3-3 後悔(2)
正之進の目の前で、赤い飛沫が上がった。
同時に両手を広げ立ちはだかっていた新太郎の体が、ふわりと浮き上がる。
夢の中にでもいるのではないか、と錯覚するほど。
ゆっくりとした速度で、新太郎が木々が鬱蒼と茂る山の中へと吸い込まれていく。
「新太郎殿ッ!!」
正之進は、咄嗟に手を伸ばした。
(もう少しで、新太郎の袴に手が届く!)
瞬間、体を捻り精一杯腕を伸ばす正之進の腹部に、鈍い痛みが走る。
「ゔぁっ!?」
新太郎を薙ぎ払った竹槍が唸りを上げて、その側面を正之進の横っ腹に食い込ませた。
苦悶の表情を浮かべる正之進を
不意をつかれた正之進は倒れそうになる己の体を立て直し、必死に足に力を入れた。地面に足の裏がめり込むほど強く踏ん張り、咄嗟に腹に食い込む竹槍を掴む。
「……
これほど、怒りを抱えたことがあったであろうか?
これほど、理不尽を恨んだことがあったであろうか?
自分の庇う新太郎すら守れなかった後悔が、正之進の胸中をじわじわと支配する。
「
「
丹田に力を入れ叫んだ正之進は、全身全霊の力で掴んだ竹槍を振り回した。体躯の良い西千石の志士の足が地面を泳ぐ。
「離せッ! 離さんか!」
「うぉぉッ!」
西千石の志士の雑多な声など、正之進の耳に全く届かなかった。正之進は蓄えた力を躊躇することなく放つ。そして、掴んだ竹槍を一気に振り切った。
「うわぁぁぁ!」
黒い塊と竹槍が、道を外れて深い山の中へと消えていく。残ったのは、山林に響きこだまする西千石の志士が発した悲鳴のみ。
正之進は、その軌道を途中まで目で追っていたが、すぐさま踵を返して走り出した。
足元が見えぬほど草木が生い茂る木々の間を駆け抜ける。足を取られそうになる急勾配も気にする様子もなく、道なき道を走った。
「新太郎殿……! どうか、どうか無事で……!」
何故、新太郎が前に行くのを止めなかったのか?
何故、その一歩が踏み出せなかったのか?
正之進は、激しく後悔した。
たった一つ。己の誤った行動が、大事な人の笑顔を存在を消してしまう。とても耐えきれぬ重圧が、正之進の胸を締め付けた。
もし、このまま新太郎と言葉を交わすことがなかったら。
正之進は下唇をグッと噛み締める。
(正之進……殿)
刹那、山林に消えた新太郎の声が、正之進の耳にこだまする。
幻聴か? いや!
聴こえない聲が、形無き姿が。
得体の知れない大きな力が、正之進の体を突き動かす。噛み締めた下唇により力を込め、正之進は、見えないの新太郎の姿を追って道なき道を駆け抜けた。
「……ッ……うぅ……」
湿り気を含んだ地面がジワリと、新太郎の体を地中に引き摺り込む。
焼けるように熱く痛い左腕に、新太郎は右手を添えた。
体を起こそうにも、全身が殴られたような鈍い痛みを訴える。寝返りを打つことすらままならなかった。
息を吸うことも困難なほど、痛みが体内の深部までを蝕む。息の吸い込みが、異様にぎこちなく拡張と収縮をするのが分かった。
僅かに開いた視界からは、深い緑色をした樹々が新太郎に覆い被さらんばかりに迫っている。交互に体を蝕む激痛と鈍痛、そして息苦しさが、意識さえも失うことを許さなかった。
(正之進殿は、大丈夫だろうか……?)
痛みではっきりしない意識下。
「
(無事でいてくれ……! 頼む!)
