6-1 有馬手記(6)

「えーっ!? 紗香さやかちゃんが結婚するのー!? あらー、結婚式は行かんないかんねぇ!」

 大音量で鹿児島弁を捲し立てる母親の声に、英祐は驚いて目を覚ました。

 握りしめていたスマートフォンと古書は床に落下していて、英祐は慌てて手を伸ばして回収する。

『有馬手記』と書かれた古書に没頭するあまり、ソファーでそのまま寝ていたらしい。英祐は、スマートフォンの画面に指先を触れた。

 午前十時四十三分--。

 夜更かしして、かなり寝過ぎた。英祐はゆっくりと体を起こして頭を掻く。そして、ソファーの上で固まった体をほぐすべく、大きく伸びをした。

「え? うち? うちはまだまだよー。一番上の英祐だって、就職もまだしちょらんがねー」

 母親の大音量がさらに増す。英祐はのっそりとソファーから立ち上がって、ダイニングテーブルに座った。

 テーブルの上には、朝食だった塩むすびに、焼き鮭と卵焼き。ラップの掛かったそれらを見つめると、英祐は一つ大きな欠伸あくびをした。ラップに包まれた塩むすびを手に取り、大きな口を開けてかぶりつく。

「あら、起きたの?」

 電話が終わったらしい母親が、英祐の背後から声をかけた。空になった洗濯籠を置き、パタパタとキッチンに入る。

「味噌汁とコーヒー、どっちにする?」

「両方」

 英祐の端的な答えに、母親は笑いながら鍋とやかんに火をかけた。

「従兄弟の紗香ちゃん、結婚するの?」

「え? 聴こえてた?」

「そりゃ、あれだけ声がデカけりゃ……」

「あら、やだぁ」

 冗談なのか、本気なのか。

 しらばっくれたような緩い返事をする母親に、英祐の力が一気に抜ける。

「紗香ちゃん、まだ二十歳くらいじゃなかった?」

「そうなの! 短大卒業して、彼氏さんと結婚するんですって!」

「ふーん」

 最近こそ会ってはいないが、英祐は記憶に眠る紗香の姿を掘り起こした。

 おかっぱ頭の。

 目がパッチリとした。

 ピンクのムームーを着た--野生児。

 あぁ、あの子は確か……。

「沖永良部に住んでたよね?」

「あら、よく覚えてるわね」

「なんだか……うん。沖永良部は、色々衝撃だったし」

 一度だけ、英祐は従兄弟の住む沖永良部に行ったことがある。

 沖永良部は、西郷隆盛が島津久光公の怒りにふれ、薩摩藩の重罪人として流刑された場所だ。

 一年六ヵ月あまりを沖永良部で過ごした西郷は、過酷な牢生活の中で「敬天愛人」の思想を悟ったと言われている。

 海も驚くほど青く澄み渡り、こんな綺麗な場所が流刑地だなんて、信じられないなぁ、と思っていた矢先。

 当時、小学生の英祐は生まれて初めて、臨死体験に匹敵する程の危機に陥る。

 夏休みの宿題である昆虫採集をしようと、英祐は従兄弟の裏庭にある薮の中を歩いていた。南の島の変わった昆虫を採って、友達に自慢したかった、という下心ももちろんある。

 藪をかき分け、奥へと進んだその時。

 木々の向こう側に、一匹の蛇がトグロを巻いてこちらをギロリと睨んでいた。

 目の前の蛇は既に臨戦体制。鎌首をもたげて、今にも英祐に飛び掛からんと滑る体を揺らしている。

 結構な大きさの蛇。英祐は咄嗟に最強の毒蛇・ハブだと直感した。ジリジリと間合いを詰めてくる蛇に、英祐は声も出せぬまま後退りする。湿り気のある地面に足をとられ、つい尻餅をついてしまった。

(や、やられる!)

 飛びかかってくる蛇を想像し、固く目を閉じた次の瞬間。バシッと、鈍い音が響いた。

 恐る恐る目を開けると、ピンクのムームーを着たおかっぱ頭の女の子・紗香が、木の枝で蛇の頭をガッツリ押さえつけているではないか。

「大丈夫ー?」

「え……あ……」

 沖永良部の女の子は、蛇を怖がらないのか!? 

 蛇にも紗香にも、驚いて腰を抜かした英祐は、単語すらまともに喋れないまま首を縦に振った。

「ハブじゃないよー」

「え?」

 紗香の発した言葉に、心底英祐はホッとする。安心したのも束の間、紗香は押さえつけた蛇の首をガシッと掴んでもち上げた。

「アカマタだよー」

「アカマタ?」

「うん。毒ないから、大丈夫」

「!?」

 この時、英祐は既にパニックに陥っていた。

 自分より小さな女の子が、大蛇を素手で掴んでいる事のインパクト。腰に余計、力が入らなくなった。

「大丈夫、大人しいよー」

「!?!?」

「触るー?」

「!! くぁwせdrftgyふじこーッ!!」

 口を大きく開けた大蛇を、紗香はにこにこ笑いながら、英祐の目の前に持ってくる。

 英祐は、これ以上ないと思うほど叫んだ。

 大蛇から逃れられたはずなのに、紗香によって再び恐怖の渦中に投げ出されたのだ。

 厭な記憶まで引っ張り出された英祐は、塩むすびをモソモソと口の中で噛み砕く。

「あ! お父さんには、まだ秘密にしておいてね」

 母親は何かを思い出して、困った顔をしながら言った。

「なんで?」

「ん……ちょっと、厭な目に合ってるからねー」

「厭な目?」

「〝そらきゅー〟よ」

「〝そらきゅー〟?」

 今まで生きてきた中で、未だ出会ったことのない言葉。英祐は目を丸くした。

「英祐もお酒が飲める年齢だし、教えとかなきゃねぇ」

 母親は食器棚から、底が尖った独楽こまのような形状の小さな食器を取り出した。手のひらサイズで、なんだかかわいい外見をしている。

「これが〝そらきゅー〟」

 母親から手渡された不思議な猪口をまじまじと見つめた英祐は、その違和感にすぐさま気づいた。

「穴が、空いてる?」

「そう。その穴を指で塞いで飲むの」

「え? なんで? 何のために?」

「入った焼酎を飲み干さないといけない仕組みよ。お湯割りの焼酎は熱いでしょ? 早く飲まなきゃ、塞いだ指が熱くなるし。ギブアップしようにも、底が尖ってるから置けないし」

 英祐の顔から、サッと血の気が引く。

「『そらっ』とお猪口を渡されたら、『きゅーっ』と飲み干さなきゃいけないの。めちゃくちゃ攻めてるお猪口でしょ?」

「それ、無限ループじゃ?」

「そうなのよ。だから、お父さん。自分の結婚式で潰れちゃってねー。そらきゅーと鹿児島は、二度と見たくも行きたくもないって」

 英祐は、ふと疑問が湧いた。

「それ、紗香ちゃんの結婚式と、何か関係あるわけ?」

「紗香ちゃんのお父さん、永康えいこうおじさんはね。そらきゅーが好きなのよ」

「……」

 だから、父親には黙っておけなのか。

 古書を読んで、少しは薩摩のなんたるかがわかったつもりでいたが。

 まだまだ薩摩の秘密は奥深い。

 沖永良部で出会った大蛇も、野生児も。

 目の前にある攻めのお猪口も。抱いた狂気的な奥深さが、余計に英祐の探究心を刺激した。

 英祐の胸にある小さな興味という名の一波は、いつの間にか大波を伴って巨大な渦となった。それは勢いを増していき、また、英祐の手に古書をとらせるのだった。

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