8-4 生魂(3)
深い闇が、白み出す空に溶けていく。
丸い月と、太陽が入れ替わる空の下で。晋祐は、小屋の裏で一人立ち尽くしていた。
体から上がる蒸気が一瞬で真っ白になり、地面を覆う霜同様、晋祐の頭や着物までも白くする。
一晩中、走り回った。
私学校の中心人物である
一度家に走り、その勢いを殺さずに床の間へと向かう。長いこと腰に携えていない脇差しを手にした。
冷たい殺気が、脇差しから伝わる。晋祐の後ろでキヨが何やら叫んでいたが、気を張った晋祐の耳には、全く届かなかった。キヨの声を振り切るように、また勢いよく走り出す。
私学校についた晋祐の上がる息に、汗が吹き出す身体は極限まで冷え切っている。ガタガタと震える音を刻む全身を纏う冷たさは、東の空の陽光でさえ払拭することはできなかった。
冷え込む朝。
切り込む
あとは、時を待つのみ。
晋祐は腰に重心を落とし、
--バシン、バシン!
「っ……う! ぐっ……!」
小屋の中からは未だ、鞭の
その度に、実際にはあるはずのない痛さが晋祐の体を貫く。晋祐はギュッと力をいれ、体を小さく震わせていた。
「いい加減、吐かんか!!」
「吐くも……何も! 大それた……事は、せん!」
私学校生の執拗な責め。それでも、利良は同じ言葉を繰り返す。
「まだ義を言うか!!」
私学校生の全力が鞭に伝わり、利良の背中に振りおろされる。ズシンと重たい鞭が、利良の皮膚を裂き深い衝撃を与えた。
「ゔぁ……!」
瞬間、ガクンと利良の体から力が抜ける。握りしめていた真っ赤な拳が、血の気を失いゆっくりと解けていく。
「おい、
責めを止めない私学校生が持つ鞭を、別の私学校生の手が押さえた。
「気をやったか……おい、何回目じゃ?」
「知らんが。三、四回目じゃなかどかい」
「そろそろ、止めんと……
「気にすっこっじゃなかどが!」
「政府の大警視じゃっど!? こげん所でけ
「関係なか! 南洲翁の暗殺ば企だてた
「……しかっ(※ しかし)」
「水を持て!」
「……」
どんなに鞭打ち、気を失っても。私学校生の責めとは裏腹に、利良はがんとして口を割らない。
『西郷、暗殺』の大義名分があれば、西郷隆盛を説得し政府に反旗を翻すことができる。
その確証をどうしても手に入れたいのだが、利良のせいで思い通りにならない。
私学校生等に焦りの色が見え始めた。
その焦りを払拭するかの如く、小屋の中から水飛沫の上がる音と、くぐもった呻き声が漏れる。
私学校生等の焦りは、外にいる晋祐にも伝播していた。
(今……今なら! 利良殿を助けれらる……!)
息を止め、脇差しを握る手に力を込める。ジリジリと小屋の入口へと近づいた、その時。
強張る晋祐の肩にのしかかるように、大きな手が置かれた。
「有馬殿、狭か
「村田殿……!?」
振り返った目と鼻の先には、私学校砲隊監督の村田新八が背中から湯気をあげて、晋祐を見下ろしていた。容易に走って来たと想像できる。しかし、村田の息は一つも乱れず。村田は晋祐を一暼(いちべつ)すると、淡い灯りの漏れる小屋へ視線を移した。
「最近な、
村田は一言呟き、晋祐の肩に置かれた手はするりと晋祐の脇差しを押さえつける。
瞬間、晋祐の脇差しは晋祐と村田の半目する力で、ガタガタと音を立てた。
「ここは、
「……今さら?」
晋祐は言葉に怒りをのせて、村田を睨みつける。
「俺があれだけ頭を下げて頼み申した時は、けんもほろろに断ったではないか!」
「……」
「村田殿! 手を離せ!」
「騒ぎを
「ッ……!」
「有馬殿、引かんや」
体躯の良い村田に体をグッと押され、晋祐の冷たい体は後ろによろめいた。
晋祐を強引に退かして、村田は鋭く睨む。そして間髪入れずに大股で小屋の入口に立つと、開口一番に叫んだ。
「それまでじゃ! お
「
私学校生は村田の言葉に驚きの声をあげた。西郷と共に下野した村田の言葉。驚いたのは、拘束された利良も同じだった。政府側につく同郷士族など恨みの対象にほかならないはずだ。
言葉を失い村田から視線を外さない利良に、村田がゆっくりと近づく。この上なく鋭い眼光で利良を見下ろすと、抜き身の懐刀を利良の頭上に掲げた--。
「利良殿!!」
小屋の入口で成り行きを見守っていた晋祐は、堪らず掠れた声で叫ぶ。咄嗟に踏み出した己の体が。伸ばした手が。まるで夢の中にいるように、遅々として進まない。晋祐は、思わず目を瞑った。
--ドサッ!!
