられ連行されて以降、利良は自分との関わりを良しとしない。

 それは、一連の騒動に、晋祐を巻き込まないため。理解はしていても、利良が無事であれば全て良いと思っていた晋祐は、利良の気概に胸が痛くなった。

「ないごて、じゃろかい……」

 顔を覆う利良の掌の隙間から、一条の涙が流れるのが見える。

「ないごて……歪みってしもたろかい」

「利良殿……」

「ないごて……俺は。説得できんかったたろかい。誤解を拭えんかったたろかい」

「……」

「もう、俺は……薩摩ん志士じゃなかち、思われちょっどかい……」

 信じられないほど弱く、後悔に苛まれた利良の発したか細い声に、晋祐は言葉を失った。

 利良の肩が随分と小さく見える。

 人一倍、責任感も思いも強い利良だ。その肩に、政府要人としてどれほどの責務と重圧がのっているのだろうか? 

 同郷の容赦ない責苦。〝薩摩隼人〟の生魂にかけて耐え抜いた利良の傷心はどれほどのものだったのか?

 少し前なら、「大丈夫! 心配ない!」と言っていたかもしれない。晋祐は、振り解かれた手を握りしめた。

 何もできなかった。

 何の力にもなれなかった。

 利良を支える事すらできない自分が、軽々しく言って良い言葉ではなかったのだ。利良が安心して笑っていられるように「大丈夫」と言っていた己が発した言葉。

 今はその言葉に、自分自身が非常に憤りを感じた。

「少し……一人にして、くいやはんどかい」

 相変わらず顔を背けた利良が、小さく放った。

「そう……だよな。悪かった。隣の部屋にいるから、何かあったら呼んでくれ」

 利良が見ていないのにも拘らず、晋祐はわざと声を明るめに弾ませて答える。声とは裏腹に。無理矢理笑った顔は、自分でもわかるほどに引き攣っていた。

 利良の体温で温もった手拭いを握りしめ、晋祐は静かに襖を引く。一歩、部屋の外に出ると、冷たい空気が晋祐に纏わり付き、くたくたになった胸の中を蝕んでいった。

「……ッ!」

 泣き虫はもう治ったはずであるのに、晋祐の目から次々と涙が溢れてくる。手で口を覆い、嗚咽を抑えた。

 俺達が待ち望んだ黎明は、これだったのか?

 こんな風になりたくて、未来を……新世界を夢見たのか?

 黎明って、新世界って、何なんだ!?

 渦巻く疑問や怒りは晋祐の体を余計に冷やし、涙を止めることを忘れさせていた。


御無礼様ごぶれさぁごわんどん。有馬殿はおさいじゃもすか(※ いらっしゃいるだろうか)?」

 その声は深夜、丑の刻(午前二時)の頃。

 眠れぬ有馬邸によく通る声が、厳かに響いた。

 晋祐とキヨは、赤い目をそのままに思わず顔を見合わせる。

 厭な予感が二人の胸中を締め上げた。

 互いの不安げで強張った顔を合わせ、どちらともなく頷き襖を開けると、二人して足音を忍ばせ廊下を歩く。無意識に大きく息を吸った晋祐は、玄関の扉をそっと引いた。

「はい。ります」

「あぁ、有馬殿。まこて、御無礼様ごぶれさぁしちょいす」

「お、大久保様!?」

 玄関先は背の高い髭の男・大久保利通が立っている。突然の予想だにしない来訪者に、晋祐とキヨは腰を抜かすほど驚いてしまった。

「川路殿が、大変な世話にないした」

「……え?」

 更に予想外の事を言う大久保に、晋祐は言葉を失った。何故、ここに利良がいるとわかっているのか? 扉を握る晋祐の手に力が入る。

「政府ん船で 連れっもんで、川路殿をむけきっもした」

っち……! 兄様のる場所は、鹿児島ここでごわんそ!」

 大久保の一方的な言い分に、キヨが堪らず口を開いた。

 大久保は喚くキヨを鋭い視線で一瞥すると、恐怖で身を引くキヨを更に押し退ける。低い声で圧するように。「上がらしてもろでな」と言った大久保は革の履物のまま、脇目も振らず廊下を一直線に歩いていった。弾かれるように晋祐は、大久保を追いかけて叫んだ。

