1-1 有馬手記(1)
「へぇ、
幾分、空気の抜けたような。母親の発した声を背に受け、英祐は苦笑いをした。
就職試験を終え、吉報となったその報告を兼ねて。
佐伯英祐は久しぶりに実家へと帰ってきていた。
一通り仏壇にも挨拶をした後、英祐はため息をついて縁側に座る。
縁側から沓脱石にはみ出した英祐の足に、するすると近寄ってくるのは。視力も落ち足腰もだいぶ弱くなった、佐伯家の番犬のトシだ。
「トシ」
毛並みの艶も眼光の輝きも大分落ちた小さな柴犬は、英祐の声にクルッと巻いた尻尾を振って反応した。
かつては佐伯家の治安を維持し、さらには英祐をはじめとする三人の子どもたちの躾まで一手に引き受けていた番犬・トシ。今やすっかり丸くなった性格と体型に、英祐は幼き日の記憶を呼び起こして苦笑した。
「まぁね。トシの方が、警察官っぽいかも。あ、トシは警察犬かな?」
「何、馬鹿なこと言ってんの」
背は高いものの、線が細く頼りなげな英祐の背中を母は豪快に叩く。
〝
強靭な力と派手な音が、英祐の背中からじんわりと全身に伝わる。
英祐は、従兄弟との喧嘩に負けて泣きまくる自分に喝を入れる母方の祖父を思い出していた。
この迫力極まりない力加減は、否応なく。父から娘へ引き継がれている。確実に。
「お爺ちゃんも、
「え? なんで?」
「あら、やだ。知らなかった?」
「知らなかった、って。何を?」
いつもそうだ。母親の言葉には、いつも何かが欠けている。それは、妹も弟も満場一致の見解だ。母親の言わんとしている意図が不明のまま、英祐は床の間に飾らせている、祖父の写真に視線を投げた。
「うちの家系から警察官を、って。いっつも言ってたじゃない」
「そうだっけ?」
「佐伯の方じゃないわよ? 有馬の方だからね?」
「分かってるよ、それくらいは」
有馬は母の旧姓である。
就職を期に、鹿児島から上京した〝自称・ハイカラ娘〟は、東京のハイソな男性を捕まえ、花の東京生活を手に入れて、ン十年。
東京ナイズされてはいるものの、その中身は鹿児島気質の色濃い〝
豪快、天然、質実剛健。
ン十年経ち、外見は変わっても母親の中身は変えようがないんだ、と。英祐は祖父の写真を見ながら苦笑いした。
本人は〝精一杯笑っている〟らしい、口を真一文字に結んだ表情。
剣道の道着のような格好に、心許ない棒っきれを握り立つ祖父。昭和に生きていたはずのその姿は、まるで黎明の世を駆け抜ける薩摩志士のようだ。
「いやいや……時代が違うし」
んなわけないだろ、俺。と、英祐は無理矢理首を横に振った。
「そうそう! お母さんから、荷物が来たんだった」
独言る英祐を無視して、母親は部屋の隅に置かれた段ボールを引き寄せる。
「何? おばあちゃんから?」
「うん。老人ホームに入るからって。蔵の中をだいぶ断捨離したんだって」
「へぇ」
「なんでも、和ちゃんの奥さんがね、これを機に〝蔵カフェ〟をしたいらしくってさ。でもこれを機にって、寂しいこと言うわよねぇ」
母親の言わんとする気持ちが、十分に分かる。新しい時代になるにつれ、また一つ。祖父との思い出が物理的になくなり、心理的に輪郭を失い薄くなる。
英祐はトシを撫でながら、ぼんやりと段ボールを見つめた。
小学生まで、夏休みにはよく鹿児島に行っていた。
〝和ちゃん〟こと三つ年上の従兄弟の和也と、よく
懐かしいなぁ、蔵にまた行ってみたいなぁ。
感傷に浸る英祐の横で、母親は淡々と段ボールの中身を見定めている。
「また随分と古いのを……。黎明館(※ 民族資料館)にでも寄贈したらよかったのに」
段ボールの中に層となって積み重なる古書や着物に、母親は眉間に深い皺を入れて呟いた。お宝か何か、そんなのを段ボールの中身に期待する方がおかしい。英祐は苦笑いしながら言った。
「歴史的価値はなかったんじゃないの?」
「でもねぇ」
「
母親は不満そうな顔をした。
「こっちの着物だって、
ガラクタを押し付けられたような。
母親は、今にも作業を投げ出さんばかりに「やだわぁ」とため息を含み呟いた。そんな母親を尻目に、英祐は段ボール箱へと手を伸ばした。
「有馬手記?」
褐変した和紙を荒い紐で結んだだけの冊子が、英祐の目に止まる。崩さずに一語一語きっちりと筆を走らせた表題にゾクッとして、英祐は思わず息を呑んだ。
〝生魂、ってこのことかもしれない。そう本能的に感じた。
「あぁ、多分ご先祖様のヤツかもね」
「ご先祖様?」
「
「え? マジで?」
「
「そこそこって……」
自分のご先祖様をそこそこと言い切れる母親に、苦笑いしながらも。英祐は『有馬手記』と書かれた古びた冊子を手にした。そして、慎重に表紙を捲る。
『貴公ノ聲ハ琵琶ノ音ノ如シ。一瞬タリトモ飽キル事無ク。一瞬タリトモ聴キ逃ス事無ク』
相当な緊張感を持って書いたに違いない。真っ直ぐに乱れぬ文字の羅列が、記した有馬晋祐の覚悟と意気込みをも英祐に伝える。冊子を握る手がビリビリと痺れ、文字に囚われた視覚が力を帯びた。
「お母さん」
「何?」
「これ、ちょっと借りてていい?」
「どうぞ、ご自由に」
日が西に傾き、西日が縁側に柔らかな光を落とし込む。
かつての番犬は大人しく、沓脱石の上に体を丸めて目を閉じた。その様子を横目で確認した英祐は、縁側に胡座をかいてそっと冊子を捲り始めた。
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