「正……之進……殿」
「新太郎殿ッ!!」
今までびくともしなかった満身創痍の新太郎の体が、力強く引き上げられる。
まるで自分が幼子になってしまったのではと思ってしまうほど、優しく大きな安心感に抱きしめられた。
瞬間、新太郎を縛っていた痛みも、何もかもがフッと体から抜けていく。定まらない視線が急に回復し、新太郎の目の前に今にも泣き出さんばかりの顔をした正之進の顔が現れた。
新太郎は感覚の僅かに残る右手を伸ばし、その顔に触れる。自然と顔が綻ぶのが、新太郎自身も分かった。
「正之……怪我は……ない、か?」
「新太郎殿! そげんこたよかで!
「よかっ……よかった」
「ッ!」
正之進は新太郎を抱えたまま、自らの袖に歯を立てると、縫い目を一気に引き裂く。
新太郎が一つ瞬きをしている間に、正之進は器用に新太郎の左腕と胴体を強く固定した。正之進は、そのまま新太郎を抱き上げる。そして、泣き出しそうな顔に無理やり笑顔を貼り付けて新太郎を見下ろした。
「
「正……之」
「すぐ、
そう言うや否や。正之進は急勾配を物ともせず走り出す。
両腕が塞がったままでは体の均衡がとれず、何度も転びそうになるも。正之進は、新太郎から決して手を離すことなく、草木を飛び越え駆け抜けた。
「痛かったどなぁ……。すいもはん……新太郎殿、すいもはん」
見上げると、正之進の頬を滑る涙と苦しげな声が、新太郎の視覚と聴力を奪う。
(あぁ……俺は)
(俺は、二度と。正之進殿に、こんな顔をさせてはいけない。俺が正之進殿の負い目になっては、決してならない。ならば……俺は)
新太郎は固定され動かない左腕に手を添え、何度も何度も頭の中で繰り返した。
この傷は、なかったのだ。
この傷など、負ってはいないのだ。
忘れろ! 忘れてしまえ!!
それが正之進にできる、唯一のことなのだ、と。
「そいは、
赤、青、黄、そして黒。
彩鮮やかなのぼり旗が、風を受けて無数に音を鳴らす。
その音に混ざる怒号に、正之進はハッとした。
気がつけば妙円寺に辿り着き、沢山の藩士に囲まれている。上がる息を無理やり飲み込み、正之進は叫んだ。
「け……怪我人でごわすッ! 早よ、医者様に見せっくいやったもんせッ!」
境内中に響く正之進の声に、その場にいた藩士が一斉に動いた。正之進の腕から、新太郎の体が離れていく。強張った腕が痺れを感じた瞬間、正之進は心底安堵した。
(あぁ……これで、新太郎殿も安心じゃ)
五臓六腑に溜まった不安が、ついた深いため息と共に体外に排出される。
全身の力が抜けたその時、正之進は両腕を捻り上げられた。抵抗もできぬまま背中を蹴られ、地面に体が強く接地する。
「
「ッ!!」
歪な形の木刀が正之進の体に食い込み、顔を無理やり上へと押し上げた。藩士はミシミシと木刀を握りしめて、正之進に詰め寄る。
「あん怪我は、ひっ転んでできたもんじゃなか! 何事があったか、正直に言わんやッ!」
「……」
正之進は、咄嗟に首を振った。噛み締めた下唇からじんわりと血の味が滲むほど、口をギュッと
正之進の語る〝真実〟が--。
それを、一体誰が信じてくれるものだろうか?
西千石の志士が、やったのだと。新太郎は自分を庇って負傷してしまったのだと。
真実を知り、語ることができるのは、与力(※ 下級藩士)の子である正之進のみ。西千石の郷中が否を唱えれば、正之進の主張などあっさりと覆ること必須。真実すら捻じ曲げられてしまう可能性も、否定できない。正之進は、真実を押し込むように、唇を噛み締める力を一層強くした。
「早よ言わんかッ!