「お、大久保様!! 暫く!! 暫く、待ってくれ! 利良殿は重傷で--!」

「だから、連れっ帰る。東京の医者は優秀てんがもんじゃっで」

「でも!」

「では、ないごて。川路殿はこげんなるまで、責苦を受けたたろかい?」

「……」

「ないごて、川路殿を助けんじ、うっちょた(※ 放置した)たろかい?」

「それは……」

 正論を真正面から捲し立てる大久保に、晋祐はまともに言葉を返す事が出来なかった。

 何もかも、大久保の言うとおりだ。反論できる余地等、全くない。

 しかし、今。利良を大久保に連れて行かれたら……。

 重傷の利良の体への負担も大きい。それとは別に。晋祐は、二度と利良と会えない気がしてならなかったのだ。晋祐は、大久保の前に立ちはだかった。冷たい大久保の眼光を跳ね除けるように、精一杯の力を込めて大久保を睨み返す。

「い、今は! 今は、安静にしていなければ! 利良殿の体力も持ちません! 一週間!! いや三日!! 三日、待ってください!」

「できんこっじゃ」

 晋祐の叫びを冷静に一蹴し、大久保は立ちはだかる晋祐を払い退けた。

「大久保様ッ!!」

 晋祐の静止する声が虚しく響く。大久保は無言のまま、床の間の襖を勢いよくを開けた。


 ✳︎ ✳︎ ✳︎


 あっという間の出来事だった。

 頬に涙の跡を残し深く眠る利良に、大久保は自らの上着をかける。利良を軽々と横抱きにすると、何も言わずに入ってきた扉から出ていった。

 晋祐もキヨも、大久保を制することすらできなかった。

 「兄様ぁ……」と、キヨの小さな声が空っぽになった床の間に響く。漆黒の闇が大久保と利良を溶かしてしまったかのように、冷たく静かな空気が屋敷中に広がった。

 晋祐とキヨは、ただただ呆然と。大久保と利良が消えた漆黒の闇を、暫く見つめていた。


 西からの冷たい風が、晋祐の頬を強く掠める。晋祐はハッとした。陽光が西に傾き、厚い雲を外側かは朱に染め始めている。庭を臨む冷たい縁側で、晋祐はキヨと二人、長い間ぼんやりとしていたらしい。握りしめた互いの手が、驚くほど冷たかった。

「キヨさん、そろそろ中に入ろうか」

 晋祐がキヨに声をかけた、その時--。

 ドォォォン! と、凄まじい爆発音が響いた。

 低い雲を震わせる程の強烈な爆発音に驚いたキヨは、晋祐にしがみつく。そして毎度爆発の絶えない桜島の方角に視線を移した。

「晋祐様、桜島じゃなかろごた」

「あぁ……西の方角みたいだ」

 晋祐は、西の方角から椋鳥の群れが一斉に飛び上がったのを目撃していた。

(あの方角には、確か--)

そう思った瞬間。バタバタと道を走る慌ただし音が、庭の向こう側から鳴り響く。晋祐は勝手口から外に出ると、往来を走る若者を捕まえ声をかけた。

「何があったんだ?」

 若者は興奮で紅潮した顔を晋祐に向ける。

「草牟田ん陸軍の火薬庫が、爆発したげな!」

「爆発!?」

 晋祐の胸に一抹の不安がよぎった。

(厭な予感しかしない……)

 若者に礼を言って、屋敷に戻る晋祐の胸中は穏やかではなかった。自分の周りが見えない強い力によって、ずるずると悪い方向へ引き摺られるような感覚。晋祐は堪らず拳を握りしめた。


 --さいは投げられた。

 明治十年(一八七七年)一月二九日。

 私学校生二十数名が、鹿児島市草牟田にある陸軍の火薬庫を襲撃した。彼等による銃砲と弾薬の略奪は五日間にも及ぶ。その頃、錦江湾を挟んで薩摩半島の対岸・大隅半島で猟を楽しんでいた西郷隆盛にも私学校生の襲撃事件の知らせが入った。この時、知らせを聞いた西郷隆盛は、激しく狼狽したという。

 最大規模の士族の反乱であり、日本国内で最後の内戦といわれる『西南戦争』は、この襲撃によって口火を切る形となってしまったのだ。

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