8-3 生魂(2)
「利良殿ッ! 水をひと口でも……!」
晋祐が水を満たした
「……いかん、ど! こけ、来たら……いかん」
一瞬一瞬が、非常に長く感じる。
心配を通り越し悲痛をも含む晋祐の声に、利良は荒い息を殺して拒絶する。そして、歯を食いしばって顔を背けた。
私学校の端にある小屋の中、晋祐と利良は、身に降りかかった現状を打ち破ることもできずにいた。
西郷隆盛が設立した私学校。それは旧鹿児島城(鶴丸城)の
鹿児島に帰郷した大勢の士族たちも仕事がなく。徴兵令や廃刀令などによって特権も奪われ。新政府への不満を胸中に燻らせる士族が集まる私学校。
その片隅にある小屋の中に、川路利良の姿はあった。
両手を拘束され上半身を露わにした利良は、まるで罪人のように半宙吊りにされている。
拘束している縄を解こうともせず、ぐったりと
利良の拘束を解こうと、晋祐は何度も荒縄に手をかけた。
しかしその度に「触っくいやんな! 晋祐殿に、密偵の嫌疑がかかっしもっ!
どうすることもできない。
苦しむ親友を前に、助けることもできない。
己の無力さを、改めて思い知らされる。
晋祐は堪らず目を背けた。
(どうして……! どうして、こんなことに!!)
それは本当に突然の出来事だった。
ほんの数時間前に、がらりと変わってしまった日常。何もできず、ただ見ているだけしかしなかった自分と。同郷の利良をこんな事を目に合わす私学生に無性に腹が立った。後悔と遺憾に苛まられ、晋祐は爪の跡が掌に残るほど、強く拳を握りしめたのだ。
「
昨夜、かなり焼酎を煽ったにも拘らず。久しぶりの帰郷で上機嫌の利良は、
「……利良殿は、元気だな」
「ん? こいが普通じゃいもす」
「あれだけ飲んでおいて?」
「晋祐殿と飲む、久ん方(※ 久しぶり)の
「……頭は、痛くないか?」
「いいや」
「……そうか」
「
「……」
久しぶりの帰郷を満喫する利良が、
「こっちには、あとどれくらいいるんだ?」
「あぁ、大久保様が明日到着する予定じゃっでなぁ。あと三日は鹿児島にいれもんそ」
「そうか。なら、まだ時間は沢山あるな!」
「え?」
「明日は重富(現・鹿児島県姶良市)まで行ってみようか」
「
「大きな
「若布な!?」
「洗ってお湯に潜らせれて、酢醤油で食べたら止まらないぞ」
「
「そのかわり、日が昇る前に出発しなければならないからなぁ」
「早起っは、任せっくいやんせ!
他愛の無い会話をしながら。ゆっくりと朝餉を平らげた二人は、キヨが
海水温と接する空気の温度差により、錦江湾一面に霧が立ち込める。目の前に聳える桜島の山頂は薄らと冠雪していた。桜島を正面に、尽きぬ話に花を咲かせながら歩く二人の息は、白く軽やかに浮かびあがる。
晋祐の屋敷がある新屋敷から上町の方へ向かって、晋祐と利良がのんびりと歩いていたその時。少し先から大勢の怒号がし、人だかりができているのが見えた。二人は顔を見合わせると、歩みを早めて人だかりに割って入る。
「
「何も……! 何もしぃちょらん!!」
「義を言な(※ 御託を並べるな)! 貴様が政府の密偵っちゅうこっは! 分かっちょっが!!」
「
「聞いた
「違ッ!! そいは誤解じゃいもんそ!! 俺が話っば聞いてくいやんせ!!」
「黙らんか!! 政府の
「……ッ!」
「
優に六十人はいるであろう、人だかりの中。何人もの私学校生に、一人の男が腕を捻りあげられていた。男は殺気立った大勢の学生を前に、必死に弁明をしている。
「中原……!」
利良は、思わず声を上げた。
拘束された男こそ、共に帰郷した密偵の訓練を受けた邏卒・中原尚雄だったのだ。
利良の全身から、一気に血の気が引いた。
「利良殿!? 大丈夫か!?」
「まさか……
利良の記憶が、鮮明にあの晩の出来事を甦らせる。
帰郷する前、大久保と話をしたあの時の。胸中に沸いた一瞬の違和感が、胸の中で暴れ出した。
拘束された中原と、記憶に刻まれた鋭い大久保の眼差しが、頭の中を圧迫し始める。外気ではなく、内側からこめかみが冷えるような感覚。
「利良殿ッ!?」
晋祐の声を背中で聞いた利良は、一歩前へ踏み出した。そして、咄嗟に中原と私学校生の間に体を滑り込ませる。
「中原は、
「あぁん!? お
真っ赤な顔をして利良の胸倉を掴む私学校生に、利良は一歩もひかず私学校生を鋭く見下ろした。
「川路、川路利良じゃ」
「か……川路!?」
私学校生は、酷く狼狽し、掴んだ胸倉から手を離すと、一、二歩後退する。利良は、更に一歩前へ進むと力のこもった声で大きく叫んだ。
「大警視・川路利良がこけおっど。尋問すっなら中原と川路、どっちが有益か
「何んちな……!」
「そいとも、私学校生はそげん事が分からん凡才しかおらんとか?」
「……ッ!!」
「利良殿……ッ!!」
利良は
--一触即発!!