「……」
「言わんなら言うまでんこっちゃ! そん腕を切り落とすっど!」
正之進は、短く息を吸った。
(そいで終いになったれば……
息を長く吐き、腹に力を入れた正之進は目をグッと瞑る。覚悟を決めたかのように、ピクリとも動かない正之進の頭上二寸先。
そこには、水を滴らせたようにスラリと輝きを放つ刀が、西日を受け、より強く光を乱反射していた。
「
その時、一瞬で場を鎮まらせれるほどの声が響く。正之進は驚いて、固く閉じた目を開けた。
「大久保殿……!?」
真剣を構えていた藩士が、名前を呟きゴクリと喉を鳴らした。西日を背に受け、顔ははっきりとは認識できなかったが。
凛と響く声に細身の長身。加えて大久保という姓。与力の子息である正之進でさえその人物を
大久保利通である。
正之進より四つほど年上にも拘らず、既に才覚を認められ、頭角を現していた。大久保が一歩、また一歩と近づくと、正之進を拘束していたいくつもの手が離れていく。正之進は支えを失って、思わず地面に手をついた。
「こん
「な……そげなこっ」
「よかどが。
「……」
「よかどが、な?」
「お……大久保殿がそげん言うなら。当方も、異論は無か」
深く影を落とす西日の隙間から、僅かに見える大久保の表情。
その眼光は矢のように鋭く、強く。
正之進も思わず生唾を飲み込んだ。刀を携えた藩士が声を震えわせ、動揺するのも理解できる。
「あいがとさげもす(※ ありがとうございます)」
大久保の言葉に、藩士は日の光を纏い煌めく刀を納め、土埃を上げながら正之進の視界から遠ざかる。
極度の緊張から解放された瞬間、正之進の体内から熱い溶岩のようなものが込み上げてきた。あまりの苦しさに、体の均衡を失う。地面に倒伏する寸前の正之進を、大久保が腕を伸ばして受け止めた。
「大丈夫か!?」
「うっ……」
込み上げた正之進の体内に宿る熱が血となり、咳と共に吐き出される。土の上に落ちる血の塊に、大久保は息が止まるほど驚いた。つい先刻まで、血を吐くほどの
違和感を覚えた大久保は正之進の襟を掴み、勢いよく着物を剥がす。露わになった、上半身に大久保は堪らず息を止めた。
「おい! こいはどげんしたとか!!」
狼狽するほど。正之進の腹部に、打撲痕のような酷い大きな痣が浮かび上がっていたのだ。黒い痣は見るからに、骨が損傷していると推測される。体内で出血している痕跡をありありと見せつけられ、大久保は無意識に顔を歪めた。そして、正之進の体にそっと手を添える。
(この
大久保が遠くで見ていた時より、体は随分と華奢に感じた。正之進自身、衰弱しきったその華奢な体すら支えることもままならぬ。大久保は正之進を抱き上げた。
「
遠くなる意識と浅い呼吸を懸命に振り絞る正之進は、大久保の着物を掴んで懇願した。
「大丈夫っじゃが。安心せんか」
微かに耳をくすぐる大久保の言葉に、正之進は大いに安堵した。
(新太郎殿は、大丈夫っじゃ……よかった、よかった)
瞬間、正之進の手から力が抜けた。顔の強張りが解けて柔らかな表情を浮かべた正之進は、落ちるように意識を手放したのだ。
後日、新太郎も正之進も、暫くの療養を経て、以前の生活を送る。
この妙円寺詣りの一件は、まことしやかに造志館で囁かれることにはなるが、それ以上事が大きくなることはなかった。
重傷を負った新太郎が、一連の記憶を無くしていたせいか。
或いは上級藩士である西千石の力が、裏で働いたからなのか。
はたまた、正之進がガンとして口を割らなかったからなのか。
当事者同士すら、顔を合わせても真相を語らぬまま。砂地を洗う風のように、時が全てを消して忘れ去っていった。
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