地面に大きな塊が、落ちる音が響く。
(利良殿ッ!!)
厭な想像しか頭を巡らない。晋祐は、ゆっくりと目を開けた。
「……っつ」
呻き声を上げ地面に倒伏する利良の痛々しい姿が、晋祐の視界に飛び込んできた。
時間が、異様にゆっくりと流れている感覚が晋祐に纏わりつく。
ゴクリと息を呑む晋祐の目の前で、両腕を拘束していた荒縄がポトリと利良の横に落ちた。
倒伏した利良が、ゆっくりと体を起こす。そして眩しそうに目を細めて、村田を見上げた。互いの視線が凍りつくほどに。外気より冷たい空気が小屋の中に放たれる。
懐刀を鞘に収めた村田は、利良を睨み喉の奥から声を絞り出した。
「早よ、行かんか」
「しかし!! こん
村田の言葉に真っ先に動揺したのは、私学校生だった。利良を真っ直ぐに睨む村田に、鞭を手にした私学校生がくってかかる。
「南洲翁が
「えっ!?」
「お
「な、ならば! こん奴を御楼門前にうっせてん(※ 打ち捨てて)良かどが!」
不完全燃焼な私学校生は、
「……離さ、んか」
掴まれた腕を振り払い、利良は私学校生に目もくれずに村田を見上げたまま立ち上がった。
崩れてしまいそうになる体を必死に踏ん張り、利良ははだけさせらた着物に袖を通す。皮膚が破けた痛々しい背中を覆い隠した。
それでも私学校生等は、利良の腕を掴もうとする。
利良は、そんな私学校生等と視線すら交わさず、強く言い放った。
「うっせてんみろ……! どこで、誰が見ちょっか知れん。政府ん
「義を……義を言うな!!」
「争いを避く……。西郷様の胸中を察っしらんか!!」
「……ッ!」
炎のように噴出する気迫と共に、響く利良の一喝。その場にいた全員が、言葉を失うほど狼狽した。
その声が
「……利良……殿」
晋祐は咄嗟に手を差し伸べた。
「晋祐殿……! 触れっ……くいやん、な」
今にも倒伏してしまうのではないかと思うほど、満身創痍で歩いているにも拘らず。凄まじい気迫を放つ利良に、晋祐は思わず伸ばした手を、引っ込めてしまった。
桜島を臨む東の空は、放射状に朝日の光を広げる。
眩しさに目を細めた利良は、私学校の門扉を出ると壁伝いに辿々しく進んだ。
外気はかなり冷たいはずであるが、利良の体は、その冷たさをも感じない。内側も外側も火がついたように熱かった。
--水を、飲みたい。
--体を、冷やしたい。
そんな利良の後ろからゆっくりと、晋祐はついていった。一度拒絶された手前、再度手を差し伸べることは利良の自尊心をさらに刺激するだろう。しかし、あてもなく歩く利良を放っておけなかったのだ。
重たく暑い体を暫く引き摺り、利良は半分ほど凍った清水の前に膝をついた。
氷結した
そのに映し出される己が姿に、利良は苦笑した。
大警視の片鱗もない、
バシャン--!!
利良は、水鏡に映る自分に拳を叩き込んだ。氷の粒と水飛沫が清水の周りに大きく飛散し、陽光を反射して利良に纏わりつく。
「どこで、どけんして……。歯車が狂っしもたんじゃろか……」
微かに。
冷気にすら溶けてしまいそうな、小さな利良の呟き。
今まで胸に
瞬間、力を失ったかのように。利良の体が大きく傾いた。
「利良殿ッ!!」
少し後ろで、利良を見ていた晋祐が堪らず叫んだ。同時に大きな水飛沫と音を立てて、利良が清水に倒伏する。
晋祐の心臓や、血が。止まりそうなほど凍りついた。
転がるように駆け寄った晋祐は、倒伏した利良を抱き上げる。
「……なんで、こんなに熱いんだ!!」
浅く、荒く、呼吸をする利良にほんの少し安心はしたものの。異常なほど熱を放つ利良は、晋祐の目から見ても、予断を許さない状況であることは明らかである。
晋祐は自分より大きな利良を背負うと、無我夢中で走り出した。早朝に行き交う人々が眉を
背中の上で微動だにしない利良に、強い気持ちを伝えるべく。利良に向かって叫ぶように呟いた。
「利良殿……! もう少し、気張ってくれ!!」
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