堪らず晋祐が、利良の名前を叫んだ途端。人だかりが一斉に動き出した。
動揺し足が止まってしまった晋祐の方に、拘束されていた中原の体が、物のように飛んでくる。思わず晋祐は、中原の体を受け止めた。
「川路利良を私学校に、連れっじけっ!!」
怒気を含んだ怒鳴り声に、晋祐の四肢が一気に冷たくなる。
(一体何が……何が、どうなってるのだ!?)
中原を抱える晋祐の目の前を。人だかりが束になり鶴丸城のある城山の方へと動き出した、騒然とする人と人の隙間から、何人もの私学生に押さえつけられた利良。その姿が、無理矢理に引き摺られていくのが見えた。
「利良ッ!! 利良殿ーッ!!」
晋祐の声に反応した利良と、ほんの一瞬、目があった。
〝来たらいかんど!
微かに利良の声が聞こえ、晋祐はその言葉に足が凍りついたように、瞬く間に動かなくなってしまった。
あっという間に、人の塊が小さくなっていく。背の高い利良が、人の隙間から見え隠れした。そして、その姿は。晋祐からあっという間に遠ざかっていった。
「……大久保様に、報告をば!」
拘束を解かれた中原は、港の方へと転がるように走り出す。晋祐はその場に一人、置き去りにされてしまった。
突然の出来事に、身も心もついていかない。心臓が煩いくらい鼓動しているにも拘らず、全身が冷たく震え、落ち着きを失っている。
力の入らない四肢がまるで自分のものではないかのように。晋祐はよろよろと一歩踏み出すと、小さくなった利良の姿を追いかけ始めたのだ。
「南洲翁の暗殺を指示したたぁ、
狭い小屋にこだまする怒号。睨み見下ろす眼光に、利良は荒くなる呼吸を押し殺し睨み返した。
「
「まだ言うか!!」
「同郷なら分かっどが……!
「義を
「互いの良い道を……話し合い、模索する……。そいば求めんこて!」
「ッ!!」
瞬間、空気が唸り震えた。利良が歯を食いしばると同時に、鞭が傷だらけの背中に振り下ろされる。
バシン、バシン、と。
皮膚や肉が弾ける音が、耳に小屋にこだまする。
「ん”っ……!! うっ……」
その度に遠のく意識と叫びそうになる声を、利良は必死に抑え込んだ。
小屋の隙間から差し込む光が、次第に暖色を帯び始め小屋の影を濃くしていく。
どれくらい経過したのか、
正確な時間は分からないが。半宙吊りにされ鞭打たれる利良の気力や体力の全ては、限界に達していた。
(ここで、折れてはいかん……! 薩摩ん
何度詰問されても。何度鞭打たれても。
利良は、同じ答えを繰り返す。利良の口を割ろうとする私学校生等も、あまりの進歩のなさに疲れの表情が現れ始めた。
「おい! 今日はもう止めにせんか。村田隊長がお呼びじゃっど」
その時、小屋の向こう側から辿々しい郷言葉が響いた。
混濁する意識下において、その言葉を甚だ疑問に思いながらも。利良の周りから離れていく足音に、少し安堵し気が抜ける。
瞬間、ガクッと膝が崩れ、体が地面に昏倒しそうになった。しかし、縛り吊るされた利良の両腕がそれを邪魔する。縛られた手首に全体重が集中した。負荷のかかった手首は、相当な痛みを走らせたが、体の感覚が既に麻痺しており。利良自身、痛みはさほど感じない。利良はゆっくりと意識を手放そうとした。
「利良殿! 今、縄を解くからな!」
その時、よく知った声が利良の耳に突き刺さる。靄のかかる意識が、一気に表へ引き戻された。
(あぁ……!
ゆっくりと目を開け、利良は狭い視界を凝らして晋祐の姿を見つけた。
よもすれば心が折れそうな、きつい責めを受けていた利良にとって。危険を顧みず、慣れない郷言葉まで利良を連れ出そうとする晋祐の行動に、利良は深く心を揺さぶられる。
しかしそれに頼っては--己を許してはいけない!!
利良は晋祐から離れるように、身を捩らせて叫んだ。
「触っ……くいやんな!」
「利良殿!? 何を!?」
荒縄に手をかけようとした晋祐が、思わず目を見開いて利良の顔を覗き込む。拘束を解こうとする自分の行為を、何故拒むのか? 焦り戸惑いの色を含んだ晋祐の目が
(晋祐殿の、その手を……。差し伸べられた手を、容易に握り返してはいかん!!)
利良は唇を噛み締め、晋祐から目を逸らし叫んだ。
「触っくいやんな! 晋祐殿に、密偵の嫌疑がかかっしもっ!
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